第260話 日本語の人体 の名称は中国語と同源のことばが多い 言語学者のモリス・スワデシュは日常どの言語でも使われる語彙 200ほどを選び、それを比較することによって、同族の言語が分岐したおおよその年代を決定する方法を提案している。 目、手、足など人体の名称や、父母、娘、食べ物、動物、気象などの語彙が共通している言語は親近性が近いということになる。例えば人体の名称では、スワデ シュは次のような語彙をあげている。 目、鼻、耳、口、舌、歯、髪、爪、首、背、胸、 手、腹、脚、足、肉、血、皮、肝 これを日本語と中国語の関係についてあてはめて みると、日本語の人体に関する語彙はほとんどが中国語と同源であることがわかる。 ○目[miuk](モ ク・め)。中国語の韻尾[-k][-t][-p] は 広東語では区別されているが、上海 語では弁別されず、北京語ではすべて失われて いる。王力は『同源字典』のなかで、目[miuk] は 眸 [miu] と 同源だとしている。眼ngan] も 目[miu] に 近い。疑母[ng-] は 鼻音であり明母[m-] と 調音 の方法が同じであり転移しやすい。 ○耳[njiə](ジ・みみ)。日母[nj-] は 泥母[n-] が 口蓋化したものである。泥母[n-] は また 明母 [m-] と 同じく鼻音であり、調音の位置も近く、転移しやすい。燃[njian]なども訓では燃(もえ る)となりマ行であらわれる。ま た、日 本語の地名、壬生(みぶ)などでも壬[njiəm] に マ行音にあ てている。 ○口[kho](くち)。中国語では口のことを嘴 [tzie] と いう。日本語の「口」は中国語の「口嘴」 と同源であろう。 ○舌[djiat] (ゼツ・した)。日本語の舌(した)は舌[djiat] が 摩擦音化したものである。同じ声符 をもった漢字でもタ行とサ行に発音さ れるものは多い。例:顛(テン)・真(シン)、傳(デン)・ 専(セン)、点(テン)・ 占(セン)、電(デン)・神(シン)、など、 ○牙[ngea](ガ・は)。中国語では歯科医の ことを牙科とい う。疑母[ng-] は 調音の位置が 喉音[h-] に 近く、日本語の訓ではハ行であらわれることがある。例:原[ngiuan] (ゲン・はら)、脛[hyang] (ケ イ・はぎ)、など 歯[thjiə] の 頭音[th-] は 日本語にはない有気音であり、春[thjiuən] (シュ ン・はる)、 禿 [thuk] (ト ク・はげ)などのように訓ではハ行であらわれることがある ○毛[mô](モウ・け)。 音はマ行であり、訓はカ行で、関係 がないようにみえる。しかし、同じ声符を もった漢字をカ行とマ行に読み分け るものがほかにもみられる。例えば、毎[muə](マイ)・海[xuə] (カイ)のような例である。海の上古音には海[h(m)uə*] のような入りわたり音があり、入りわたり 音が発 達したものが海[xuə] に なり、入りわたり音が脱落したものが毎[muə] に なったと考えられ る。 日本語の海(うみ)は入りわ たり音が脱落した 海[muə] に 頭母音「う」が添加されたものであ る。「毛」の場合も上古音には入りわたり音があり 毛[(h)mô] の ようなおとであったと考えられる。 入りわたり音が発達したものが毛[hô](け)になり、入りわたり音が脱落したものが毛 [mô](モ ウ)になったと考えられる。 ○爪[tzheu](ソウ・つ め)。日本語の「つめ」と「つ」は中国語の爪[tzheu] と同系のことばであ ろう。「つめ」の「め」は「女」などの指小辞 である。 ○頸[kieng](ケイ・くび)。中国語の韻尾 [-ng] は 調音の方法が[-m] と 同じであり、訓ではマ行で あらわれることがある。 例:弓[kiuəng](ゆみ)、公[kong](きみ)、浪[lang](なみ)、など 日本語 の頸(くび)は中国語の韻尾[-ng]が 濁音化したものである。 ○胸(キョウ・むね)。「胸」の上古音にも入りわ たり 音があって胸[h(m)iong*] のような音であった と考えられる。入りわたり音 が発達したものが胸(キョウ)であり、入りわたり音が脱落したものが 胸(むね)であ る。 ○手(シュ・て)。漢字のなかには同じ声符をタ行
