第19話 五十音図のなかの外来語音 日本語にはラ行ではじまることばはなかった。ラ行ではじまることばはなかったが、ラ行の音そのものが日本語になかったわけではない。たとえば万葉集にある持統天皇の歌をみてみると
春(はる)過ぎて 夏来るらし 白(しろ)
妙の 衣(ころも)ほしたり 天の香具山(万28) 語中や語尾にはラ行の音はあらわれる。しかし、語頭にあらわれることはない。万葉集ではラ行ではじまることばが使われている歌はただ一首だけである。 池神の 力士儛(りきしまひ)かも 白鷺の 桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛びわたるらむ 「力士舞」というのは伎楽の一種であり、金剛力士に扮した男が面をつけ、桙をもって舞った。「力士」は万葉集のなかで用いられている数少ないラ行で始まることばであ り、中国語からの借用語である。源氏物語のころになるとラ行のことばは、仏教用語を中心にかなり使われるようになる。ラ行で始まる日本語は、明治以前は中 国語から、明治以降は英語などヨーロッパの言語から入ってきた。
螺鈿(らでん)、駱駝(らくだ)、蘭(らん)、栗鼠(りす)、龍(りゅう)、瑠璃(るり)、
ライオン、 ラジオ、 ラシャ、 ラムネ(レモネードの転)、 ランプ、 リズム、 ラ行ではじまることばがないのはアルタイ系言語の特色のひとつであり、朝鮮語にもラ行ではじまることばはない。古代にさかのぼれば、さかのぼるほど日本語と朝鮮語は似ている。朝鮮語では今でもラ行で始 まる言葉はナ行音に置き換えられ、イ段ではラ行の頭音が脱落する。
盧武鉉(のむひょん)、 盧泰愚(のてう)、 李承晩(いするまん)、 「龍」、「蓮華」の日本漢字音はイ段でないが、語頭のlが失われるのは、中国語の原音が龍[liong]、蓮華[lian-hoa] であり、i介音が含まれているからである。外国語の発音は受け入れられる側の言語に同化する。日本語でも「硫黄」を硫黄「いおう」と読むのは、頭音のlが失われたものである。「やまとことば」のなかにも、中国語の lがナ行、タ行に転移した例、ラ行音が脱落した例などがある。 ナ行に転移: 梨(リ・なし)、 浪(ロウ・なみ)、 練(レン・ねる)、 ラ行とナ行、タ行は調音の位置が同じである。調音の位置が同じ音は転移しやすい。これらのことばは、日本人がラ行の頭音を発音できるようになる以前に、借用語として日本語のなかに取り入れられたもので ある。 古代の日本語ではラ行音が語頭にくることがなかったはかりでなく、鼻濁音が語頭にくることもなかった。現代の東京方言ではガ行鼻濁音が失われつつあるとい う。音楽学校ということばは標準語では「オンカ゜クガッコウ」と発音するのが正しいとされていた。「カ゜」というのは鼻濁音をあらわす。音楽の「カ゜」は 語中にあるから鼻濁音になり、学校の「ガ」は語頭にあるから鼻濁音にはならない。現代の東京方言では「オンガクガッコウ」と発音されることが多い。しか し、古代の日本人は語頭の鼻濁音を発音することができなかった。 朝鮮語では現在もガ行鼻濁音が語頭に立つことはない。中国語のガ行鼻濁音[ng-] は朝鮮漢字音では失われる。 魚 (eo)、 愕 (ak)、 我 (a)、 御(eo)、 牙 (a)、 雁 (an)、 愚(u)、 月 (wol)、 五 (o)、 玉 (ok) 「やまとことば」のなかにも、ガ行鼻濁音が失われたものがある。
魚(ギョ・うお)、 顎(ガク・あご)、 我(ガ・あ)、 吾(ゴ・あ)、 日本語の魚(うお)、顎(あご)などは中国語の鼻濁音が語頭で失われたものであり、朝鮮漢字音と共通である。「我」、「吾」は万葉集などでは「あ」「あれ」「わ」「われ」とし使われている。 吾(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山の雫に ならましものを(万108) 吾を吾(あ)とするのも語頭の鼻濁音が失われたもので、朝鮮漢字音と共通である。 中国語には日母と呼ばれる語頭子音がある。「日本」の日(ニチ)にあたる音である。日本漢字音でも呉音は日(ニチ)、漢音は日(ジツ)と発音される。日母は天然(テンネン)・ 自然(シゼン)などのように不安定な音で転移しやすい。「日本」は現代の北京音では日本(ri-ben)、広東語では日本(yaht-bun) であり、上海語では日本(zhek-ben) である。朝鮮語では頭子音が失われて日本(il-bon) になる。日本語のなかには中国語の日母[nj-] が脱落したと思われることばがいくつかある。
熱(あつい・ネツ)、 入(いる・ニュウ)、 潤(うるおう・ジュン)、 これらのことばは「やまとことば」と思われているが、朝鮮半島を経由して日本語に借用された、中国語起源のことばであろう。これらの漢字の朝鮮漢字音は次のとおりである。 熱(yeol)、 入(ip)、 潤(yun)、 柔(yu)、 軟(yeon)、 譲(yang)、 弱(yak)、 若(yak)、 日本語の訓と現代朝鮮漢字音は完全には対応していないが、少なくとも頭子音は対応しているようにみえる。また、これらの漢字の現代広東語音は次のとおりで、古代の江南音もこれに近かったのではないかと思 われる。 熱(yiht)、 入(yahp)、 潤(yeuhn)、 柔(yauh)、 軟(yuhn)、 譲(yeuhng)、 弱(yeuhk)、 若(yeuhk)、 呉音にしても漢音にしても日本漢字音は唐代の中国語の漢字音を規範として、定められ日本における漢字音の規範として辞書などにも掲載されてきた。しかし、中国の江南地 方の音や、朝鮮漢字音の影響を受けた発音を日本語は訓(やまとことば)のなかに継承しているのではなかろうか。 |
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