第188話  なみ(浪)の語源

 
【なみ(浪)】
奥 (おき)つ浪(なみ)邊波(へなみ)立つともわが背子(せこ)が御船(みふね)の泊(とまり)瀾(なみ)立ためやも(万247)
明 け來れば浪(なみ)こそ來寄せ夕されば風こそ來寄せ浪(なみ)の共(むた)か寄りかく寄る玉藻なす、、、(万138)  

 古代中国語の「浪」は浪[lang] である。日本語の「なみ」は中国語の「浪」と同源 である。中国語では濤[du]、瀾[lan] も音義ともに近い。中国語の韻尾[-ng]は調音の方法が[-m] と同じ鼻音であり、転移しやすい。中国語の韻尾[-ng] がマ行で現われる例としては次のようなものをあげ ることができる。

 例:澄[diəng] すむ、醒[tsyeng] さむ、停[dyeng] とまる、燈[təng] ともす、など。

 現在日本語で使われている波[puai] は意味は「なみ」だが、音としては別系統の漢字で ある。

 【なみだ(涙)】
三 度(みたび)擧(ふ)れども哀(かな)しき情(こころ)忽(たちま)ちに起り、頸を刺し得ずて、泣涙(なみだ)御面(もおも)に落ち沾(ぬら)しつ(記、垂仁)
吾 妹子(わぎもこ)が殖(う)ゑし梅の樹(き)見る毎(ごと)に情(こころ)咽(む)せつつ涕(なみだ)し流る(万453)  

 日本語の「なみだ」は朝鮮語の(nunmul) と同源であろう。朝鮮語で(nun) は「眼」、(mul) は「水」である。朝鮮語の眼(nun) は中国語の眼[ngean] と同源であろう。しかし水(mul)は中国語の水[sjiei] とは別系統のことばであろう。日本語の「みず」は 朝鮮語の水(mul) と同源である。

 【なむ(嘗)】
「天 下の百姓、、、鹽(しほ)酢(す)の味口に在れども嘗(な)めず。」(推古紀29年)
な かなかに人とあらずは酒壺に成りにてしかも酒に染(し)み嘗(なむ)(万43)  

 二番目の歌(万43)の例は訓借である。古代中国 語の「嘗」は嘗[zjiang]である。日本漢字音は嘗(ジョウ・なめる)であ り、語頭音にかなりの隔たりがある。嘗[zjiang]の頭音は口蓋化する前の上古音では嘗[dang]であったと推定できる。古代日本語では濁音が語頭 に立つことがなかったので、頭音[d-] 日本語ではナ行に転移した。[d-][n-] は調音の位置が同じである。
 同じような音 の漢字に常
[zjiang](ジョウ・つね)があり、訓はタ行である。韻尾の[-ng][-n] と調音の方法が同じ鼻音であり転移しやすい。
参 照:【なみ(浪)】、

 【なやむ(惱)】
「伊 弉冉(いざなみの)尊(みこと)火神(ひのかみ)軻遇突智(かぐつち)を生まむとする時に悶熱(あつか)ひ懊惱(な)む。」(神代紀上)
わ たつみの恐(かしこ)き道を安(やす)けくも奈夜美(なやみ)來て、、、(万3694)  

 古代中国語の「惱」は惱[nu] である。日本語の「なやむ」は中国語の「腦」と音 義ともに近く関係のあることばであろう。「なや+む」の「む」がどこから来たかは不明である。董同龢は「惱」の上代語音を惱[nog]と再構している。「なや+む」の「む」は韻尾[-g]の痕跡であろうか。

 【ならす(馴)】
「此 の鳥の類(たぐひ)多(さは)に百済に在(あ)り、馴(なら)し得(え)てば能(よ)く人に従ふ。」(仁徳紀43年)

  古代中国語の「馴」は馴[ziuən] である。日本漢字音は馴(ジュン・なれる)であ る。介音[-i-] の発達以前の上古音は馴[duən] に近かったものと推定できる。[zj-][zi-][nj-] に近い。中国語音韻史のなかで[d-][di-][nj-][zj-] と変化した一群のことばがあるようである。
 古代日本語では濁音が語頭に立ことがなかったので
[d-] は日本語ではナ行に転移した。韻尾の[-n] は調音の位置が同じラ行に転移した。

