第63話 国 語学者亀井孝の反論 カールグレンの説にたいして、国語学者の亀井孝は 徹底した反論を試みた。”Chinese Borrowings in Preliterate Japanese” (「文字以前の時代に日本が借用した中国語」)と 題する英文の論文を書いて「やまとことば」の純粋性を主張した。この論文は『亀井孝論文集』にも収められていて、カールグレンの論文以上の分量がある。亀 井孝の恩師である橋本進吉博士の十年祭をひかえて、それに合わすべく1951年から1952年にかけて執筆されたものである。 日 本語の起源に関する論点ばかりでなく、日本文化の形成、日本人の成り立ちに関する重要な視点がいくつか含まれている。亀井孝は「文字以前の時代に日本が借 用した中国語の語彙は後の文献時代の借用にくらべてごく稀にしか起こらなかった」と結論づけている。そして、その理由として二つの点を指摘している。 まず第1は、中国語と日本語は構造が違うという点である。 二つの言語の構造が異なれば、それだけ語彙の借用も困難になる。類似した言語の間では語彙の借用も起りやすいが、言語の構造が異なると借用は困難になると いうのが亀井孝の主張である。 第2には文化的、社会的背景である。言語の構造を 乗り越えて借用が起るとすれば、借用される新しい語彙にたいする、社会的必要性がかなり強くなければならない、と亀井孝は指摘する。 そのうえで亀井孝は、カールグレンが中国語語源で はないかとした語彙を、三つのグループに分けて、詳細な検討を加えている。 1.間違いなく誤りと認めうる例 2.多分に疑わしい例 3.あるいは認めてもよいかと思われる例 この論文は一般には目にふれにくい本であるうえ に、英文で書かれているので少し詳細に紹介することにする。 第1のグループについて、間違いなくあやまりと認 めうる理由はつぎの通りである。 ○ 「湿」は湿地の意味である。古代の日本では藻塩か ら塩を取っていたのであって、中国から製塩 法を学んだのではない。新井白石も「潮をば古語にはシホといひしを、倭名抄には、潮字読てウシ ホといひけ り。シホといひし義不レ詳。 ウシホといふは海潮(ウシホ)也。古事記には海塩としる したりき。食塩をもシホといへば、其名わかちいひしなるべし」と『東雅』のなかでいっている と、亀井孝は指摘する。つまり、古代日本の「シホ」は「潮」と「塩」の両方を意味する幅広いこ とばであり、カールグレンは「シホ」は「湿地」を意味し たとしているが、それは誤りである。 ○ 「蛺」
については、亀井孝はつぎのように批判する。「かひこ」を「かひ」と「こ」のふたつに 分けて考えることには、別に異論はない。しかし、「かひ」が中国語
の「蛺」つまり「蝶」からき ているのだとすると、「かひ」ということばがまず日本語として定着して、しかる後に「かひ・ こ」という複合語ができたはず
である。「かひ」が中国からの外来語で、「こ」が古来からの日本 語だとすると、いわゆる重箱読みになってしまう。文字時代になってからの漢語にも、重箱
読みの ことばはないわけではないが、きわめて少ない。「かひ」ということばが日本語として定着してし まい、中国語語源であることが忘れられてからで
ないと、そのような複合は起こらない。
たらちねの 母
が養ふ子の 繭隠り
こ
もれる妹を 見むよしもがも(万
2495) 平安時代以来、「養ふ子」あるいは「養ふ蠶」 は「かふこ」と読み習わされている。このことから も、「蚕」は平安時代以来「かふ・こ」であったことが分かる。したがって、湿(しほ)と蛺(か ひこ) は間違いなく誤りと認めうる。 第2グループの「多分に疑わしい例」には、それ ぞれ疑わしさの度合いの異なるものが含まれている。ひとつひとつについて要約するとつぎのようになる。 ○琢(とぐ)日本語の「とぐ」は「砥ぐ」であって 「琢ぐ」ではない。 ○剥(はぐ)日本語の「はぐ」は「刃ぐ」であって
「剥ぐ」ではない。 ○築(つく) 「堤」を「築く」などのような使いかたが、ないわけではない。しかし、「つく」 は「臼」を「舂く」、「鐘」を「撞く」などの用法が主で あり、家や壁を作ることは「つく」と はいわない。 ○析(さく) 動詞であり借用語である可能性は少ない。しかし、偶然の一致ということなら話は 別である。 ○槅(かき) 「垣」は「囲う」、「囲む」という動詞から形成された名詞であり、その逆ではな い。 ○ 熱(なつ)意味の転移が大き過ぎる。夏「なつ」は むしろ朝鮮語の夏(njərɯm)に近い。 ○閾(ゆか) 日本語の床(ゆか)の語源は不明だが、日本語では床(ゆか)は床(とこ)を意味 味する。 ○邑(いへ) 「家」のような基本語は外国語から借用されない。「い」は寝る、「へ」は隔てる であろう。 ○室(さと) 「里」と「室」は意味が離れてい過ぎる。生まれ故郷のような基本語は借用語には なじまない。 ○松(すぎ) 日本には「松」も「杉」もあり、なぜ中国語の「松」が日本語で「杉」になったか 説明がつかない。 ○麦(むぎ) 「むぎ」の「ぎ」は「木」だというが、麦は草である。「むぎ」の「ぎ」は古代日 本語では「ぎ(甲)」であり、杉の「ぎ」は「ぎ(乙)」であり、同じではない。 ○竹(たけ) 「竹」は、日本人の祖先が日本列島に住み始めた、太古の時代から日本にあった。 日本人の祖先は筍を食べていたに違いなく、「竹」には日 本古来の名前がついていたにはずであ る。 ○盆(ふね) 「ふね」が什器の意味で使われるのは、酒船、湯船など複合語の場合だけである。 