第202話  ゆふ(夕)の語源

 
【ゆ ふ(夕)】
今 日もかも明日香の河の夕(ゆふ)さらずかはづ鳴く瀬の清(さや)けかるらむ(万356)
た まゆらに昨日の夕(ゆふべ)見しものを今日の朝(あした)に戀ふべきものか(万2391)

  古代中国語の「夕」は夕[zyak] である。「夕」と同じ声符をもった漢字に夜[jyak]、液[jyak] がある。「夕」の日本漢字音は夕(セキ・ゆふ)、「夜」は夜(ヤ・よ・よる)である。「夕」と「夜」は義(意味)が近い。日本語の「ゆふ」は夕[zyak] の頭音が脱落したものである。「ゆ+ふ」の「ふ」は夕[zyak] の韻尾の転移したものである。

 「夜」は夜(よ・よる)が訓とされ、夜(ヤ)は 音とされているが、いずれも夜[jyak] の韻尾[-k] が脱落したものである。「よ+る」の「る」も夜[jyak] の韻尾の痕跡を伝えている。夜(よ)のほうが古く、夜(ヤ)のほうが新しい。夜(ヤ)は介音[-y-] の発達による転移を示唆している。夜(よる)、夜(よ)、夜(ヤ)、夕(ゆふ)ともに、中国語の夕[zyak]  と同源である。

 【ゆみ (弓)】
梓 弓(あづさゆみ)弓腹(ゆはら)振り起し志乃伎羽(しのきは)を二つ手挟(たばさ)み離(はな)ちけむ人し悔(くや)しも戀ふあく思へば(万3302)
大 夫(ますらを)の弓上(ゆずゑ)振り起し獦高(かりたか)の野邊さへ清く照る月夜かも
(万1070)

 日本語の弓(ゆみ)は中国語の弓[kiuəm]  と同源である。日本語の「ゆみ」は弓[kiuəm] の頭音[k-]が介音[-i-]の影響で脱落したものである。

 【よ (夜)】
海 原(うなばら)の道遠(とほ)みかも月讀(つくよみ)の明(あかり)少なき夜(よ)は更けにつつ(万1075)
水 底(みなそこ)の玉さへ清く見ゆるべくも照る月夜(つくよ)かも夜(よ)の深(ふ)け去(ゆ)けば(万1082)
逢 (あ)はむ夜(よ)は何時(いつ)もあらむを何如(なに)すとか彼(そ)の夕(よひ)逢ひて言(こと)の繁(しげ)きも(万730)

  日本語の「よ」は「夜」の上古音夜[jyak] の韻尾が脱落したものである。日本語の「ゆふ」 「よる」「よ」「ヤ」と中国語の「夜」「夕」とは同系統のことばである。スウェーデンの言語学者B.カールグレンの用語でいえば同じ「ワード・ファミリー (単語家族)」に属する。
参照:【ゆふ(夕)】、

 【よ (世)】
う つせみの世(よ)の事なえば外(よそ)に見し山をや今はよすかと思はむ(万482)
現 世(このよ)には人言(ひとごと)繁(しげ)し來(こ)む生(よ)にも逢(あ)はむ吾が背子(せこ)今ならずとも(万541)

 日本語の世(よ)は中国語の世[sjiai] の頭音が脱落したものである。古代中国語の世[sjiai] は口蓋化の影響で頭音が脱落し[jiai] に近い音価をもったものとして日本に伝えられた。日本語の世(セ・よ)と中国語の「世」とは同源である。

 【よこ (横)】
青 山を横ぎる雲の灼然(いちしろく)吾(われ)と咲(ゑ)まして人に知らゆな(万688)
垣 ほなす人の横辭(よこごと)繁(しげ)みかも逢(あ)はぬ日數多(まねく)月の經(へ)ぬらむ(万1793)

  古代中国語の「横」は横[hoang]である。日本漢字音は横(オウ・よこ)である。 「横」と同じ声符をもつ「黄」の古代中国語音は黄[huang]であり、日本漢字音は黄(コウ・オウ・き)であ る。中国語の喉音[h-]は7世紀ごろ[-iu-]介音の発達によって脱落した。横[hoang] [huang]はその影響を受けて頭音[h-]が脱落した。
 日本語の「よこ」は中国語の横と同源
である。「よ+こ」の「こ」は中国語の韻尾[-ng] [-k] に近い音であった、隋唐以前の中国語音の痕跡を留 めている。
参照:第201話【ゆく(行)】、

 【よし (由)】
今 更に会ふべき与之の無きがさぶしさ(万2734)
妹(いも)が門(かど)去(ゆ)き過ぎかねつひさかたの雨も零(ふ)らぬかその因(よし)にせむ
(万2685)

