第262話 日本国憲法の 日本語を解剖する

 

明治以降、日本はヨーロッパから輸入された新しい 概念を、漢語に翻訳して日本語に取り入れた。現代の日本語には漢語、漢訳語が多く使われている。日本国憲法の文章も漢訳語を多く使っている。日本語は、弥 生時代から中国語の影響を強く受けながら、何世紀もかかって漢語まじりの今の形にたどりついた。現代の日本語は文章のなかでは、「やまとことば」と中国 語、あるいは朝鮮語の関係はどのようになっているのだろうか。日本国憲法第9条を例に、日本語と中国語訳と朝鮮語訳を比べてみると、つぎのようになる。

 

[日 本語の原文]

第9条「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際 平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

[中 国語訳](原 文は中国簡体字)

第9条「日本国民 真誠希求 基于正義 与秩序的 国際和平、永遠放棄 以国権発動的戦争、 以武力威嚇 或武力行使 作為解決 国際争端的手段」 (『日本政治概論』東方出版社)

[朝 鮮語訳](ロー マ字の部分の原文はハングル)

第9条「日本国民neun、正義wa 秩序reul 基調ro ha-neun国際平和reul 誠実hi希求ha-go、国権nui 発動in 戦争gwa、武力e ui-han 威嚇 tto-neun 武力ui 行使neun、国際戦争eul 解決ha-neun 手段eu-ro-seo-neun、永久hi i-reul 放棄han-da」(『日本近代化研究』高麗大学出版部)

 

日本語の原文で漢字で表記されている部分は、中国 語訳でも朝鮮語訳でもほとんど同じである。しかも、日本語と朝鮮語は語順も同じである。

 
   [
日本語] 日本国民、正義、秩序、基調、国際平和、誠実、 希求、国権、発動、戦争、
   [中国語] 日本国民、正義、秩序、基于、国際和平、真誠、 希求、国権、発動、戦争、
[朝鮮語] 日本国民、正義、秩序、基調、国際平和、誠実、 希求、国権、発動、戦争、

[日本語] 武力、威嚇、行使、国際紛争、解決、手段、永 久 放棄
   [中国語] 武力、威嚇、行使、国際争端、解決、手段、永 遠、放棄
[朝鮮語] 武力、威嚇、行使、国際戦争、解決、手段、永 久、放棄

 

言語を文法構造と語彙に分けると、日本語の文法構 造は朝鮮語と同じであり、中国語とはかなり違う。語彙は日本語、中国語、朝鮮語に共通のものが圧倒的に多い。

憲法第1条についても同じような対応がみられる。

 

[日 本語の原文]

第1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合 の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

[中 国語訳]

第1条「天皇是 日本国的象徴、是日本国民 統一的象徴、其地位 以主権所在的 全体日本国民的 意志為依拠。」

[朝 鮮語訳]

第1条「天皇eun 日本國ui 象徴i-yo 日本國民統合ui 象徴in koe-tti-myeo i 地位neun 主権neul ka-jin 日本國民ui 總意e pa-ttang-eul tun keo-tti-da

 

日本人は、明治時代以降の近代化の過程で、西欧か ら輸入した新しい概念を漢語に翻訳した。それが中国や韓国で使われるようになって、日本語、中国語、朝鮮語の共通語はむしろ増えている。西周や福沢諭吉 が、西洋の概念を漢語に翻訳しえたのは、中国の古典を読んでいて、西洋の新しい概念に相当することばを、中国語のなかに見出しえたからである。「会議」、 「演説」などは福沢諭吉が広めたことばだとされている。丸山真男によれば、「主権」などのことば、はむしろ上海で早くから翻訳語として使われていたようで ある。

中国は革命後簡体漢字を使っているので、日本で使 われている漢字と違うものもある。また韓国は漢字を制限しているので、一般には使われなくなってしまっている漢字も多い。しかし、漢字で表記してみると、 日本語、中国語、朝鮮語は現在も多くの語彙を共有していることがわかる。もちろん中国語、朝鮮語、日本語はそれぞれ音韻体系が違うから、同じ漢字を使って も読み方は違う。語彙は共有しているものの、読み方はちがうから、筆談はできるが、はなしことばとして理解できるわけではない。

例:  戦争    放棄   正義    秩序   希求   武力

中国語 zhan zheng    fang qi       zheng yi    zhi xu        xi qiu         wu li

朝鮮語 jeon jaeng     pang gi      jeong ui     jil seo         hui gu        mu ryeok

言語学的にみれば、日本語と朝鮮語はともに膠着語 であり、アルタイ系言語である。中国語は孤立語であり日本語とは系統も違い、語順も文法も違う。中国語には四声があり、日本語や朝鮮語にはない。

ことばを言語の構造からみれば、日本語は朝鮮語に 近く、中国語とは疎遠である。しかし、これだけ多数の中国語の語彙を受け入れたということは、文化的、社会的にみれば、日本語も朝鮮語も漢字文化圏の言語 であるということになる。言語の系統の違いよりも、中国文明という漢字文化を背景とした文化の力のほうが、圧倒的な力をもっていたからにほかならない。日 本語はアルタイ系の文法構造のうえに、中国語の語彙を受け入れたクレオールである。


 





もくじ

第259話 古代日本語の特徴

第260話 人体名称の日本語

第261話 弥生時代の借用語

第263話 日本語の親戚を求めて

第264話 日本語の起源