第 159話 『渋江抽斉』の日本語を解剖する

  

『渋江抽斉』は鴎外晩年の長編で、いわゆる史伝も のに属する。石川淳はこれを鴎外の最高傑作だとしている。ここでは『渋江抽斉』の作品論ではなく、鴎外がどのような日本語を使ってこの晩年の傑作を書いた か、を検証してみることにしたい。『渋江抽斉』は大正五年一月一三日『東京日日新聞』に森林太郎の名で第一回が掲載された。その冒頭の部分を当日の新聞で 見てみると、まず冒頭の部分は漢詩からはじまる。

   澀江抽齊 その一 森林太郎 

  三十七年如一瞬。學醫傳業薄才伸。榮枯窮達任天命。安樂換銭不患貧。これは澀江(しぶえ)抽齊(ちうさい)(じゆつし)(し)で ある。(おも)天保(てんほう)十 二(ねん)(くれ)(つく)た ものであらう。弘前(ひろさき)(じやうしゆ)津軽(つがる)順承(よりつぐ)定府(ぢやうふ)(いくわん)で、(たうじ)近習(きんじゆ)(づめ)に なつてゐた。 

 漢字に歯はルビが振ってあるが漢詩にはルビはない。漢詩は次のように読む。「三十七年一瞬の如し。医 を学び業を伝えては薄才伸ぶ。栄枯窮達は天命に任す。安楽貧に換え銭に患えず。」これは渋江抽斉の詩であるが、鴎外は人時代前の弘前藩の典医に自分自身を 見た。抽斉は医者であり、官吏であった。経書や諸子のような哲学の書を読み、歴史を読み、詩文集のような書も読んだ。抽斉は四十年足らずの月日を家業であ る学医として過ごし、栄達は天命に任せてきた。貧を患えず安楽を得ている、と抽斉はいっている。しかし、鴎外はこの詩のことばのなかに抽斉の諦観をみだし ているのである。鴎外は続けて書いている。 

 (この)(し)(べつけん)す れば、抽齊(ちうさい)(その)(ひん)安(やす)ん じて、自家(じか)(さいのう)父祖(ふそ)傳來(でんらい)(いげふ)(うへ)(ほどこ)し て ゐたかとも(おも)れ よう。しかし(わたくし)(ちうさい)不平(ふへい)が 二十八(じ)(そこ)(かく)さ れてあるのを(み) ずにはゐられない。、、、老驥(らふき)(れき)(ふく)すれども、(こゝろざし)(り)(あ)りと(い)意(い)此中(このうち)(ざう)せられてゐる。

  「老驥櫪伏 志在千里 烈士暮年 壮心未巳」 は、英傑は年老いてもなお勇壮の志を失わない、という魏の武帝(曹操)の作と云われる詩の一部である。 

 森鴎外は明治の時代を生き、ドイツで西洋医学を 学んだ第一世代の近代人だが、その教養の基礎は漢学にあった。鴎外の作品では漢詩が多く出てくるわけではないが、その日本語表現の底には漢学があり、その 文字使いは四書五経を読んだ人のそれである。『渋江抽斉』にはフランス語も使われている。 「もし抽斉がわたくしのコンタンポランであったなら」「むしろ幾分ボンヌ・ユミヨオルを保有していたであろう。」「列あ、藩の留守居宅は宛然たるコオル・ ディプロマチックを形(かたちづく)っていて、、、」「パアル・アンチシパションに遊園会を催した。」などとある。コンタンポランはcontemporain、ボンヌ・ユミヨオルはbonne heumeur、 コオル・ディプロマチックはcorps  diplomatique、 パアル・アンチシパションはpar anticipationで ある。鴎外はドイツ時代にフランス語を習っている。また、小倉時代にもフランス語のレッスンを受けている。それにしても、ドイツ語ではなくてフランス語が 使われているのが面白い。