とサ
行に読み分けるものがいくつかみられる。 また、音と訓でタ行とサ行に読み分けるものが
みられる。例:取(シュ・とる)、種(シュ・た ね)、楯(ジュン・たて)、出(シュ
ツ・でる)、就(シュウ・つく)など ○腹[piuk](フク・はら)。中国語の韻尾 [-k][-t][-p] は 広東語では弁別されているが、上海語では 区別されなくなっている。北京語では 韻尾が失われている。朝鮮漢字音では[-t]は規則的に[-l] に 転移する。日本語の腹(はら)も中国語の腹[piuk] と 同源であろう。 ○肉 [njiuk](にく)。「肉」は音訓ともに肉(ニク)・肉(に く)である。 ○肝[kan](カン・きも)。古代の日本語には 「ン」という音 節はなかった。そのため、中国語の韻尾 [-n][-m] は 金(キン・かね)、浜(ヒン・はま)のように、訓ではナ行あるいはマ行の音節であら われる。 このことは、日本語の語彙がすでに日本が本格的 な 文字時代になる以前から、長い間、弥生時代、古墳時代を通して中国文明と接触していたことの証でもある。スワデシュのリスト以外でも日本語の人体に関する 語彙は中国語と同源のものが多い。 ○顔貌[ngean-mau](かほ)。「顔」も「貌」も「かお」である。 ○額[ngeak](ガク・ぬか)。疑母[ng-] は 泥[n-] 母 と同じ鼻音であり、転移しやすい。 ○眉(ビ・まゆ)。眉(まゆ)の方が古代中国語音に近く、眉(ビ)は転移している。 ○頬[kyap](キョウ・ほほ)。中国語の[k-] は 調音の位置が喉音[h-] に 近く転移しやすい。 ○顎[ngak](ガク・あご)。疑母[ng-] は 朝鮮語では脱落し、顎(ak) で ある。 ○咽[yen](イン・のど)。上古音は咽[(d)yet*] に 近い。因には嗚咽(オエツ)とも読む。 ○肩[kyan](ケン・かた)。[-n] と[-t] は 調音の位置が同じであり、転移しやすい。 ○腕[uan](ワン・うで)。同じ声符をもつ「宛」は宛先(あ てさき)と読む。 ○腋[jyak](エキ・わき)。ア行、ヤ行、ワ行は介音の影響で 転移する。 ○腹臍[piuk-dzyei](へそ)。日本語の「へそ」は中国語の「腹臍」と 同源であろう。 ○脛[hyeng](ケイ・はぎ)。中国語の韻尾[-ng] の 上古音は[-g] に近い。 ○骨[kuət](コツ・ほね)。中国語の[k-] は 調音の位置が喉音[h-] に 近く転移しやすい。 ○身[sjien](シン・み)。身(み)は身[sjien] の 頭音が口蓋化の影響で脱落し、韻尾の[-n] がマ 行に転移したものである。 同源語は必ずしも目でみて似ているとは限らな い。日本漢字音でも絵(ヱ・カイ)のように似ていないものが音韻の変化によって生じている。絵(ヱ)は絵[huai] の 頭音が脱落したものであり、絵(カイ)は絵[huai] の 頭音がカ行に転移して、韻尾の二重母音が「ヱ」 であらわれたものである。 同源語を同定するためには、中国語音韻史の知識 が必要になる場合がある。音韻学者の王力がいうように「音近ければ、義近し」である。また、調音の位置が同じ音は転移しやすく、調音の方法が同じ音は転移 しやすい。 |
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