第33話 縄文時代の日本語 日本列島では1万2千年前ころから縄文文化が栄えた。北は北海道から南は沖縄にいたる地域で、縄文人は縄文土器を整作し、それが今も発掘されている。青森県の三内丸山遺跡には縄文時代前期から、中期、すなわち、いまから5500年前から4000年前にわたる1500年のあいだ連綿として続いた集落のあとが残されている。 縄 文時代の日本列島には、日本語とは言語構造のことなるアイヌ語を話す人びとも住んでいた。しかし、アイヌ人が縄文土器を共有していた形跡はない。アイヌ人 とは別に、縄文土器を残した人びとがいた。縄文時代の日本列島には少なくともふたつの異なった言語を話す人びとが住んでいた可能性がる。 縄文人は狩猟採集生活を主としていたが、栗などの栽培なども行っていた。縄文時代も中期になると、縄文土器が使われた。煮炊きはもちろん、盛りつけ、食物の貯蔵にも用いられた。また、埋葬用の甕棺なども作られている。紀元前4000年ぐらいになると定住がはじまり、栽培植物として、ヒョウタン、エゴマ、ゴボウ、アサ、ウルシなどがみられるようになる。 現代日本語のヒョウタン(瓢箪)、ゴマ(胡麻)、ゴボウ(牛蒡)はいずれも中国語からの借用語であり、縄文時代のことばを伝えているとは考えられない。栗の古代中国語音は栗[gliet]であり、これが借用されて日本語の栗「くり」になったと考えることができる。アサは朝鮮語の麻(sam) と関係があるかもしれない。漆の古代中国語音は漆[tsiet]であるが、「ウルシ」の「ウル」は「漆」の朝鮮語読みである漆(chil)と関係がある可能性がある。 し かし、縄文時代にクリ、ヒョウタン、ゴマ、コボウなど、縄文生活の基本語彙が中国から借用されていたとは考えにくい。縄文時代を代表するこれらの植物をあ らわすことばが日本語のなかに入ってきたのは中国文化との接触がはじまって以降のことであろう。縄文時代の日本語と弥生時代の日本語の間には断絶があり、 縄文時代の日本語は消滅してしまった可能性がある。現代の日本語の原形は弥生時代に形成されたと考えざるをえないのではあるまいか。 縄文時代には焼畑耕作が行なわれていた可能性もある。焼畑は南島系の文化で、タロイモなどのイモ栽培を行う。コンニャクもイモ栽培文化の一環である可能性がある。 司馬遼太郎は中国を旅して「コンニャク問答」という文章を書いている。 私はかつて、コンニャクに興味をもち、この方面にくわしそうな人をつかまえては、コンニャクはどこからきたのでしょうか、ときいたりしたが、たれもがかぶりを振った。 司 馬遼太郎は結局、現代の中国ではコンニャクは四川地方だけで食べるということを知る。しかし、四川地方でも、もはやコンニャクということばは使われず、磨 芋豆腐(モーユードウフ)あるいは雪磨芋(シュエモーユー)と呼ばれている。豆で作る豆腐と、芋で作る豆腐である蒟蒻の共通点は、いずれもアルカリ系の凝 固剤を使うという点にある。日本で縄文時代に、コンニャクが栽培されていたかどうかは不明である。しかし、日本人の食感にあい、現代の日本人の食卓にもし ばしばのぼる「コンニャク」も語源をたどれば「蒟蒻」という漢語に行きつく。豆腐や蒟蒻も、結局その起源は中国にあり、ことばも中国語からの借用語であ る。 植物の栽培が 本格的にはじまるのは弥生時代になってからである。定住がはじまり、食物を栽培するようになると、狩猟採集時代にくらべて人口が急激にふえる。食料が安定 的に供給されるようになるからである。原始時代の人類の生活の様子はマリノフスキー、モース、レヴィストロースなど人類学者が報告している未開社会の生活 に近かったであろう。 日本列島にも原始社会があり、狩猟採集生活から焼き畑農業、食物栽培へと移っていった。芋などの栽培植物の名前はどこから来たのだろうか。日本語の芋「いも」は万葉集の時代には「うも」である。