第163話 いか(如何)の語源
『論語』に「如何(いか)ならば斯(すなは)ち之(これ)を士と謂(い)ふべきか」(子路)などがあり「如何」は漢語である。 【いき(息)】 万葉集では「いき」は息、伊企、伊伎、伊吉、氣な
どと表記されているが、日本語の「いき」は中国語の息[siək]と同源であろう。心母[s-]、山母[sh-]などの頭音は脱落しやすい。 摩擦音の声母が[-i-]介音の前で脱落した例としては、秈[shean]・(セン・いね)、山[shean]・(セン・やま)、色[shiək](ショク・いろ)、生[sheng](セイ・ショウ・いく・いきる)、宵[siô]・(ショウ・よい)、夕[zyak](セキ・ゆう)、矢[sjiei]・(シ・や)、世[sjiat/sjiai](セ・よ)、逝[zjiat/zjiai](セイ・ゆく)、洗[syən]・(セン・あらう)、舎[sjia]・(シャ・や)、相[siang](ソウ・あふ)などである。また、輸[sjio](ス・ユ)のようにサ行とヤ行の両方の読み方のあ
る漢字もある。 日本語でサ行で発音される漢字のなかには中国語音
が照母[tj-]、神母[dj-]のものもある。射[djyak/djyai]・(シャ・いる)、折[tjiat]・(セツ・おる)、織[tjiək]・(ショク・おる)、植(ショク・うえる)などで
ある。これらの漢字音は介音[-j-]の影響で摩擦音化されたものである。これらの漢字
は現代北京語音でも射(she/ye)、折(zhe/she)、織(zhi)、植(zhi)のように摩擦音に変化している。 同じ声符の漢字
をサ行とヤ行に読みわけている漢字もある。除(ジョ)・餘(ヨ)、序(ジョ)・予(ヨ)、施(シ)・也(ヤ)、侈(シ)・移(イ)、失(シツ)・佚(イ
ツ)などである。同じ声符号の漢字の音に頭音の脱落したものとそうでないものがあることから、このような頭音の脱落は日本に来てからおこったものではな
く、なく中国で隋唐の時代以前に起こっていたものと考えられる。 息(いき)は複合語では息(おき)で現われること
もある。 鳰
鳥(にほどり)の息長(おきなが)川は絶えぬとも君に語らむ言(こと)盡(つき)めやも
「痛」の古代中国語音は痛[thong]である。日本語の痛(い+たし)は中国語の痛[thong]の語頭に母音「い」を添加したものであろう。悼(い+たむ)も悼[dô]の語頭に母音「い」が添加されたものである。古代日本語では濁音が語頭にくることはなかった。そのため、語頭に濁音のある語には母音が添加された。出[thiuət] は出(い+でる)、となり泉[dziuan]は泉(い+づみ)となったと考えることができる。
同じ声符をもった漢字でカ行とア行に読みわけるものもいくつかあげることができる。例:奇[kiai](キ)・椅[iai](イ)、季[kiuet/kiuei](キ)・委[iuai](イ)、貴[kiuəi](キ)・遺[jiuəi](イ・ユイ)などである。国[kuək](コク)・域[hiuək](イキ)、廣[kuang](コウ)・黄[huang](コウ・オウ)・横[hoang](オウ・よこ)のように匣母[h-]を頭音にするものもあるが、頭音の脱落には介音が関与しているものとみられる。
【いま(今)】 「今」の古代中国語音は今[kiəm]である。日本語の今(いま)も中国語の頭子音が脱
落したものである。 【いまだ(未)】 「未」の古代中国語音は未[miuət]である。中国語の明母[m-]は古代日本語では語頭に母音が添加されることが多
い。夢[miuəng]・いめ、妹[muət/muəi]]・いも、などである。馬[mea]・うま、梅[muə]・うめ、のように「う」が語頭に添加されることも
ある。 【いむ(忌・禁)】 「忌」「禁」の古代中国語音は忌[giə]、禁[kiəm]である。記紀万葉では忌、斎などの文字が用いられ
ているが、『名義抄』には「禁、諱、忌、斎・イム」としてあり、日本語の「いむ」の語源としては「禁」であろう。 【いめ(夢)】 「夢」の古代中国語音は夢[miuəng]である。日本漢字音は夢(ム・ボウ)であり、訓は
夢(いめ・ゆめ)である。「いめ・ゆめ」は中国語の「夢」と同源であり、語頭に母音が添加され、韻尾の[-ng]が失われている。古今集や源氏物語の時代になると
夢(いめ)は夢(ゆめ)に変化する。 思
ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢(ゆめ)と知りせばさめざらましを(古今552) 【いも(妹)】 古代日本語の「いも」の語源は中国語の妹[muət]あるいは妹[muəi]である。しかし、日本語の「いも」は意味の範囲が
広く、男から妻や恋人・姉妹などの親しい女性を呼ぶときに使われる。 【いゆ(癒)】 「癒」の古代中国語音は癒[jio]で
ある。辞書によると音は癒(ユ)、訓は癒(いえる)となっている。日本語の「いえ」あるいは「いゆ」はヤ行のエをあらわしたものであろう。古代日本語には
ヤ行のエ(枝など)があったが、五十音図ができた時点ではヤ行のエはア行のエと合流していたので、五十音図にはヤ行のエはない。 中国語には動詞の活用はないが、日本語の動詞とし
ての「癒」は下二段活用する。 【いる(入)】 古代中国語の「入」は入[njiəp]である。日母[nj-]は朝鮮語や古代日本語では脱落することが多い。
「入」の朝鮮語音は入(ip)である。韻尾の(-p)は日本語では入(ニュウ)のように発音されること
が多いが、「入水」、「入声」などのように入唐(ニットウ)、入声(ニッショウ)、入水(ジュスイ)のように(-t)に近い発音になることもある。 すでに厭[iap]の項で見たように中国語の入声音[-p]は厭[iap]・(アツ)、立[liəp]・リツ、湿[siəp]・シツ、接[tziap]・セツ、摂[siap]・セツ、のようにタ行に転移することもある。 入声音(韻尾の[-p][-t][-k])は現代の中国語方言でもさまざま形に変化してい
る。
広東語では[-p][-t][-k]の区別が保たれており、上海語では[-p][-t][-k]は合流して[-k]に近い音になっている。北京語では[-p][-t][-k]の韻尾は失われている。朝鮮語では[-t]が[-l]に転移している。日本漢字音の[-p]が[-t]に近いものであったとすれば、「入」が入(いる)
に転移したとしても不思議はない。 【いる・いゆ(射)】 「射」の古代中国語音は射[djyak]である。日本語の射(いる)は語頭子音が脱落した
ものである。韻尾の[-k]は[-l]に転移している。 【いろ(色)】 「色」の古代中国語音は色[shiək]である。日本語の色(いろ)は語頭子音が脱落した
もので、韻尾の[-k]は[-l]に転移している。 |
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