第34話 稲作文化の伝来と日本語

農 耕生活は狩猟採集生活に比べて、はるかに生産性が高く、水田耕作などが始まると人口も増えるのが常である。稲作は鉄器とともに、中国から朝鮮半島を経由し て入ってきた。稲作と鉄器をたずさえて渡来した優勢な弥生文化に押し崩されて、縄文文化は弥生人によって吸収されてしまった可能性がある。

日 本列島に稲作文化が入ってきたのは、紀元前5世紀ないし4世紀のことだされている。最近の研究では、紀元前10世紀にさかのぼるという報告もある。狩猟採 集生活から定住農耕へかわることによって、歴史は大きく転換する。縄文時代の日本語がかなり深い霧のなかにあるのに比べて、弥生時代の日本語はおぼろげな がら、その痕跡をたどることができる。

稲 作文化の豊な蓄積を追い求めて、政治権力も進出してくる。漢の武帝は前109年に朝鮮半島を攻める。漢の軍勢は水陸二軍に分かれて、水軍は山東省から渡海 して大同江をのぼって都平壌を突き、陸軍は遼東半島から南下してこれに合流した。水軍の武将楊僕は五万の兵を率いて「斉より渤海に浮かび」衛氏朝鮮を討っ たと『史記』は伝えている。斉とは山東半島のあたりのことであり、黄河の河口にあたる。朝鮮半島は中国黄河流域の文化の洗礼を、すでに紀元前に受けていた のである。漢の武帝の版図は、東は朝鮮半島から、南は越南(ベトナム)、西は匈奴の地である敦煌のあたりまで及んだ。後に漢字文化圏と呼ばれる朝鮮半島か ら日本列島、南はベトナムに至る地域はすでに漢の武帝の時代に、その基礎がほぼ固められたということができる。

朝 鮮半島には楽浪、玄菟、真番、臨屯の四郡が置かれて、漢の支配は400年間続いた。漢の植民地には多くの官吏、商人、富豪、知識人などが住みつき、中国人 の移民も入植した。平壌にある楽浪郡の遺跡からは四川省で製造された美しい漆器や利器、貨幣類などが見つかっている。楽浪郡の支配範囲は現在のピョンヤン からソウルのあたりまで及び、玄菟郡は楽浪郡の北から遼東半島へと広がっていた。真番郡は南に現在の光州、木浦のあたり、臨屯郡は東部海岸をその勢力範囲 とした。後に楽浪郡以外は廃止され、楽浪郡の南には帯方郡が置かれたが、最盛時には現在の慶州、釜山など東南部の地域を除く、朝鮮半島全域が中国の植民地 になった。

そ れにともなって、支配者の言語である中国語が、朝鮮半島でも使われるようになり、中国語を母国語としない人々も中国語の語彙を借用した。文字の使用はまだ 少数の支配階級とその官僚たちに限られたに違いない。しかし、中国から送りこまれた役人や、入植した中国人たちは、アルタイ系の言語を話したであろう現地 人とコミュニケーションする必要に迫られた。そこで起ったことは、植民地時代にカリブ海の島々や太平洋の島々で、ヨーロッパからの入植によって起ったこと を思い起こせば、十分に想像がつく。朝鮮半島に住み着いた中国人は中国語を話し、朝鮮語のなかに中国語の語彙をもたらしたであろうことは、疑いの余地がな い。

中 国語と朝鮮語の混交が進み、ピジンやクレオールが生まれた可能性がある。ピジン・クレオールとは共通の言語がない人たちの間で、伝達の手段として用いられ る混交言語である。ピジンはごく限られた語彙と簡略な文法で、母語の異なる人びとの間のコミュニケーションに使かわれる。ピジンが次の世代に伝えられて、 ある言語社会の母語となったとき、クレオールになる。クレオールは言語としての機能をすべて備えているから、その場しのぎのことばではない。現代の朝鮮語 は漢の時代にクレオール化した言語の末裔である可能性がある。また、弥生時代の日本語のもとになった言語も、朝鮮半島でクレオール化した言語を受け継いで いる可能性がある。