 『渋江抽斉』には、当時使われていた外来語もで てくる。煙草・烟草(タバコ)、煙管(キセル)、莫大小(メリヤス)、虎列拉(コレラ)、加答児(カタル)などである。キセルはカンボジア語に由来すると いわれている。しかし、鴎外の日本語が現代の日本人にとって読みにくいのは外来語が多いからでも、漢語が多いからでもない。『渋江抽斉』の一部を読んでみ ることにする。 

  わたくしは少い時から多読の癖があって、随分多く書を買う。わたくしの俸銭の大部分
  は内地の書肆と、ベルリン、パリイの書估との手に入ってしまう。しかしわたくしはか
  つて珍本を求めたことがない。或る時ドイツのバルテルスの『文学史』の序を読むと、
  バルテルスが多くの書を読もうとして、廉価の本を渉猟し、『文学史』に引用した諸家の
  書も、大抵レクラム版の書に過ぎないといってあった。わたくしはこれを読んで私かに
  殊域同嗜の人を獲たと思った。(その二)

  この文章にでてくる漢字を音読と訓読に分けてみ ると次のようになる。

  【音読漢字】多読(タドク)、随分(ズイブ ン)、書(ショ)、俸銭(ホウセン)、大部
 (ダイブブン)、内地(ナイチ)、書肆(ショ シ)、書估(ショコ)、珍本(チンポン)、
 学史(ブンガクシ)、序(ジョ)、廉価(レン カ)、本(ホン)、渉猟(ショウリョウ)す
 る、引用(インヨウ)する、諸家(ショカ)、大 抵(タイテイ)、版(ハン)、殊域(シュ
 イキ)、同嗜(ドウシ)

 【訓読漢字】少(わか)い、時(とき)、癖(く せ)、多(おお)く、買(か)う、手(て)
 入(い)る、求(もと)める、或(あ)る、読 (よ)む、過(す)ぎない、私(ひそか
 に、人(ひと)、獲(え)る、思(おも)う、

  確かに、今ではあまり見かけなくなった漢字もか なり使われている。それでも音読の漢字はどうにか読める。しかし、「少(わか)い」「私(ひそか)に」「獲(え)る」はどうだろうか。現在の漢字の使い方 と違うところがある。それは特に訓読みについていえる。もうひとつ例をあげてみる。

   今(いま)の教育は都(すべ)て官公私立の学校において行(おこな)うことになって
  いて、勢(いきおい)集団教育の法に従(したが)わざるを得(え)ない。そしてその
  弊を拯(すく)うには、ただ個人教授の法を参取する一途があるのみである。是(ここ)
  において世(よ)には往々昔(むかし)の儒者の家塾を夢(ゆめ)みるものがある。然
  (しか)るにいわゆる芸人ひ名取(なとり)の制があって、今(いま)なお牢守せら
  ていることには想(おも)い及(およ)ぶものが鮮(すくな)い。(その百十八)

  漢字二文字の場合は音読のことが多く、一文字の 場合は訓読のことが多い。漢文を読み下すには、漢字の音や訓を使って、それに助詞や活用語尾を付け加える。鴎外や漱石の時代の文人は幼少のころから四書五 経など漢籍を学んでいたから、日本語を書く場合にも「やまとことば」を「漢字」に変換していたのではなかろうか。例えば「鮮(すくな)い」は論語の「子 曰、巧言令色鮮矣仁」の「鮮(すくな)し仁」が頭の中にあって、それを日本語の「すくない」に当てはめているように思われる。
 前の例文では「おもう」に「思う」があてられて いたが、この文章では「想(おも)う」が当てられている。訓は漢字の意味に相当する日本語をあてるわけだから、同じ日本語にいくつかの漢字が当てられるこ とが多い。