語頭の[zji-][zi-] がナ行であらわれる例:嘗[zjiang] なむ、似[ziə] にる、
韻尾の
[-n] がラ行であらわれる例:怨[iuan]・恨[hən] うらむ、漢[xan]・韓[han] から、眠[myen] ねる・ねむ   る、雁[ngean] かり、塵[dien] ちり、原[ngiuan] はら、群[giuən] むれ、など。

 【なり(業)】
吾 妹兒(わぎもこ)が業(なり)と造れる秋の田の早穂(わさほ)の蘰(かづら)見れども飽(あ)かぬかも(万1625)
荒 雄らは妻子(めこ)の産業(なり)をば思はずろ年の八年を待てど來まさず(万3865)  

 古代日本語で「なり」とは生業、生産することであ る。古代中国語の「業」は業[ngiap] である。古代日本語には[ng-] ではじまる音節はなかったので、調音の方法が同じ 鼻音である[n-] に日本語では転移した。韻尾の[-p] はラ行に転移した。藤原業平(なりひら)なども 「業」を「なり」と読んだ例である。

語頭の[ng-]がナ行であらわれる例:魚[ngia]な、額[ngək]ぬか、など。
韻尾の
[-p]がラ行であらわれる例:入[njiəp]いる、摺[ziuəp]する、汁[tjiəp]しる、執[tiəp]とる、など。

 【なゆたけ・なよてけ(弱竹)】
名 湯竹(なゆたけ)乃とをよる皇子(みこ)さ丹(に)つらふ吾が大君は、、(万420)
秋 山のしたへる妹奈用竹(なよたけ)乃とをよる子らはいかさまに思ひをれか、、(万217)

 「なゆたけ」「なよたけ」は「やわらかい」「しな やかな」竹である。漢字では弱[njiôk]・柔[njiu] にあたる。古代日本語には日母[nj-] ではじまる音節はなかったので弱[njiôk] を「なよ」とナ行に転移した。
中国語の声母
[nj-] がナ行であらわれる例:汝[njia]な、如[njia] なす、柔[njiu] にき・にこ、濡[njio] ぬれる、潤[njiuən] ぬらす、など。
参照:第181話【たけ(竹)】、

 【にき・にこ(柔)】
靡 合(なびか)ひし嬬(つま)の命(みこと)のたたなづく柔膚(にきはだ)すらを劔刀(つるぎたち)身に副(そ)へ寐(ね)ねば烏玉(ぬばたま)の夜床(よ とこ)も荒るらむ、、(万 194)
秋 風になびく河傍(かはび)の尒故具左(にこぐさ)のにこよかにしも思ほゆるかも(万4309)

  古代中国語の「柔」は柔[njiu] であり、柔は弱[njiôk] に音義ともに近い。古代日本語の「にき・にこ」は 中国語の「柔」と同源である。「柔」の上古音には柔[njiuk] のような韻尾があったものと思われる。王力は『同 源字典』のなかで柔[njiu] と弱[njiôk] は同源だとしている。
 「柔」はまた柔(やはらか)にも使われている。柔 (やはらか)は朝鮮漢字音の影響を受けたものであり、柔(にこ)は日母
[nj-] がナ行であらわれたものである。朝鮮漢字音では語 頭の[nj-] は規則的に脱落し柔(yu)・弱(yak) などとなる。
日母
[nj-] がナ行であらわれる例:前項【なゆたけ(柔竹)】 など。
参照:第201話【やはらか(柔)】

 【にぐ(逃)】
「故 (かれ)、伊奘諾尊(いざなきのみこと)、劔(つるぎ)を抜きて背(しりへで)に揮(ふ)きつつ逃(に)ぐ。」(神代紀上)
や すみししわが大君の遊ばしし猪(しし)の病猪(やみしし)の吼(うた)き恐(かしこ)みわが尓宜(にげ)登りし在峰(ありを)の榛(はり)の木の枝(記歌謡)  