  万 葉集などでは「よし」に「因」「由」「縁」が用いられていて、いずれも意味は近い。しかし、日本語の「よし」に音義ともに近いのは「由」であ ろう。
 古代中国語の「由」は由
[jiu]であったと考えられている。声符「由」には軸[diuk]、宙[diu]、抽[thiu]などさまざまな発音がある。恐らく声符「由」は次 のような音韻変化をたどってきているもの思われる。

 軸[diuk]→宙[diu]・抽[thiu]→由[jiu]

 日本語の「よし」は上古中国語の韻尾[-k]の痕跡を反映しているものであろう。中国語の韻尾 には[-p][-t][-k][-m][-n][-ng] はあるが[-s] とか[-l] はない。「よ+し」の「し」は日本語として受け入れられるために日本語の音韻体系に順応するための転移であろう。
 中国語の韻尾が日本語でサ行にその痕跡を留めているものとしては次のような例をあげることができる。

 例:石[zjyak] いし、伏[biuək] ふす、吉[kiet] よし、樫[kyen] かし、串[hoan] くし、

  中国語 の入声韻尾[-p][-t][-k] は江南音(上海)では明確に弁別されておらず、韻尾が閉鎖音になったいるため、日本語ではサ行に転移するものもあったのであろう。また[-n]の上古音は[-t] に近く、そのために日本語ではサ行に転移するもの もあったと考えられる。

 【よし (吉)】
淑 (よ)き人の良(よ)しと吉(よ)く見て好(よ)しと言(い)ひし芳野吉(よ)く見よ良き人四來(よく)見(み)(万27)
月 夜吉(よ)し河音(かはと)清(さや)けし率(いざ)此間(ここ)に行くも去(ゆ)かぬも遊びて歸(ゆ)かむ(万571)

  古代中国語の「吉」は吉[kiet] である。日本漢字音は吉(キチ・キツ・よし)である。日本語の「よし」は中国語の「吉」に意味が近い。日本漢字音の訓は漢字に意味の近い「やまとことば」 をあてはめたと考えれば、「よし」は「やまとことば」だというこになる。しかし、吉(よし)は中国語の[kiet] の頭音[k-]が介音[-i-]の影響で脱落し、韻尾の[-t]がサ行に転移したものだとしたら、日本語の「よ し」は中国語の[kiet] と同源だということになる。
参照:【よし(由)】、

 【よね (米)】
湯 沐(ゆ)の米(よね)を運ぶ伊勢國の駄五十匹、菟田郡家(みやけ)の頭(ほとり)に遇(あ)ひぬ。仍(よ)りて皆米(よね)を棄(す)てて歩者(かちび と)を乗らしむ(天 武紀元年)
「し かも與彌(よね)は山田はたまはずあらむ。」(正倉院仮名文書)

  古代中国語の「米」は米[mei]である。日本語の「よ+ね」は中国語の米[mei]の語頭に「よ」を添加したものであろう。中国語の[m-]の語頭に母音やヤ行音を添加する例としては、妹[muəi](いも)、梅[muə](うめ)、馬[mea](うま)、夢[miuəng](いめ・ゆめ)がる。
  米(よね)は「いね」にも近い。日本語の「いね」には「稲」の字があてられているが、語源としては米(いね)である可能性もある。中国語の
[m-]が日本語の訓でナ行であらわれる例は多い。

 例:名(メイ・な)、鳴(メイ・なく)、無 (ム・ない)、眠(ミン・ねむる)、
   猫(ビョウ・ねこ)、苗(ビョウ・なえ)

 米(よね)は米(こめ)という訓もある。中国語 の「米」の祖語は米[hmei] の ような入りわたり音があり、米(こめ)は入りわたり音[h-] の痕跡を留めたものであろう。
参照:第163話【いね(稲)】、第173話【こめ(米)】

 【よる (寄)】
大 伴の名に負ふ靫(ゆき)帯(お)びて萬代(よろづよ)に慿(たの)みし心何所(いづく)か寄(よせ)む(万480)
浪 のむた彼縁(より)此(かく)依(よる)玉藻なす依(より)寝し妹を、、(万131)
秋の田の穂向きの縁(よれ)ること縁(より)に君に因(より)なな事痛(こちた)かりとも
(万 114)

  古代中国語の「寄」は寄[kiai] である。日本語の「よる」は中国語の寄[kiai] の頭母音が介音[-i-] の影響で脱落したものである。「寄」と同じ声符をもった漢字に椅子の椅[iai] がある。寄(よる)は寄[kiai]の語頭音が失われたものに依拠したものであろう。

 日本語のア・ヤ・ワ行は転移しやすい。ヤ行は直 音(ア)の拗音化したものであり、ワ行は直音(ア)の合音化したものである。

 例:闇(アン・やみ)、役(エキ・やく)、益 (エキ・ヤク)、訳(ヤク・わけ)、
   湧(ユウ・わく)、往(オウ・ゆく)、横(オウ・よこ)、液(エキ)・腋(わき)、
   域(イキ)・惑(ワク)、委(イ)・矮(ワイ)、

