第79話 ジョン万次郎の英会話 ジョン万次郎は『英米対話捷径』(1859年、安政6年)という英会話の入門書を書いてい る。この本は早稲田大学の図書館などにあることが知られているが、最近『ジョン万次郎の英会話』(Jリサーチ、2010) という本が出版されて、そのなかに『英米対話捷径』がファクシミリで載録されているので誰でも簡単にみられるようになった。「捷径」とは「早道」というよ うな意味である。当時西洋のことばといえばオランダ語しか知らなかった日本人にとって、はじめての英会話入門書となり、万延元年に咸臨丸でアメリカへ渡っ た人々もこの本で英会話を勉強したという歴史的な書物である。『英米対話捷径』では返り点やレ点を使って、英語を漢文の読み下しのように説明している。 You
may
say
what
you
please. Good day, Sir. How do
you
do,
Sir. 英語もまた、文法構造を入れ替えることによって日本語に変換できる、と考えたのであろう。ジョン万次郎の翻訳はかなり巧妙にできている。日本語表現にはないwhatなども「何にても」とはよく訳したものである。また、Good
day, Sir.のSirは訳さないで、そこに含まれる相手への尊敬の気持ちを「ござる」で表していることなども、かなりの工夫が感じられる。しかし、Good day, Sirは「、、、でござる」と訳してHow do you do, Sirを「ござるか」と疑問形に訳すためには、語頭のHowとの関係を考えなければ不可能である。 もし、日本語と英語、あるいは日本語と中国語が語順だけを入れ替えれば変換でくるものであるとすれば、コンピューター翻訳などはもっと早く実現していたはずである。コンピューターによる翻訳を可能にする
ためにはmay say「べしレ いう」、say,,,please「いうニ こころにあることを一」などのレ点や返り点をどのような場合につけるかを、それぞれの単語にそくしてコンピューターに記憶させなければならないだろう。Howは「いかが、、、ござるか」となるのであろうか。How do you do, Sir.では、はじめのdoは「ごきげん」とし、次のdoは「ござる」となるのだろうか。これはかなり困難な作業である。とにかく、ジョン万次郎は英語の構造をとらえ、日本語の構造と比較してそれを転換しようと試みている。 ジョン万次郎は、英語を日本語の語順に変換しているばかりでなく、発音もみごとに日本語式に変換している。 I am sorry to hear
that
your
Grandfather is
sick. Is your Father
any thing
better than
he
was
this
morning? No,
I
think he
is rather
worse. 日本語にないth-や-ngの発音は日本語の発音に置きかえられている。
that(ザヤタ)、Grandfather(グランダフワザ)、Father(フワザ)、thing(センキ)、 これは辞書もなく発音の規範を示すものも何もなかった時代の発音である。Thing(センキ)、think(センカ)では-ngと-kの区別がつかなくなってしまう。かといってthing(セン)、としたのではthin(セン)と区別がつかなくなってしまう。日本語はジョン万次郎から150年たっても-ngの音を発音することができない。そればかりか、日本語が千数百年前に接触した外国語である中国語にも-ngの発音があったにもかかわらず、日本語の音韻体系には-ngは定着していない。中国語の香港Hong Kongはいまだに「ホンコン」である。 現代のように辞書もあり、学校教育で英語が教えられている時代になっても英語のth-の発音がままならないのはジョン万次郎の時代とほとんど変わらない。英語の語尾の-ngについてはthing(センキ)ではカ行になり、morning(モーネン)では脱落している。ほかには次のような例もある。 Are you
coming? I
am
going. 日本人にとって語尾の-ngの発音が不得意なことは今も昔も変わらない。むしろ東京方言などでは鼻濁音の-ngが失われてgになる傾向がみられるので、英語の-ngの発音はますますむずかしくなっている。日本語では語頭では濁音の[g-]で発音し、語中・語尾では鼻濁音の[ng-]で
発音するのが正しいとされている。かつてはアナウンサーなどは音学学校を「オンカ゜ク ガッコウ」などと書いて鼻濁音の「カ゜」と濁音の「ガ」を区別して
いた。しかし、現在では鼻濁音が残っているのは東北地方など一部の地域だけになってしまった。このためアナウンサーの試験でも濁音と鼻濁音の区別は重視さ
れなくなってきているという。 『英米対話捷径』で、もうひとつ注意しておきたいのは最初にあげた例文にあるGood