 古代中国語の「逃」は逃[do] である。日本漢字音は逃(トウ・にげる)である。 古代日本語には濁音[d-] ではじまる音節がなかったので頭音はナ行に転移し た。中国語の上古音には[-k]に近い韻尾があったものと推測される。王力は『同 源字典』のなかで句[ko]・曲[khiok]、聚[dzio]・族[dzok] は同源であるとしている。中国語上古音は逃[diok] に近い音であり、日本語の「にぐ」は中国語の 「逃」と同源であろう。

語頭の[d-] がナ行であらわれる例:長[diang] ながし、濁[diok]にごる、塗[da ]ぬる、乗[djiəng] のる、など。

 【にごる(濁)】
驗 (しるし)無(な)きものを念(も)はずは一杯(ひとつき)の濁(にご)れる酒を飲むべぃありるらし(万338)
價 (あたひ)無(な)き寶(たから)と言ふとも一杯(ひとつき)の濁(にご)れる酒に豈(あに)益(ま)されやも(万345)  

 古代中国語の「濁」は濁[diok] である。「濁」と同じ声符をもつ「獨」は獨(どく)である。日本語の「にごる」は中国語の「濁」と音 義ともに近く、同源である。
参照:前項【にぐ(逃)】

 【にる(似)】
痛 (あな)醜(みに)く賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似る(万344)
吾 妹兒(わぎもこ)が家の垣内(かきつ)の小百合(さゆり)花後(ゆり)とし云はば不欲(いな)とふに似る(万1503)  

 古代中国語の「似」は似[ziə] である。日本漢字音は似(ジ・にる)である。中国 語の[zi-] の上古音は[di-] あるいは[nj-] が摩擦音化したものであり、日本語の「にる」は中 国語の「似」と同源である可能性が高い。「似」は[də][diə] [njiə] [ziə] のように変化したのであろう。

語頭の[zi]がナ行であらわれる例:馴[ziuən] なれる、嘗[zjiang] なむ、など。

 【にる(煮)】
春 日野(かすがの)に煙立つ見ゆ乙女らし春野の菟芽子(うはぎ)採(つ)みて煮(に)らしも
(万1879)
食 薦(すこも)敷き蔓菁(あをな)煮(に)持ちて來(こ)梁(うつはり)に行騰(むかばき)懸けて息(やす)むこの公(きみ)(万3825)

 古代中国語の「煮」は煮[thya] である。日本漢字音は煮(シャ・にる)である。古 代日本語には「シャ」という音節はなかった。中国語の[t-][th-][d-][n-] は調音の位置が同じである。日本語の煮(にる)は 上古中国語音の煮[tha]の転移したものであろう。

中国語音[th-] がナ行に転移した例:脱[thuat] ぬぐ、沾[tham] ぬれる、呑[thən] のむ、

  漢字の「茹」の訓は茹(ゆでる)であるが、茹[njia]も日本語の「にる」と関係のあるどとばであろう。

 【ぬ(寐)】
紫 の名高き浦の眞砂子(まなご)地(つち)袖のみ觸(ふ)りて寐(ぬ)ずか成りなむ
(万1392)
人 の寐(ぬ)る味(うま)眠(い)は睡(ね)ずて大舟のゆくらゆくらに思ひつつ吾が睡(ぬ)る夜(よ)らを數(よ)みの敢(あ)へむかも(万3274)

  古代中国語の「寐」 は寐[muət] である。古代日本語の「ぬ」あるいは「ねる」は中 国語の「寐」と同源である。日本漢字音は寐(ミ・ビ・ねむる・ねる)である。語頭の[m-][n-] はいずれも鼻音であり、調音の方法が同じである。 調音の方法が同じ音は転移しやすい。日本語の寐(ぬ)は韻尾の[-t]が失われてものであり、寐(ねる)は韻尾の[-t] がラ行に転移したものである。

語頭の[m-] がナ行であらわれる例:勿[miuəi]】な、名[mieng]な、鳴[mieng]なく、眠[myen]ねむる、撫[miua] なでる、靡[mea] なびく、苗[miô] なへ、

 【ぬか(額)】
肥 人(こまひと)の額髪(ぬかがみ)結(ゆ)へる染木綿(しめゆふ)の染(し)みにし心我(われ)忘れめや(万2496)
相 念(も)はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後(うしろへ)に額衝(ぬかづ)く如し(万608)