 日本語の「よる」には寄[kiai]のほかに、依[iəi]、縁[jiuan]、因[ien] も あてられている。中国語の意味は寄(よりかかる)、依(物の陰に隠れる)、縁(ふち、へりからたどる)、因(よる、ふまえる)である。それぞれ意味の範囲 の広 い、狭いはあるが、日本語の「よる」に音義ともに近い。日本語の「よる」は中国語の「寄」「依」「縁」「因」と同系のことばである。

 【よろこ ぶ(悦)】
「此 を聞(きこ)し食(め)し驚き悦(よろこ)び貴(たふと)び念(おも)ほさくは盧舎那佛(るさなほとけ)の慈(いつくし)び賜ひ、福(さきは)へ賜ふ物に 有りと念へ、、」(詔)
「船 居作り給(たま)へれば悦(よろこ)び嘉(うれ)しみ禮代(みやしろ)の幣帛(みてくら)を、、、進奉(たてまつ)らくと申す。」(祝詞、唐の使を遣はす時の奉幣)

  古代中国語の「悦」は悦[jiuat] である。「悦」の日本漢字音は悦(エツ・よろこぶ)である。また、「悦」の朝鮮漢字音は悦(yeol) である。
 日本語の「よろ+こぶ」の「よろ」は朝鮮漢字音の悦
(yeol) に近い。朝鮮漢字音では中国語の韻尾[-t]は規則的に[-l]に転移する。[-t][-l] は調音の位置が同じであり転移しやすい。古代日本語の書記者である史(ふひと)はほとんどが朝鮮半島出身者であったことから、古代日本語の音韻構造は朝鮮 語の影響をかなり受けていたものと思われる。

 日本語の「よろこぶ」の「よろ」は「悦」の朝鮮 語読み悦(yeol) に由来するのではなかろうか。「こぶ」の起源については明らかではない。喜[xiə] あるいは欣[xiən] と 関係があるのではなかろうか。日本語の「よろこぶ」の語源は「悦喜」あるいは「悦欣」である可能性がある。
 「悦」「喜」「欣」の中国語での義(意味)は悦 (よろこぶ)、喜(よろこぶ)、欣(よろこぶ)である。日本語の「よろこぶ」と中国語の「悦喜」あるいは「悦欣」は音義ともに近い。しかも、中国語には 「悦喜」あるいは「悦欣」とう成語もある。

 【よわし (弱)】
玉 の緒(を)を片緒(かたを)に搓(よ)りて緒(を)を弱(よわ)み亂(みだ)るる時に戀ひずあらめやも(万3081)
「然 (しか)るに、、、既に身體(み)悉(ことごと)く痩(やさか)み弱(よわ)りて祭(いは)ひまつること能(あた)はず。」(垂仁紀25年)

  古代中国語の「弱」は弱[njiôk] である。日本漢字音は弱(ジャク・ニャク・よわ い・よわし)である。朝鮮漢字音では日母[nj-] は規則的に脱落するので「弱」の朝鮮漢字音は弱(yak) である。日本語の「よわい」「よわし」は朝鮮漢字音に近い。弱(よわし)は中国語の弱[njiôk] の語頭音が脱落してものであろう。

 日本語のヤ行(拗音)とワ行(合音)は転移する ことがある。

 例:訳(ヤク・わけ)、涌(ユウ・わく)、踊 (ヨウ・をどる)、甬(ヨウ)・桶(をけ)、
   雄(ユウ・を)、など。

 日本語の「よわし」は拗音と合音の痕跡を両方留 めている。柔[njiu](やわら)なども弱(よわし)に近い。王力の『同 源字典』によれば、「柔」と「弱」は同源である。日本語の「よわし」「やわら」も「柔」「弱」と同系のことばであろう。

 
 日本語のヤ行は中 国語の[-i-]介音の発達にによって頭音が脱落したものが多い。

 1.中国語の古代音が拗音であるもの。

  楊[jiang] やなぎ、闇[əm] やみ、夜[jyak]よ ・よる、由[jiu] よし、悦[jiuat] よろこぶ、

2.口蓋化・摩擦音化などによる頭音の脱落

  矢[sjiei] や、舎[sjya] や、世[sjiai] よ、夕[zyak] ゆふ、床[dziang] ゆか、彌[miai] や、
  米
[mei] よね、山[shean] やま、湯[thang] ゆ、

3.疑母[nj-]、日母[ng-]、来母[l-][-i-]介音による脱落

  柔[njiu] やはらか、譲[njiang] ゆづる、弱[njiôk] よはし、焼[ngyô] やく、梁[liang] やな、

4・喉音[h-]・後口蓋音の[-iu-]介音などによる脱落

  往[hiuang] ゆく、行[heang] ゆく、横[hoang] よこ、遣[kian] やる、弓[kiuəm] ゆみ、吉[kiet] よし、
  寄
[kiai] よる、

☆もくじ

★第161話 古代日本語語源字典

第203話 りきし(力士)の語源