 西暦220 年、後漢王朝が崩壊すると中国は三国時代に入り、魏の曹操、蜀の劉備、呉の孫権が鼎立する。呉は海戦を得意として、229年には海路遼東半島に軍を進め た。237年には孫権は兵隊2万をもって、揚子江沿岸の江夏郡に進攻した。そのとき孫権は海路経由で高句麗と手を結んでいたという。翌238年、魏は4万 人の遠征軍を遼東に送り、孫権の軍を滅ぼす。魏もまた海路経由で軍隊を派遣し、帯方郡、楽浪郡を支配下に置く。朝鮮半島には陸路からばかりでなく、遼東半 島を経由して海路からも江南の影響力が及んでいた。

400 年に及ぶ朝鮮半島の植民地支配は、朝鮮語や日本語の形成に大きな影響を与えた。現代の朝鮮語や日本語は、文献を通じて中国語から語彙を借用しただけでは説 明しきれないほど、中国語から多くの語彙を借用している。『三国志』烏丸鮮卑東夷伝によると「高句麗は遼東半島の東一千里の所にあって、南は朝鮮・濊貊と 接している」としている。濊は倭に通じ、貊は百済に通じる。「濊(わい)は、南は辰韓と、北は高句麗・沃沮と境を接し、東は大海の岸辺にまで及んで、いま の朝鮮の南部はみなその土地に含まれる」とあるから、倭人はその昔、朝鮮半島の東部に住んでいた可能性もある。

日 本列島でも、弥生時代の末期には生産力が向上し、各地で豪族が富を蓄積し、古墳を築くまでに至った。縄文人の言語は劣勢となり、弥生人の言語が優勢言語と なっていったであろうと考えるのが自然である。弥生文化の流入にともなって、中国江南地方のことばも日本語のなかに入ってくる。

日 本の古墳からは大量の中国鏡が出土する。中国の考古学者王仲殊が明らかにしたように、三角縁神獣鏡と同系の神獣鏡や画像鏡は中国江南地方、呉の故地から出 土しており、日本の前期古墳時代が中国江南地方の文化の強い影響下にあったことがうかがえる。古墳の建造そのものが中国文化の影響下で始まったともいえ る。遊牧・狩猟民族であったアルタイ系言語を話す人々は、移動して生活していたため薄葬の習慣をもっており、大型陵墓の造営は行わなかった。

古 墳文化は、中国大陸から朝鮮半島を経て日本にやってきた、農耕文化の蓄積のうえに花開いた文化である。日本語もまた、中国文化との接触のなかで形成されて きた。朝鮮半島や日本列島に住んでいたアルタイ系言語を話す人々は、中国から稲、金属器、古墳文化を受け入れるとともに、中国語の語彙も受け入れた。日本 語は中国、朝鮮半島、日本列島という東アジアのトライアングルのなかで育まれてきたのである。

日 本列島の住人である倭人も壱岐、対馬から金海に渡り、朝鮮半島の西岸を北上して、楽浪郡にまで達した。『魏志倭人伝』によると、倭の女王卑弥呼が魏の明帝 に朝貢したのは魏の景初3年とされるから、西暦紀元239年のことである。また、『後漢書東夷伝』によれば「漢委奴国王」の印が後漢の光武帝から与えられ たとある。建武中元2年のこととすると、西暦紀元57年ということになる。また、奈良県天理市石上神宮に所蔵されている七支刀(国宝)は東晋、太和4年の 紀年銘があるので西暦紀元369年ということになる。

石器時代、縄文時代の日本語についてはその痕跡をたどるのはむずかしい。しかし、弥生時代になると、どうやら日本語の姿がみえてくる。

もくじ

☆第32話 マンモスハンターのことば

★第33話 縄文時代の日本語

☆第35話 弥生時代の日本語

★第36話 金印の国「奴国」とは何か

☆第37話 魏志倭人伝の日本語

★第38話 古墳時代の日本語

☆第39話 飛鳥時代の日本語