  古代中国語の「額」は額[ngək]で ある。古代日本語では額田(ぬかた)王などの人 名にも使われている。古代日本語では[ng-] が語頭にくることはなかった。古代日本語の額(ぬ か)は中国語の額[ngək] が転移したものであり、中国語の「額」と同源であ ろう。

語頭の[ng-] がナ行であらわれる例:魚[ngia] な、業[ngiap] なり、など。

 【ぬぐ(脱)】
夜 (よる)も寐(ね)ず安(やす)くもあらず白細(しろたへ)の衣も脱(ぬ)かじ直(ただ)に逢(あ)ふまでに(万2846)
玉 ならば手に巻き持ちて衣(きぬ)ならば脱(ぬぐ)時も無くわが戀ふる君ぞ昨(きぞ)の夜夢(いめ)に見えつる(万150)

  古代中国語の「脱」は脱 [thuat]である。中国語の [t-][th-][d-][n-] は調音の位置が同じであり転移しやすい。日本語の 「ぬぐ」は中国語の「脱」と同源であろう。韻尾の[-t] はカ行に転移している。しかし、江南音では韻尾の [-p][-t][-k] は弁別されておらず、入声 [-p][-t][-k] の転移はしばしば起こることである。
参照:【にる(煮)】、【ぬ(寐)】、

 【ぬらす(潤)】
三 川の淵(ふち)瀬(せ)も落ちず小網(さで)刺すに衣手(ころもで)濡(ぬ)れぬ干す兒(こ)は無しに(万1717)
は しきやし逄はぬ子故に徒(いたづら)に宇治川の瀬に裳裾潤らしつ(万2429)

  古代中国語の「潤」は[njio] である。日本漢字音は潤(ジュン・ぬらす・うるお う)である。中国語の声母[nj-] は日本語にはない音節である。古代日本語の日母[nj-][m-]*[nj-][dj-]と音韻変化した。古代日本語には[nj-] という音節もなかったので中国語の[nj-] はナ行であらわし、潤(ぬらす)とした。韻尾の[-n] は調音の位置が同じ[-l]に転移した。

 語頭の[nj-] がナ行であらわれる例:柔[njiu] にこ、弱竹[njiôk] なゆたけ、汝[njia] な、如[njia] なす、濡[nio] ぬれる、など。

韻尾の[-n]がラ行であらわれる例:馴[ziuən] なれる、眠[myen] ねむる、沾[tham] ぬる、練[lian] ねる、など。

 日本語の「ぬれる」には濡[njio] がある。濡[njio] も潤[njio] と音義ともに近いことばであろう。

 [njiuən ]には「うるほふ」という読みもある。朝鮮漢字音で は語頭の[nj-]は規則的に脱落するという音韻法則がある。

例:潤(yun)、柔(yu)・弱(yak)、汝(yeo)、如(yeo)

  日本語の「うるほふ」は潤[njiuən] の語頭音が脱落したものであり、朝鮮漢字音の影響 が考えられる。

 【ぬる(塗・漆)】
「卽 ちと無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入(い)り、土以ちて塗(ぬ)り塞(ふさ)ぎて、、、火を以ちて其の殿に著(つ)けて産みましき。」(記、上)
吾 が目らに鹽(しほ)漆(ぬ)り給(たま)ひ腊(きたひ)賞(はや)すも、、(万3886)

  古代中国語の「塗」は塗[da]である。中国語音の[t-][d-][n-]は調音の位置が同じであり、転移しやすい。日本語 の「ぬる」は中国語の「塗」と音義ともに近く、同源であろう。中国語の動詞には活用はないが、日本語では「る」を活用させている。「ぬる」な「ぬ+する」 の短縮形であろう。

「漆」の古代中国語音は漆[tsiet]である。摩擦音化する前の「漆」は漆[tet]*に近い形であったものと推定できる。そのため 「漆」は「ぬる」にも使われた。「漆」は日本語では「うるし」でもある。日本語の「うるし」は漆[tsiet][-i-]介音の発達により語頭音が脱落したものである。

 

☆もくじ

第161話 古代日本語語源字典 索引

つぎ第189話 ぬれる(濡)の語源