第18話 五十音図の来た道

 日本人は誰でも小学校に入ると、国語の時間に五十音図というものを教わる。もっとも小学校では「ひらがなひょう」などという名前で教わるから、すぐに五十音図という名前を知るわけではない。日本語の音 節は五十音で構成されている。

 本居宣長は『漢字三音考』のなかで「皇国の古言は五十の音を出ず。これ天地の純粋の音のみ用ひて。混雑不正の音をまじへざるがゆえ也」としている。また「外国人の音は。すべて朦朧と濁りて。たとへば曇 り日の夕暮の空を見るがごとし」といっている。

 日本語の五十音図はいつごろできたものなのだろうか。五十音図は仏教の世界で最初にできたもののようである。初期の五十音図は漢字で書かれている。天台座主良源によるとされる「五韻次第」はつぎのよう になっている。

 阿 伊 烏 衣 於
 可 枳 久 計 古
 左 之 酒 世 楚
 多 知 津 天 都
 那 爾
   奴  禰 乃
 波 比 不 倍 保
 摩 彌 牟 咩 毛
 夜 以 由 江 與
 羅 利 留 禮 呂
 和 為 于 恵 遠

 日本で音韻学が盛んになり、日本語の音韻構造が明らかになってきたのは空海の時代ころからのことである。平安時代の学問の中心は大学寮であった。大学寮には明経、文章 (もんじょう)、明法(みょうほう)、算(さん)などがあった。明経は行政を学ぶ。明法は今日でいう法科で、律令国家のしくみを学ぶ。文章は詩文・歴史を 学ぶ学問である。算は天文歴数を学ぶ。そのほかに音博士(おんはかせ)について唐の正音を学ぶ音韻学があり、空海もこれを学んだらしい。

 中国の音韻学はサンスクリット語(梵語)で書かれた仏典の研究によって発達した。サンスクリット語の世界では、言語哲学が古くから発達しておりサンスクリット文法の長 い伝統があって。また、聖語であるサンスクリットが、すべての宇宙のなりたちと動きに対応するものであるとされていた。空海が唐に留学したころの中国では 仏典を原典のサンスクリット語で読むことが盛んに行われており、それにともなって中国語の音韻構造も明らかにされつつあった。空海は中国でインド僧を教師 としてサンスクリット語(梵語)を学んだ。

 空海から34年遅れて入唐した天台宗の円仁は『入唐求法巡礼行記』、『在唐記』などを残しているが、そのなかでサンスクリットの字母である悉曇の音価について詳細に述 べている。サンスクリットには全部で10の母音がある。サンスクリットの音図では母音を次のような順序で並べている。サンスクリット語には長音と短音の区 別があるが、それを除くとサンスクリットの音図の順序は、五十音図の順序とまったく同じである。

a(阿)、ā(阿引)、i()ī(伊引)、u(塢)、ū(汚引)、e(曀)、ai(愛)、o()au(奥)

サンスクリットの子音は33ある。サンスクリットの子音を音図の順に並べて、それにあたる漢字音を示すと、日本語の(ア)カサタナハマヤラワの順になる。

カ行  ka (迦)kha(佉) ga(誐) gha(伽) nga()
   サ行  ca () cha(磋) ja ()  jha(酇)  njia(嬢)
  
タ行  ţa(吨)ţha(咤)ɖa(拏)ɖha(荼)nɖa(拏)ta(多)tha(他)da(娜)dha()
   ナ行  na(曩)
  
ハ行  pa(跛)pha(頗)ba(麼)bha()
   マ行  ma(莽)
  
ヤ行  ya(野)
  
ラ行  ra(囉)la(邏)
  
ワ行  va(嚩)
      
sha(捨)sjia(灑)sa(娑)ha(賀)
           (注:ţɖは反舌音)

日本語にない音を省いて並べればカ、サ、タ、ナ、ハ、マ、ヤ、ラ、ワとなる。このほかにahaɱがある。これは仁王像の憤怒の形相の「あ」・「うん」、あるいは狛犬さんの「あ・うん」にあたる。五十音図ではɱ が「ン」になって、番外につけられている。

サンスクリットは紀元前1500年ころまで遡ることのできる古い言語である。仏典を求めてインドに行った玄奘三蔵などが、中国に持ち帰り、それを漢訳した。日本では空海、最澄、円仁などの 留学僧が中国でサンスクリットを学んだ。五十音図は母音の並べ方も、子音の並べ方も、サンスクリットの音図の順番通りである。日本の五十音図は、サンスク リットの音韻学の影響を受けて平安時代に真言宗や天台宗の僧侶によって作られたものであることがわかる。

五十音図は平安時代に成立したものだから、平安時代の日本語の音韻体系を反映している。奈良時代の日本語には母音が八つあったはすだが、五十音図には母音は 五つしかない。平安時代の日本語では濁音は語頭にたつことがなかった。林(はやし)は語頭では林(はやし)と発音するが、語中では小林(こばやし)と濁音 で発音されるのがきまりだったので、濁音を別にたてる必要はなかった。しかし、中国語の語彙がたくさん日本語のなかに取り入れられるようになって、学校 (がっこう)とか疑問(ぎもん)という語が恰好(かっこう)とか鬼門(きもん)という語と区別して使われるようになると、濁音を表記する必要が生じてき た。「ン」は中国語の韻尾[-n][-m] を表記するために生れたものである。

日本語では、どの音も均等に現れるわけではない。『広辞苑』で、それぞれの行に費やしているページ数を調べてみると、つぎのようになる。

  [ア行]  375、  [カ行]  548、  [サ行]  510、  [タ行]  337
  
[ナ行]  128、  [ハ行]  334、  [マ行]  162、  [ヤ行]   92
  
[ラ行]   79、   [ワ行]   23

日本語ではア行、カ行、サ行の3行で始まることばが、3分の1をしめる。日本語には元来ラ行で始まることばはなかった。ラ行の頭音がないのはアルタイ語の共 通の特色であり、朝鮮語にもない。螺鈿、轆轤などはいずれも中国語からの借用語である。明治以降はヨーロッパなどからの借用語もありラ行ではじまる日本語 の語彙はふえている。

『広辞苑』ではラ行で始まる言葉が辞書にして79ページ、全体の約3パーセントもある。『時代別国語辞典(上代)』と『広辞苑』ではかなりの変化がみられる。(数字は%、上代→現代)

  [ア行] 20.014.4[カ行] 17.321.1[サ行] 11.619.7[タ行] 12.213.0
  
[ナ行]  7.04.9   [ハ行] 10.912.9[マ行]  10.86.2、 [ヤ行]   6.3 3.5
  
[ラ行]   0.4 3.0、  [ワ行]  3.4 0.8

ラ行ではじまることばは上代ではきわめて少ないが、『広辞苑』では『時代別国語大辞典(上代)』の約8倍になっていることがわかる。

もくじ

☆第19話 五十音図のなかの外来語

★第20話 いろは歌誕生

☆第30話 万葉集のなかの外来語

★第54話 漢字に漢字でカナをふる

☆第84話 新井満の現代語訳般若心経