第102話 アイヌ語訳の聖書

 柳田国男が「海上の道」を書いて以来といおうか、島崎藤村が「椰子の実」の詩を書いて以来といおうか、日本民族南方起源説、あるいは日本語南方起源説を支持 する人は専門家のなかにも多い。日本語圏の北にはアイヌ語圏、イヌイット語圏が広がり、南にはオーストロネシア語圏が台湾・グアム・サイパンからフィリピ ン、インドネシア、マレーシアへと広がり、東はハワイ・イースター島、西はマダガスカルまで広がっている。日本語は北のことばとより多くの共通点をもっ ているのか、南のことばに近いのか、アイヌ語とチャもロ語(グアム・サイパンのことば)との比較によって、検証してみる。

 アイヌ語はかつて日本列島で東北から北海道にかけて、かなり広い範囲で話されていた、地理的には日本語に一番近いことばである。聖書は明治時代にキリスト教布教のため に来日したイギリス聖公会の司祭ジョン・バチェラーによって翻訳された。バチェラーは1887年(明治10年)に来日し、アイヌ・コタンに住みつき献身的 にキリスト教の布教につとめるとともに、1889年には”An Ainu-English Dictionary”の初版を出版し、また1897年には聖書を翻訳している。

  翻訳聖書ヨハネ福音書第1章
   Yoannes

1.    初めもことばがあった。
      Atpake-ta    anak  ne     Itak    an, 
   はじめ-に   -は     ことば ある 

  ことばは神と共にあった。
            Itak    anak   Kamui  tura  an,
   ことば -は  神   と共に ある

  ことばは神であった。
            Itak    anak  ne  Kamui  ne   ruwe- ne.
   ことば -は    神     である

  アイヌ語のitak(ことば)は東北の恐山などにみられる巫女の「いたこ」と関係のあることばで あるといわれている。また、kamui(神)も日本語の「神」からの借用語ではないかと考えられ ている。ただし、アイヌ語のkamuiは熊をあらわすこともある。Kim-un-kamuiといえば熊であ  る。Kimは「山」、unは「住む」である。
   アイヌ語の語順の基本形は主語+目的語(または補語)+動詞で日本語と同じである。
   
アイヌ語は前置詞でなく後置詞つまり助詞(ta「に」、anak「は」、tura「と」など)を多用す る点でも、日本語と似ている。
   
neは日本語に対応することばを見つけることがむずかしいアイヌ語である。田村すず子による とne=①である(動詞)、②その(連体形)、③何らの(連体形)、④、、、になる、、、する (格助詞)として使われるという。
  ruweは名詞化辞で、「確かに、、である」を意味する。

2.    このことばは、初めに神と共にあった。
      Nei  Itak   anak   ne      atpake-ta       Kamui   tura          no          an    
     その ことば - は である はじめ-に 神  と共に まさに(強調) あった

    nisa     ruwe-ne  
           (過去形)  のである

3.万物はことばによって成った。
      Obitta    no     an        okaibe  anak     ne           nei       Itak        orowa
     すべての(強調)ある 存在物-は   であるこのことばによって

         no     akara,
     (強調) 造られた

 成ったものでことばによらずに成ったものは何一つなかった
     orowa,     akarape  shinep  ne      yakka  
   によって  造られた  物  
で ある  けれども

  Shinuma  isama         no    akara        shomoki          nisa       ruwe- ne.
    それない(否定)  (強調)  造られる   ない(否定)  (過去完了)    のである

  ○アイヌ語ではisama(否定辞)、shimoki(否定辞)などが動詞の前におかれる。この点は日本 語と違う。日本語では「造られ+ない」のように否定詞は動詞の後に置かれる

   ○アイヌ語には口語のほかにユカラなどで使われる雅語があってshinumaは雅語の代名詞3人称単 数である。代名詞についてみると口語と雅語ではだいぶ違う。

 

雅語

 

口語

 

