第64話 国 学の伝統 亀井孝が論文を英語で書いたのは、日本語がいかに純粋な言語であるかを、外国人にも知ってもらうためであろう。しかし、外国の言語学者は必ずしも亀井孝の 意図どおりには受け取らなかった。例えばアルタイ語の研究者であるロイ・アンドリュー・ミラーは『日本語・歴史と構造』(日本語版、三省堂)のなかで、つ ぎのように評している。 亀 井孝は日本語における古代シナ語借用語と推察されるものを事実上すべて反証しようと試みてきた現代の学者であるが(中略)このような借用語の当否に関する 議論の多くはいたずらに紙数を費やすだけであった。何故ならその問題の本質自体が可能性と蓋然性との区別を極度に難しいものにしているからである。これら の語源の多くは可能性を示し、その多くが蓋然性を示している。しかしそれ以上のことを確信をもって論じることはまず不可能である。(『日本語・歴史と構造』p.235) 日本の国学は、国史とともに、皇国史観によって日本のアイデンティティを明らかにする役割を背負ってきた。そして、伝統的に日本人だけの手によって担われ てきた。国文学者久松潜一は国学の本質を「明確に日本的立場を以て純粋日本的なるものを闡明しようとする学問」であると規定している。また、国語学者の山 田孝雄は、現在も再版されている『國語學史要』(岩波全書)のなかでつぎのように述べている。 我 々のいふ國語學は日本國の標準語を研究するものであるから、この國語を如何なる人が研究しても我々はこれを國語學といひうるかといふ問題がある。西洋人で も、支那人でも、わが國語を研究することはもとより差支無いことであるし、又事實上西洋人がわが國語を研究をした業績も多少存するのである。かやうな場 合、これを國語學と偁へて差支ないか、どうかといふことが一の問題である。西洋人のわが國語を研究したそれは西洋人の立脚地からいへば、日本語學といふに は差支はあるまいが、国語學といふことは出来ぬ譯である。(『國語學史要』p.5) やまとことばと考えられていることばのなかに、中国語起源のことばが混入しているというカール グレンの仮説は、本居宣長以来やまとことばの純粋性を信奉 する、国学のタブーに挑む結果になって しまったのである。亀井孝が仮に、カールグレンと共同作業をして研究し、さらに中国語の学者や韓 国、朝鮮の学者 と共同で研究していたら、別の結論に達していたかもしれない。しかし、残念ながら そのような学問的風土は戦後になっても育っていなかった。国学あるい は、国語学は、日本人の、日 本人による、日本人のための学問であった。 日本語の語源研究は、いまだに当たるも八卦、当たらぬも八卦といわれるほどに進展していない。 専門家の著書でも、語源説話あるいは語源譚の域を出ないも のが少なくない。その原因は日本語の語 源を、日本語のなかにのみ求めようとするからである。日本語が純粋な日本語のみによって形成され てきたという、 循環論の輪のなかにはまりこんでしまうからにほかならない。やまとことばがどのよ うに形成されてきたかが明らかにされない限り、現代の日本語がどのよう にして形成されてきたかは 明らかにすることはできない。 亀井孝は国語学者であるが、ヨーロッパの言語学にも深い関心をもった数少ない国際派の学者の一 人である。その学者の論説が、カールグレンなど欧米の学 者によって出された仮説を、日本人の立場 から検証し、反論すべきところは反論し、補強すべきところは補強して、深めていくような環境にな いことは、日 本語の研究だけでなく、日本の歴史研究にとっても不幸なことである。科学や工学の分 野では、日本人の学者も日常的に欧米の学会の論文に目を通し、自らも 必要ならば英語で論文を発表 するということが行われている。しかし、長く閉鎖的な伝統をもった国語学は、一般言語学ともほと んど交流はなく、学会の外 からの提言については、共通の基盤のうえで議論されることもない。最近 になって、国語学会は日本語学会と名称を変えた。しかし、日本語学会も西欧の言語 学、中国語の言 語学、韓国の言語学会などとはほとんど交流もない。日本の国語学あるいは日本語学が、外国の言語 学との間にはかなりの乖離があること は、否定できない。 国語学は外国人に理解されないことによって、そ のアイデンティティを保っているとさえいえる。 ロイ・ミラーは、先に引用した『日本語・歴史と構造』の日本語版のための序のなかで、つぎのよ うに述べ ている。 今日、日本の学問研究諸分野が国外に目を向け、少なくとも海外の 学問的発展に伍して行 こうと真 剣な努力をしているのに対し、日本語研究ばかりは概して例外となっている。その結果、日本の国 語学者のあまりに多くの人々が、海外の学者に よって成されてきた仕事を皆目知らず、そうした外 国人の研究を利用することも批判することもできないでいる。このような状況は双方にとって不幸 であ る。外国の日本語研究は、日本の学者に期待し得るはずの詳細な批評や有益な示唆を受けるこ とができないという損失をこうむる。そして(これは著者個人の 意見であるが)日本における日本 語研究もまた、世界の言語学研究の主流から自らを切りはなすことになり損失を受けるのである。 (p.vi) 日本語は古代に遡れば遡るほど、中国語や朝鮮 語の影響を強く受けている。古代の日本語を解明 し、日本語の源流を遡るためには中国語、朝鮮語をはじめ、一般言語学や歴史学、考古学、人類 学など 関係諸分野の国際的な共同作業が欠かせない。 |
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