day, Sir.(グーリ デイ シャー)である。誤植ではないかと思いほかの例を調べてみるとbed(ベーリ)、bad(ヘーリ)、hard(ハーリ)など英語の語尾のdが「リ」で表記されている例がある。日本語の音節はいわゆる開音節であり、母音で終わるのが特徴である。Goodはいまでもguddoなどと母音をつけて発音する人が多い。また「それはグーだよね」などといっても意味は通じる。しかし、われわれはgoodとい文字の規範を知っているし、学校ではdを落とすと英語の試験では満点がもらえないことを知っている。ジョン万次郎はどうであろうか。 ○脱落した例:cold(コール)、changed(チャインジ)、dead(ダイ)、eight(エイ)、hold これは表記の混乱とみるよりも、むしろ聴覚に忠実に表記したもので、規範になるものが定まっていなかったためにこのようなことが起こったとみるべきであろう。 韻尾のdが日本語で「リ」に転移したのも、聴覚に忠実に表記したものであろう。日本語のタ行、ダ行、ラ行、英語でいえば-t・-d・-lはいずれも調音の位置が同じであり、いずれも歯茎の裏のあたりで調音される。調音の位置の同じ音は転移しやすい。 韓国語では地下鉄は「チハチョル」であり、万年筆は「マンニョンピル」と発音される。中国語音のtは語中・語尾では規則的にlに転移するのである。達磨を「ダルマ」と読むのも同じである。サンスクリットの「ダル」を表すのに漢字の達(タツ)が用いられている。このように考えるとジョン万次郎がgoodを「グーリ」と表記したのも、混乱によるものではなく、万次郎が聴覚にできるだけ忠実に再現しようとした努力の結果であるとみることができる。 語尾の-t・-dは脱落することもあるので、次のような例もみられる。 It is a
moon light
night.(イータ イシ エイ ムーン ライト ナイ) 現在の英語教育を受けて辞書と教科書を使って習った人の目からすると、ジョン万次郎の英語はあれで本当に通じたのでろうか、と思われるかもしれない。しかし、It is a moon light
night.(イット イズ ア ムーンライト ナイト)もジョン万次郎の英語より通じるとは限らない。英語のIt is a moon light night.は六音節である。ジョン万次郎の英語は十五音節(モーラ)で表記されている。それに対して現代の日本語英語も十五音節であり、音節のとらえかたはジョン万次
郎の時代も今もそう変わりはない。つまり、ジョン万次郎の英語も、現代の日本式英語の発音も現地の英語の発音からかなり離れているという点では似たりよっ
たりである、ということになる。 言語の規範が定まるまでにはさまざまな試行錯誤が行われる。万葉集仮名なども表記の仕方はさまざまである。例えば、梅、馬、恋について調べてみるとつぎのようになる。 梅:烏梅、宇米、汙米、宇梅、有米、于梅、 ジョン万次郎の英語の表記に揺れがあったとしても当然であり、違う言語を音韻体系の違う言語の文字で表記するうえでの苦斗という点では、万葉集の史(ふひと)とジョン万次郎は同じ問題を共有していたとも
いえるだろう。 ジョン万次郎こと中浜万次郎は土佐の漁師の子で、十五歳のときに漂流して、アメリカの捕鯨船に救助された。十年間もアメリカで教育を受けて帰国した。日本では教育は受けていないから、『英米対話捷径』も
万次郎の口述を誰かが書き起こしたものであろう。 ジョン万次郎の時代(1827-1898)には洋学といえば蘭学であった。1841年、土佐の漁師だった万次郎は、漁に出て3日目嵐に遭遇する。無人島に漂着するが、4カ月後にアメリカの捕鯨船に救助される。船長にかわいがられ、アメリカではマサチューセッツ州フェアヘヴンの学校でアメリカ人のこどもにまじって英語や航海術を学ぶ。 1851年に日本に帰国するが、鎖国の掟を破った罪で取り調べを受ける。しかし、時代は黒船来航(1853)、日米和親条約締結(1854)へと動いており、日本語―オランダ語―英語という二重通訳でない日英の直接通訳が求められていた。万次郎は時代の支配者である武士階級のなかに通弁として取り立てられる。出身地の土佐長浜の地名をとって
名字とすることを許されたのも漁師としては異例のことだった。 万次郎は薩摩藩開成所、土佐藩開成館、開成学校などで英語を教えることになるが、万次郎の指導を受けた者のなかには福沢諭吉、榎本武揚、西周、大鳥圭介などいるという。『英米対話捷径』(1859)は日本最初の本格的な英会話教本である。万次郎は咸臨丸(1861)で通訳としてアメリカへ再度わたることになるが、咸臨丸の乗組員も『英米対話捷径』を携帯したという。 |
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☆第78話 キリシタン宣教師の日本語研究 ★第85話 外国人に日本語を教えてみると |