単数

複数

単数

複数

1人称

a-shinuma

a-okai

ku-ani

chi-okai/a-okai

2人称

e-shinuma

echi-okai

e-ani/a-okai

echi-okai/a-okai

3人称

shinuma

Okai

Ani

Okai

 

  マタイ福音書第6章
    Mattaios

9.だから、こう祈りなさい。
     Tambe  gusu, tap  korachi      inonno-itak     ki     yan.
    これ  故に これ 、、のごとく 祈りのことば する  (命令形)

  『天におられるわたしたちの父よ、
      Kando  otta    an    chikoro    Michi,
     天   -に  ある 吾らの   父

  御名(みな)が崇(あが)められますように。
      E    kon  reihei  orota        aeoripak     kuni        ne ki wa    un    kore.
    汝 の 名前   がそこで 尊敬される ために  して  (依頼)  我々に-ください 

  ○  アイヌ語の大きな特徴のひとつは動詞に接頭辞がついて、格に相当する概念を表すことができることである。例えばkoreという動詞は本来「与える」という意味であるが、接頭辞をつけることによって「与える」のは誰が、誰になのかを動詞の側で示すことができる。kore=与える、してくれる、un-kore=(あなたが私たちに)(それを)してくれる。これをさらに組み合わせると、つぎのような表現ができる。A-en-kore 私が与えられる」、 a-un-kore「私たちが与えられる」などとなる。

   ○アイヌ語の代名詞には1人称複数が二種類ある。ひとつは除外形と呼ばれ、話しかけている相手を含まない「わたしども」というような表現で、 もうひとつは相手を含んだ「我々」である。また、2人称にも「お前」にあたる表現と「あなたさま」(尊称)の区別がある。

Kando otta   an    chikoro  Michi
  天-に   ある 我らの 父

  この場合chikoroは1人称複数・除外形・所有格で、「我ら」は話相手を除いた「我ら」をさす。また、un-koreunは1人称複数(除外形)目的格であることを示している。アイヌ語は1人称複数に包含形と除外形があるのという点では、先にみたモンゴル語と同じである。

10. 御国(みくに)が来ますように。
         E  koro  moshiri  ekte        wa    -un    kore.
      汝 -の  国   来たらしめる  (依頼)   我々に してください

   御心(みこころ)が行なわれますように、天におけるように地の上にも。
       E  kor’irenga  kando  otta  an  korachi,
     汝 の・意志  天   -に ある 如くに

      moshir’otta  ne  yakka    une no      aki 
    国        -に も       同じように   なされる 

      kuni  ne   ki      wa    -un     kore 
    ように    して  (依頼)  我々に ください

  koreは「与える」という動詞である。un-koreとなるとunが1人称複数・除外形・目的格、つま り「われわれに与える」を表す。日本語の「賜う」にあたる。
 動詞
koreは次のように変化して主語や目的語の格を表す。 

 

主格

目的格

 

単数

複数

単数

複数

1人称

ku-kor

chi-kor(除外形)

a-kor(包括形)

en-kore

un-kore(除外形)

i-kore(包括形)

2人称

e-kor

a-kor(尊敬)

echi-kor

e-kore

i-kore(尊敬)

echi-kore/i-kore

3人称

kor

kor

kore

kore

   これを「我が・君に・与える」とするとa-e-koreとなり、「君が・我に・与える」とするとe-i-koreとなる。

我が

君に

与える

a-e-kore

我が

彼に

与える

a-kore

君が

私に

与える

e-i-kore

君が

彼に

与える

e-kore

彼が

私に

与える

i-kore

彼が

君に

与える

e-kore

実際にはそれぞれの人称に単数と複数があるから格の標示はもっと複雑になる。

11. わたしたちに必要な糧(かて)を今日与えてください。
       Kesto  kesto  chi  e   kunip  tanto  ne  yakka   un kore.
      毎日  毎日   我々 汝 必要  今日    も我々に-与える

   アイヌ語では「毎日、毎日」のように同じことばが重複して用いられることが多い。この点も、 日本語に似ている。

12. わたしたちの負い目を赦(ゆる)してください、
       Chi utara anak  ne    chikoro  ashosere  utara  tusare  okere  korachi,
     我々 人  -は   吾らの  負債    人  赦して   あげた 如く