日本は島国であり、「舟」には日本古来のことばがあった はずである。 ○坩(かま) 「壺」という意味で「かま」が使われるようになったのは、鎌倉時代以降である。 「壺」は古くは「鼎」である。平安時代には「竈」も竈 (かま)と呼ばれた。朝鮮語にも (kama) ということばがあり、竈と壺を意味する。 ○鎌(かま) 「鎌」が古代中国語音が鎌[kliam] で あったならば、日本語では「からま」になった のではないか。 ○秈(しね) 日本語では「いね」あるいは「よね」が一般的で、「しね」は複合語にしかあらわ れない。「いね」は「いな」と交替するが、「しね」につ いては不明である。 第3のグループは「一見あるいは、認めてもよいか と思われる例」である。 ○郡(くに) 古代日本語には「ン」で終ること ばはなかったので、郡[giuən] の 「ン」に母音がつ いて「に」になることは理解できる。しかし、なぜ「くな」、「くね」、「くぬ」、「く の」で なく「くに」になるのか、説明が十分でない。万葉仮名では天(て)、南(な)のように「ん」 が脱落している例もある。朝鮮半島における中国 の植民地は「郡」と呼ばれていたから、「国」 を「郡」と呼ぶのは朝鮮半島で起こり、それを日本に輸入した可能性も否定はできない。 ○ 絹(きぬ) 「絹」は布の意味にも使われる。日本語では「布」を表すことばとして「そ」と か「ころも」ということばもあり、「きぬ」と平行して使われていた。新井白石は『東雅』のな かで「絹をキヌといひしは、韓地の方言に出て、絹の字 の音の転じて訛れるやうにぞ聞こえ ぬ る」としているが、卓見である。 ○馬
(うま) 『魏志倭人伝』には「その地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲なし」とある。新井白石 は『東雅』で概ね、つぎのように述べている。 ○梅(うめ)「梅」は中国語からの借用であ ることが確実な、数少ないことばのひとつである。 「梅」あるいは「烏梅」は薬用として中国から輸入された。 亀井孝は、文 献時代以前に中国から借用されたと思われることばは、郡(くに)、絹(きぬ)、馬(うま)、梅(うめ)のみであり、これ以外には探し出すことができないと 結論づけている。中国語からの借用は、実際にはあったのかも知れない。しかし、その痕跡を探すことはができないのだから、借用はなかったという結論に達せ ざるを得ない、というのが亀井孝の考え方である。 『新 撰姓氏録』によれば、平安時代の初期でも畿内の人口の3分の1は外国人だったという。それにもかかわらず中国語からの借用語が痕跡を残していないのは、構 造の異なる言語の間では日常語の語彙の借用はむずかしいからである、と亀井孝は主張している。歴史時代に入ってからの借用も数の上では多いものの、借用語 は文語に使われただけで、日常語にはほとんど入ってきていない、と亀井孝はいう。徳川時代になってからも、漢語を使うことは気どった表現だと考えられてい た。日常語に漢語がたくさん使われるようになったのは明治以降のことであると、亀井孝は古代日本語の純粋性を強調している。 亀井孝は国語 学者のなかでも言語学全般について該博な知識をもった学者である。その学者が戦後になって、構造のことなる言語からの借用はむずかしい、などと主張してい たことは不思議に感じられる。戦後日本語は構造のまったく異なる英語からたくさんの語彙を借用している。我々は「父」「母」という日本語があるのに「パ パ」「ママ」という外来語に簡単にとってかわられることがあることを知っている。「ご飯」という日本語があるのに「ライス」になることもある。 日本に昔から あったものには和名があったはずであり、外国語を借用する必要はなかったという説明はどうであろうか。亀井孝は「竹は日本人の祖先が日本列島に住み始めた 太古の時代から日本にあった。日本人の祖先は筍を食べていたに違いなく、竹には日本古来の名前がついていたにはずである。」という。しかし、最近の英語か らの借用語をみてもすでにあることばが優勢言語からの借用語にとってかわられる例は枚挙にいとまがない。母はママになり、父はパパになり、ご飯はライスに なった。弥生時代は稲作や鉄をもった優勢な文化を取り入れた時代であった。ことばもまたその優勢な文化を背景としていた。 亀井孝は後に『日本語の歴史1 民族のことばの 誕生』(平凡社)で若干の弁明を試みている。 さ て、亀井の狙(ねら)いがどこにあったのかというに、それは、カールグレンの所説をたんにしらみつぶしに否定してみせることにあったのではけっしてない。 実は、亀井は、彼独自のひとつの大胆な仮説を抱懐していたので、それがはたしてどこまで可能なものかを世に問おうとこころみたのだった。カールグレンの提 案した語源の例は、さしたる数にのぼるものでない。すでにカールグレン自身、十分慎重な態度で問題に臨んでいるのであって、彼に先行する学者たちの業績 に、彼はきびしい批判の眼をあらかじめむけているのである。、、、カールグレンをしりぞければ、大昔の日本語に流入したシナ語の単語は、まず皆無であると いった解釈がいちおうの結論としてだせるであろうというのが、亀井の狙いであった。『日本語の歴史1 民族のことばの誕生』 (平凡社) この弁明を読んでも亀井孝の説は十分な説得力を もっているとは思えない。 |
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