「うも」の「う」は中国語の芋(yu)であろう。万葉集にはつぎのような歌がある。 蓮葉(はちすは)は かくこそあるもの 意吉麿(おきまろ)が 家にあるものは 四川地方でコンニャクのことを磨芋(モーユー)というとすれば、芋磨(ユーモー)といういいかたはなかったのだろうか。芋磨は日本語のイモに近い。しかし、現代の漢和辞書には芋磨という語はのっていない。 レンコンも万葉の時代から食用にされていたのであろう。この歌では「蓮葉」と書かれているが詞書では「詠荷葉歌」となっていてハスの語源も中国語の荷子[hai-tziə]である。ハチスは「荷+チ+子」であり、「チ」は庭ツ鳥、沖ツ波の「ツ」にあたることばであろう。日本の辞書には蓮は訓がハスで音がレンと書いてあるが、ハスもレンコンも中国語からの借用語であり、ハチスはハスの転用である。 日常日本人の食卓にのぼる根菜類の「大根」や「人参」、「牛蒡」も漢語のようである。しかし、古事記、万葉集の時代の日本語には、「ダイコン」ではなくて「おほね」と呼ばれていた。古事記歌謡につぎのような歌がある。 つぎねふ 山城女(やましろめ)の 木鍬持ち 打ちし淤富泥(おほね) 根白の白腕(しろただむき) 枕(ま)かず来(け)ばこそ 知らずとも言はめ(古事記歌謡) 仁徳天皇の歌 とされるこの歌にある淤富泥(おほね)とは現代日本語の大根(だいこん)のことである。中国語には大根ということばはない。大根(だいこん)は和製漢語で ある。須之部淑男の『ダイコンをそだてる』(岩波書店)によると、ダイコンの原産地は地中海地方で、西アジア、インド、またシルクロードを経て、中国南 部、北部地方、朝鮮半島にも広がったという。 中国でダイコ ンについて記録が、はじめて出てくるのは紀元前2世紀頃に完成した『爾雅』である。古代中国ではダイコンのことを蘆菔(ルフ)と呼んでいた。その後、萊菔 (ライフ)あるいは、蘿蔔(ルオポ)と呼ばれて今日にいたっているが、大根(ダイコン)と呼ばれたことはない。ダイコンの学名はラファヌス(Raphanus)で、ギリシャでは今でもダイコンを「ラファニ」と呼んでいる。中国語の「ルフ」は「ラファヌス」から来たものである。 日本では「やまとことば」で「おほね」と呼んでいた。それが、後に和製漢語で大根(だいこん)と呼ばれるようになったのである。現代朝鮮語では大根はmu-uである。朝鮮語のmuは蕪、uは芋であり、中国語からの借用である。直訳すれば蕪芋ということになる。根菜類について中国語、朝鮮語、日本語の関係を調べてみると、意外にも共通語は少ない。これらの多くは外来種である。 日本語
中国語
朝鮮語 中 国の古い辞書にも蓮根や大根ということばがあったという記録はみあたらない。借用は中国語の語彙をそのまま借りるのではなく、荷子がハチスになったように 転移することもある。カボチャが朝鮮語ではジャガイモ(甘蔗)になったりすることもある。日本語では甘藷はサツマイモである。 ジャ ガイモは大航海時代以降南米から世界に広がったもので、縄文時代には中国にも日本にもない。日本語のジャガイモは「ジャガタラいも」であり、ジャカルタか ら渡来したと考えての命名であるという。中国語の「土豆」は、フランス語のポムドテール(土のりんご)式の命名である。 カボチャは中国語では「南瓜」、朝鮮語では胡瓠(ho-bak)で あり、胡(北方の異民族)から伝えられたものと考えられている。日本語のカボチャはカンボジアから来たという説もあるが、どうであろうか。根菜類の名には 縄文時代から受け継がれたと思われるものはほとんど見られず、弥生時代以降中国語を借用したものか、和製漢語を作りだしたものが多いことがわかる。 |
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