  鴎外の時代には常用漢字は定められていなかった から、四万字あるといわれる漢字のなかから自由に選んで「やまとことば」にあてはめることができた。

   遑(いとま)、踰(こえ)る、誨(おしえ)る、褫(うば)う、偸(ぬす)む、撼(うご)
  かす、鬆(ゆる)める、喪(うしな)う、纏(まと)う、翫(もてあそ)ぶ、儆(いま
  しめ)る、遽(にわか)に、纔(わずか)に、聊(いささ)か、肆(ほしいまま)、輒(た
  やすく)、闌(たけなわ)、

  しかし、これらの漢字はほかの漢字でも表すこと ができるのではなかろうか。遑=暇、踰=越、誨=教、褫=奪、偸=盗、撼=動、鬆=緩、喪=失、などである。中国語でニュアンスの違う漢字もあるかもしれ ないが、日本語としては同じである。日本語の「こえる」は「越える」、「超える」、「踰える」と書いても「こえる」であることに変わりはない。副詞などは かなで書いたほうがわかりやすい。

  漢字には類似語を重ねて強調する習慣がある。

   痕跡、境界、容貌、波浪、船艦、末裔、聴聞、怨恨、覚醒、遭遇、墜落、断絶、停止、
  駐留、継続、教誨、看視、知識、過誤、譴責、困苦、依拠、捕捉、謀議、窮極、娯楽、

  これらの漢字に対応する訓は同じである。

   痕跡(あと)、境界(さかい)、容貌(かたち)、波浪(なみ)、船艦(ふね)、末裔(すえ)、
  聴聞(きく)、怨恨(うらむ)、覚醒(さめる)、遭遇(あう)、墜落(おちる)、断絶(た
  つ)、停止(とどめる)、駐留(とどめる)、継続(つぐ)、教誨(おしえる)、看視(みる)、   知識(しる)、過誤(あやまち)、譴責(せめる)、困苦(くるしむ)、依拠(よる)、捕捉
  (とらえる)、謀議(はかる)、窮極(きわめる)、娯楽(たのしむ)、

  鴎外は『渋江抽斉』のなかでこれらの漢字を全部 使っているが、読み方は同じである。なかには見(み)る、看(み)る、視(み)る、覗(み)る、睹(み)る、観(み)る、のように同じ日本語の「みる」に いつつもの漢字を当てている例もみられる。これらは漢語の語感によって使い分けられている場合もある。つまり、同じ日本語の「みる」でも中国語ではそれぞ れニュアンスが違うよ、ということを主張しているかのようである。

 漢字を使って表記しているからといって中国語を 表記しているのではなく、日本語を表記しているのだから「見る」あるいは「みる」と表記すればすむのではなかろうか。しかし、幼少のころから漢学を通じて 漢字の世界に親しんできた鴎外にとっては別の見方があったに違いない。漢字を使っている限り、その漢字の用法は漢字の本場である中国のそれに限りなく近い ものでなければならない。そこで、まず漢字で文章を構成する。そしてその漢字に日本語をあてはめていく、ということが行われていたのではないか。漢字の意 味が先にあって、それに日本語をあてはめていく。だから、日本語の読み方、訓は漢字の翻訳になる。

   喙(くちばし)、志(こころざし)、径(こみち)、俎(まないた)、源(みなもと)、詔(み
  ことのり)、魁(さきがけ)、媒(なこうど・なかだち)、杯(さかずき)、諱(いみな)、
  堆(うずたか) く、幼(いとけな)い、慮(おもんばか)る、顧(かえりみ)る、覆
  (くつがえ)る、 抛(なげう)つ、指(ゆびさ)す、挟
(さ しはさ)む、 先(さ きだ)つ、

  「くちばし」という日本語は「くち」と「はし」 から成り立っている。しかし、中国語には「喙」という文字がある。これが日本語の「くちばし」にあたるというのである。さらに、各(おのおの)、数(しば しば)、益(ますます)、偶(たまたま)、悉(ことごと)く、世(よよ)、など漢字が日本語に対応する文字として選ばれることになる。