   わたしたちも自分に負い目のある人を赦(ゆる)しましたように。
       chikoro  shosep  ne  yakka  tusare    wa    -nun     kore 
    我らの  負債   
  も      赦して (依頼)   我々に あげる

 アイヌ語では接辞をつけることによって品詞を変えることができる。
   ashosereは、a(受動態を示す接辞)shose「負債」+re(他動詞化接辞・使役相接辞)
   shosepは、shose「負債」+p(名詞法語尾)である。

     utarautariと同じで「人」を表す。

13. わたしたちを誘惑に遭(あ)わせず、
       Chi    utara  anak   ne  iteki        akoramnukara  kuni      ne 
     我々 人間 -は  するな(否 定・禁止)  誘惑する    ために 

    ki    wa    -un    kore;
     して (依頼)   我々に ください。

   悪い者から救(すく)ってください。』
       koroka  wenbe  orowa   no    un    ohaitare  wa   -un    kore.
     もしも  悪事 (受け身) (強調)  我々を 守る  (依頼)  我々に ください

    日本語では否定形は「誘惑し+ない」となるが、アイヌ語では動詞の前に否定形がくる。

 日本語とアイヌ語のようにかなり言語構造の違う言語を直訳すると、訳語はかなり不自然 にならざるをえない。しかし、言語の構造の違いを際立たせるには直訳で対訳することが必要でもある。アイヌ語訳の聖書は日本語の原文が明らかなのだから、 当初はアイヌ語の対応形をみつけだすことは簡単だと考えていたが、それはとんでもない間違いだったということに途中で気づいた。

辞書と文法書のそなわっている言語でも、それだけで未知の言語を解読するのは容易なことではない。辞書には通常基本形しかのっていない。しかし、生きたこと ばには活用があり、その辞書形を探し出すにはかなりのなれが必要である。また、辞書形にたどりついたとしても、ひとつの単語の意味はひとつだけであること はまずない。結局、ひとつの言語を習得するには最低3年はかかるという結論にいきつくことになるのか。

 アイヌ語の聖書の解読には次の文献を参考にした。
 参考文献:
Batchelor”An Ainu-English-Japanese Dictionary”Fourth Edition岩波書店
      
金田一京助・知里真志保『アイヌ語法概説』岩波書店
      
田村すず子『言語学大辞典』三省堂の「アイヌ語」の項 

 聖書の対訳によって日本語とアイヌ語の文法のおもな特徴をみてみると、つぎのようになる。 

 ○日本語と同じ点:●日本語と違う点

 ○ 語順は主語+目的語+動詞である。
 ○ 名詞の性・数の標示はない。
 ○ 形容詞は名詞の前にくる。
 ○ 疑問文は文末に疑問標識をおく。
 ● 1人称複数の代名詞に包含形と除外形がある。

 ○ 前置詞でなく後置詞(助詞)を使う。
 ● 動詞に主格、目的格などの格標示がある。

 ○ 冠詞はない。
 ○ 濁音は語頭にはたたない。また、語頭に複合母音がたたない。
 ○ アクセントは高低アクセントである。
 ○ rとlの区別がない。ただし、r音が語頭にくることもある。
 ● 
–p-t-kで終わる音節がある。

   アイヌ語と日本語は聖書の対訳で見るかぎり、かなり違った言語のようにみえる。しかし、日本語とアイヌ語との間にはかなり共通性もある。縄文時代に北海 道、東北にアイヌ人が暮らしていたことは明らかだが、アイヌ人が縄文土器を製作した痕跡は残されていない。このことをどのように考えたらいいのだろうか。

もくじ

☆第40話 地名はことばの遺跡である

★ 第86話 日本語の系統論

☆第87話 日本語とアイヌ語

★第88話 『アイヌ神謡集』を読む

☆第95話 言語の類型

★第98話 はじめにことばありき考

☆第106話 日本語と近いことば・遠いことば