第36話 金印の国「奴国」とは何か

 弥生時代の日本語を再構築する手がかりは極めて少ない。金石文のなかにその痕跡を探すか、中国の文献にわずかに記録されたものを解読するかしか方法はない。しかも、それらはすべて断片的なものにならざるをえない。『後漢書』倭人伝にはつぎのような記述がある。

建武中元二年(紀元57年)、倭の奴国が貢を奉じて朝貢した。使人は自ら大夫と称した。倭国の 極  南界である。光武帝(25-57年在位)は印綬を賜うた。

 この印綬とい うのが、博多沖の志賀島から出た金印ではないかとされている。金印は天明四年(1784年)に志賀島で、甚兵衛という農民によって大石の下から発見され た。その噂を耳にした庄屋の長谷川武蔵は、「掘り出し物は早々に郡代官所に差し出さないと大変なことになる」と甚兵衛を促がして、上申書を作って提出し た。金印は黒田藩のものとなり、甚兵衛には銀50枚が下賜されたという。

金印は厚さ8ミリ、一辺が2.3センチの正方形で、「漢委奴国王」と刻印されている。これを、なんと読むかが問題である。古くは「漢の委奴(いと)の国王」と読んで、『魏志倭人伝』にある伊都国に擬していた。明治25年(1892年)に三宅米吉博士が、「委」は「倭」の省略形であると指摘して、以後「漢の倭(わ)の奴(な)の国王」と読み改めた。金石文ではしばしば省略形が用いられる。鏡=竟、神=申、祥=羊、銅=同などである。金印は発見から約100年間は、「漢の伊都の国王」と読まれ、その後の約百年間は「漢の倭の奴の国王」と読まれて、現在に至っていることになる。

 現代でも 「奴」とは何か、という問は完全に解決したわけではない。中国語で「奴」とは奴婢のことである。つまり、奴隷である。「委」が「倭」だとしても、「奴」が 奴婢では「漢委奴国王」は奴隷の国王となってしまって、いかにもかっこうがつかない。現在では一般に、「奴」は『魏志倭人伝』に出てくる儺県、つまり那津 に比定され、博多の近くの地名とされている。つまり、「漢の倭の儺の国王」ということになる。

「奴」は高句麗語で「国」を意味するともいわれている。韓国の言語学者である李基文は『韓国語の歴史』のなかで、つぎのように述べている。 

高句麗語は新羅語(及び中世語)、日本語、ツングース語等の語彙と共通要素を多く持っている。例えば高句麗語には、「奴、悩、内、那」(土、壌)等で表記された語がある。母音が円唇性を帯びていたと考えられるので、*nuaぐらいに再構されることができそうであるが、この語は南方ツングース諸語のna(地)、新羅語の「内」(世)、中世語のnarah(国、rahは接尾辞)、古代日本語のna(地)に比較される。(『韓国語の歴史』p.44

  『三国志』東夷伝には、高句麗の五族として涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部があげられている。「奴」の字のついた部族が多い。韓(弁辰)の地名に も楽奴国があるほか、倭人の条でも弥奴国、姐奴国、蘇奴国、華奴蘇奴国、鬼奴国、烏奴国、狗奴国などがある。「奴」が「国」を表わすとすれば、「漢委奴国 王」は「漢の倭国の国王」ということになる。よく知られているように、『魏志倭人伝』のなかにも、金印紫綬の記述がみられる。

景初二年(238年)六月、倭の女王が大夫の難升米等を帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願いでた。大守の劉夏(りゅうか)は役人と兵士をつけて京都(みやこ)まで案内させた。その年の一二月、倭の女王への詔書が下された。
「親魏倭王・卑弥呼に制詔(みことのり)を下す。帯方太守の劉夏が使を遣わして、汝の大夫の難升米、副使の都市牛利を送り、汝の献上物、奴隷四人、女の奴 隷六人、班布(はんぷ)2匹2丈を奉じてやってきた。汝は遥か遠い土地にいるにもかかわらず、使者を送って献上物を届けてきた。これは汝の忠孝のあらわれ であり、我はなはだ汝を哀れむ。今汝を親魏倭王となし、金印紫授を仮し、その印綬は封印して帯方太守に託し、汝に仮授せしめる。

卑弥呼が与えられた金印は、帯方郡の太守に託して届けられている。志賀島の金印も、実際には楽浪郡などの長官を通して与えられたものと考えられる。『魏志倭人伝』には日本の地名や古代の人名がでてくる。 卑弥呼は「日の御子」であろう。朝鮮語でも日は日(hae)で ある。三世紀の日本列島はまだ、日本という国家が律令国家として成立するはるか前であり、中国文明が朝鮮半島を通して日本列島に及びはじめたころであり、 東アジアは一つの文明圏を形成していた。『魏志倭人伝』は倭人の条のみに関心が集まっているが、倭人伝は東夷伝の一部であり、夫余、高句麗、東沃沮(とう よくそ)、挹婁、濊、馬韓、辰韓、弁韓を経てはじめて倭人の国に到る。『魏志倭人伝』もそのような文脈のなかでとらえなおすことが必要であろう。

もくじ

☆第32話 マンモスハンターのことば

★第33話 縄文時代の日本語

☆第34話 稲作文化の伝来と日本語

★第35話 弥生時代の日本語

☆第37話 魏志倭人伝の日本語

★第38話 古墳時代の日本語

☆第39話 飛鳥時代の日本語