  さらに複数の漢字を使って日本語の単語を表記す ることも必要になってくる。

   虚言(うそ)、悪作戯(いたずら)、陽炎(かげろう)、徒士(かち)、素人(しろうと)、
  媒人(なこうど)、草鞋(わらじ)、足袋(たび)、石灰(しっくい)、土器(かわらけ)、
  記念(かたみ)、揶揄(からかう)、可笑(おか)しい、所以(ゆえん)、就中
(な かんずく)

  例えば「莱菔(だいこん)」という漢字が使われ ている。「大根(だいこん)」は和製漢語で万葉の時代は「大根」と書いて「大根(おおね)」といっていた。中国では「莱菔」という。鴎外は「莱菔」とも 「大根」とも書いているが、「莱菔」と書いて「莱菔(だいこん)」と読ませるのは文字は中国語であり、読み方は日本語ということになる。 

  菜蔬は最も莱菔(だいこん)を好んだ。生で食うときは大根(だいこん)おろしにし、
  烹て食うときはふろふきにした。(その六十二)

 「魚」は魚(うお)に、「肴」は肴(さかな)に 用いられているらしい。「幼」は「幼(いとけな)い」に用いられ「穉」が「穉(おさない)」に用いられている。煙草を「のむ」ときは「喫(の)む」が使わ れている。しかし、同じ文脈のなかで同じ文字を使うのを避けている場合もしばしばみられる。

   五百らの乗った五挺の駕籠(かご)を矢島優善が宰領して、若党二人を連れて、石橋駅
  に掛かると、仙台藩の哨兵線に出合った。銃を擬した兵卒が左右二十人ずつ轎(かご)
  を挟んで、一つ一つ戸を開けさせて誰何する。(その八十一)
  常に弊衣を著(き)ている竹逕が、その頃から絹布を被(き)るようになった。(その九
  十一)

  一方では同じ文字を使って、違う読み方をさせて いる例もみられる。

   縁故のある華族の諸家は皆金品を遣(や)って、中には老女を遣(つかわ)したものも
  あった。(その百十五)

  この場合は同じ漢字を使っていても、日本語の敬 語表現、相手の身分によってことばを使い分ける必要からこのようになったものと思われる。

  さて問題は、漢学の素養もない我々が現在行われ ているような常用漢字だけを使って鴎外のような文学を書くことができるだろうか、ということになる。冒頭の部分をもう一度見てみることにする。

   三十七年如一瞬。學醫傳業薄才伸。榮枯窮達任天命。安樂換銭不患貧。これは澀江抽齊
  の述志の詩である。想ふに天保十二年の暮に作つたものであらう。弘前の城主津軽順承
  の定府の醫官で、當時近習詰になつてゐた。

   此詩を瞥見すれば、抽齊は其貧に安んじて、自家の材能を父祖傳來の醫業の上に施して
  ゐたかとも思はれよう。しかし私は抽齊の不平が二十八字の底に隱されてあるのを見
  ずにはゐられない。、、、老驥櫪に伏すれども、志千里に在りと云ふ意が此中に蔵せられ
  てゐる。

  【音読字】年、一瞬、医、業、薄才、栄枯、窮達、天命、安楽、抽斉、述志、詩、天保
   十二年、城主、定府、医官、当時、近習、瞥見、貧、自家、材能、父祖、伝来、医業、
   不平、二十八字、老驥、櫪、千里、蔵、

  【訓読字】如(ごと)し、学(まな)ぶ、伝(つた)える、伸(の)ばす、任(まか)
  す、貧(まず)しい、銭(ぜに)、換(か)える、患(わずら)う、不・ず、生(い)か
  す、渋江(しぶえ)、心(こころ)、述(の)べる、想(おも)う、暮(くれ)、作(つく)
  る、弘前(ひろさき)、津軽(つがる)、順承(ゆきつぐ)、詰(つ)める、此(この)、
  其(それ)、安(やす)んじる、上(うえ)、施(ほどこ)す、思(おも)う、私(わたく
  し)、底(そこ)、隠(かく)れる、見(み)る、馬(うま)小屋(こや)、伏(ふ)す、
  志(こころざし)、在(あ)り、云(い)う、中(なか)、

