第78話 キリシタン宣教師の日本語研究

 フランシスコ・ザビエルがキリスト教布教のために鹿児島に着いたのは1549年のことである。それ以来、宣教師たちは布教のために日本語を学ぶ必要にせまられていた。16031604年にはポルトガル語と日本語の辞書である『日葡辞書』が長崎で発行されており、16041608年にはジョアン・ロドリゲスの『日本文典』が、そして1620年にはその普及版ともいうべき『日本語小文典』が出ている。

 ロドリゲスは 宣教師のなかでも特に日本語に優れ、秀吉の通訳なども務めている。『日本文典』『日本語小文典』はいずれも日本の言語についての文法学書であり、ラテン語 文法の枠組みを日本語に見合うように拡張しているのが特徴である。日本語を外国語として記述したはじめての本であり、日本語の特徴を知るうえでも、1617世紀の日本語を知る上でも興味がつきない。ロドリゲスは日本語には三種類のことばがあるとしている。

  1.Yomi(訓)だけのことば。源氏物語、伊勢物語など、
2.Coye(音)だけのことば。仏僧の経文など、
3.YomiCoyeとが混じたことば。王国の共通のことば。

 ロドリゲスは日本語の発音については気音を伴う音もなければ、喉音的なものもなく、上下の歯の間や鼻腔を利用して発音することもなく、流音としてのLRの区別も、子音の連続もない、としている。当時の日本語をロドリゲスの日本語教典によってみると、つぎのような例文がでてくる。アルファベトはポルトガル語 の慣用にしたがって書かれているので、cやxの使い方が現在われわれが親しんでいる表記のしかたと違うが17世紀の日本語の音声を復元することができる。

 Cunxiua xocuuo acanto motomuru coto naku, kio yasucaranto motomuru coto naxi.
  君子は食を飽かむと求むる事なく、居安からむと求むる事なし。

Madzuxû xite fetçurŏ coto naku, tonde vogoru coto nakumba ycan?
  貧しうして諂ふことなく、富んで驕ることなくんば、如何。

Fitoto xite cŏ nakiua chicuxŏ ni cotonarazu.
  人として孝なきは畜生に異ならず。

Vonuo xiruou fitotoua yûzo, vonuo xirazaruuoba chicuxŏto coso jye.
  恩を知るを人とは言ふぞ、恩を知らざるをば畜生とこそ言へ。

Miyacoye noboru, Kiûxûni cudaru, Quantôsa cudaru.
  都上 る。   九州下 る。 関東下 る。

ロドリゲスは「人」をfitoと表記している。また、「諂う」をfetçurŏされており、この時代までの日本語ではハ行は唇音であったと考えられている。万葉集の時代の日本語もハ行音は唇音であったらしいことが万葉仮名の音価を調べてみるとうかがえる。

波奈[puai-na]=花(ファナ)、波流[puai-liu]=春(ファル)、比可里[piei-kha-liə]=光(フィカリ)、比等[piei-təng]=人(フィト)、布由[pa-jiu]=冬(フユ)、保登等伎須[pu-təng-təng-gie-sio]=フォトトギス、 

日本語のハ行は万葉の時代から室町時代まで唇音であったと考えられる。

ロドリゲスはさらに、「京へ、筑紫に、関東さ」と方言の違いにも注意を払っている。キリスト教の布教は日本の支配層だけでなく、全国津々浦々に広げて行く必要があったからである。

ロドリゲスは日本語の文体についても言及している。「日本語の文章体は高尚・荘重で格調の高い表現形式であって、日常の会話体とは動詞の(活用)語尾、小 辞、表現が異なる。したがって、日常の会話体のなかでこうした表現形式は決して用いてはいない」としている。民衆のなかにキリスト教を広めるためには俗語 も使い、秀吉などの権力者と接する時には格式のある日本語を使う必要があった。

また、ロドリゲスは『日本文典』のなかで「書状に於ける書き言葉の文体は、簡潔という点においても、又助詞や成語の特有なものがある事に於いても、他の書き言葉とは大いに違っている」と指摘している。ま た、女の為の書状と男のための書状が異なる、ともしている。手紙ではSoro(そろ)、Nari(なり)が使われるほか、先方の地位などによって礼法が定まっており、「謹んで言上致し候」「謹んで申上げ候」「恐れながら申上げ候」などの例をあげている。 「公方様へ年頭の御礼として御太刀一腰、持御馬一疋進上致し候、然るべき様に御披露に預かるべく候。恐恐謹んで言す」となると現代の日本人には書くことも できないだろう。ロドリゲスは、すでに日本語から失われた日本語の痕跡を留めている。ロドリゲスはまた、「日本人が一生涯の中でその時々に応じて違った名 を付けてゐるという事は注意しなければならない」としている。

幼名(Vosanana)  牛若、菊女など、
 仮名
(Quemiŏ)  太郎、三郎など、
 官
(Quan)・ 宮廷における官職の名、 左衛門、右衛門、兵衞など、
 受領
(Iuriŏ)の名称、上野の介、常陸の介など、
 実名
(Iitmiŏ)  正宗、信長など

このほかに隠居名(宗麟、道安、宗雪など)、名字(一条殿、近衛殿など)、氏(源、平、藤、橘など)がある、としている。これも現代では失われた日本語である。ロドリゲスは太平記、平家物語、発心集、方 丈記などをよく研究しており、それらの書物からの引用も多い。

朝に生れ、夕に死すならひ、ただ水の泡に似たりけん。(鴨の長明)
  琵琶を弾き給ひしに、雲隠れたりつる月のにはかにいとあかくさし出でた。(太平記)
  君君たらずと雖も、臣以て、臣たらずんばあるべからずと言へり。(平家物語)
  泣く泣くなんわらひにける。かかる心憂き業をなん見侍べりき。(発心集)

現代の日本語は千数百年にわたり漢字文化圏のなかで、中国語の文字を取り入れ、漢語を借用して豊かになってきた。しかし、考えてみると中国語を学んだのは日 本人であり、中国人が日本語を研究した痕跡は何も残っていない。ロドリゲスの『日本文典』および『日本語小文典』は日本語を、日本語の外からとらえようと した最初の試みであるといえる。



もくじ

☆第79話 ジョン万次郎の英会話

★第85話 外国人に日本語を教えてみると

☆第98話 はじめにことばありき考

★第106話 日本語と近いことば・遠いことば