  【その他】三十(サンジュウ)七(なな)年(ネン)、

  音読の漢字は呉音・漢音の別が時にあるものの、 ほとんど難なく読める。漢字が二字連続して表れている場合は一般に音読であり、一字の漢字は訓読するというのが一般的なようである。固有名詞は渋江(しぶ え)、弘前(ひろさき)、津軽(つがる)、順承(ゆきつぐ)、など訓読が多い。訓読字にはいく通りもの読み方のある字があるから、気をつけなくてはいけな い。これを常用漢字だけを使って書きなおすと、およそ次のようになるのではなかろうか。

   三十七年は一瞬のごとしである。医学を学びその業を伝えて、その貧しい才能を生かし
  てきた。栄枯窮達は天命に任せ。貧しさに患わされるのともなく安楽を得ている。これ
  は渋江抽斉が心のうちを述べた詩である。思うに天保十二年の暮に作ったものであろう。
  弘前の城主である津軽順承の定府の医者で、当時は近習詰めになっていた。

   この詩を一見すれば、抽斉はその貧しさに安んじて、自家の才能を父祖から伝来の医業
  の上に施していたかと思われよう。しかし私は抽斉の不平が二十八字の底に隠されてあ
  るのを見ずにはいられない。、、、老いた馬は馬小屋に伏すけれども、志は千里にあり、と
  いう気持ちがこの中に込められている。

  現在日本語の表記に使われている漢字は2136 字である。昭和二一年に1850字の当用漢字表が定められた。その後昭和五六年の改訂では常用漢字表として1945字が定められ、平成二二年の改訂を経て 2136字にいたっている。漢字の数は4万字超えるというから、日本語を表記する漢字を中国語で使うのと同じにしようとすると、圧倒的に不足することにな る
 名詞や動詞など意味をになう単語をすべて漢字で 表記しようとしても、常用漢字だけでは足りない。しかし、明治時代の日本語である鴎外や漱石の文章を常用漢字で表記しようとすれば、それは不可能とはいえ ない。むしろ問題は漢字の数よりも、訓読みの漢字をど のように用いて日本語を表記するかにあるのではなかろうか。

  日本語を読みなれている人には何の疑問も生じな いことだが、例えば「生」は「生(い)きる、生(い)かす」ばかりでなく「生(は)える、生(は)やす」「生(う)まれる、生(う)む」、「生(なま)」 「生(き)」などの読み方がある。さらに「生(ショウ)じる」である場合もある。このことは日本語を学ぶ子どもや外国人にとっては難問である。パソコンや コンピュータにとってもやっかいな問題である。結局は漢字に続く語尾を見てから漢字本体にもどり、読み方を決めるしか方法がない。
 つまり、「生える、 生やす」のときは「生(は)」、「生まれる、生」 のときは「生(う)」、「生(ショウ)じる」のときは「生(ショウ)」と読む。送り仮名のない時は「生(なま)」 または「生(き)」となる。つまり現代の日本語の表記は「書いてある順番」では読めない。活用語尾をまず確認して、その後に漢字にもどって、その読み方を 決めるという、極めて変則的な表記法になっているということである。

 中国語を表記するために発明された漢字を使っ て、日本語をどのように表記するかという万葉集の時代からの課題はまだ完全に解決されたわけではない。 


もくじ

第154話 吉川幸次郎と『新唐詩選』を読む

第155話 良寛禅師の言語生活

第156話 夏目漱石の言語生活

第157話 『明暗』の日本語を解剖する

第158話 森鴎外の言語生活