第
158話 森鴎外の言語生活
森鴎外は文久二年(1862)津和野で生れた。鴎外の生まれた文久二年という年
は、ペリー来航以来九年、明治維新に先立つこと六年であった。鴎外は漱石より五歳年上である。明治一七年(1884)漱石が神田一ツ橋の大学予備門に入った時、鴎外は
すでにドイツ留学の途上でインド洋にあった。
○漢学の修業
森林太郎は六歳で「論語」、七歳で「孟子」の素読を学んだ。八歳になると藩校養老館に入学して四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩
経・礼記・春秋)、左伝、国語、史記、漢書を復読した。父がいわゆる蘭医だったので、九歳になると父からオランダ文典を学んだ。藩校における林太郎の成績
は抜群だったという。少年林太郎が学んだ儒教的な教養は身に滲みこんで、鴎外の人となりの根本はこれによって決定づけられた。
明治五年(1872)藩主に随い父が侍医として東京に移り住むことに
なって、林太郎も本郷の進文舎に進みドイツ語を学ぶことになった。十一歳という頭の柔らかい時期にドイツ語を学べてことが、医学に従事する者にとって必須
の外国語を学ぶうえで役立った。林太郎にとって医者になることはまわりの希望でもあり、本人にも何の迷いもなかった。明治七年(1874)東京医学学校に入学した。わずか十三歳であった。
当時の東京医学校の教授は全員ドイツ人だったという。緒方収二郎は「鴎外とその周辺」のなかで、「当時先生がドイツ語で講義すると、森君は直に漢文に訳し
てノートしたことを記憶しています。」と書いている。鴎外にとって書きことばは漢文で何の不自由もなかったにちがいない。
鴎外は初期に翻訳を多くしているが、ドイツ語や
英語の詩をまず中国語に訳したらしい。ニコラウス・レーナウNikolaus
Lenau(1802-50)のMondlichtの漢訳「月光」の冒頭の部分は次のように訳され
ている。
Das
Mondlicht
月光
Dein
gedenkend irr’ ich einsam
思汝無已孤出蓬戸
汝
の無きを思い已に孤(ひとり)蓬戸(ほうこ)を出(い)で
Diesen
Srtom entlang;
沿岸行且吟
岸
に沿(そひ)て行き且(か)つ吟ず
Könnten
lausehen wir gemeinsam
安得倶汝江上相聚
い
づくんぞ汝倶(とともに)江上に相(あい)聚(つどひ)
Seinem
Wellenklang!
聞此流水音
此
の流水の音を聞くをえん
蓬戸はよもぎを編んで作った戸のことで、みすぼ
らしい家をあらわす。次の詩はバイロンの戯曲「曼弗列度(マンフレッド)」(Manfred
1817)の
第一幕第一場冒頭の主人公マンフレッドの独白であるが、鴎外はこれをハイネの独訳から漢訳している。
魔語
When
the moon is on the wave,
波上繊月光糾紛
波
上の繊月(せんげつ)光 糾紛(きゅうふん)たり
And
the glow-worm in the grass,,
螢火明滅穿碧叢
蛍
火の明滅して碧叢(へきそう)を穿つ
もっとも当時は漢詩文が知識階級の重要な教養で
あり、学校の掲示でも日常の往復文書でも漢文でやるという風であった。鴎外はドイツ留学中日記を残しているが、その多くは漢文である。『航西日記』の第一
日目、明治一七年七月二三日の記述は次のようなものである。
初余之卒業於大學也。蚤有航西之志。以為今之醫學。自泰西來。縱使觀其文諷其音。而
苟非親履其境。即郢書燕説耳。至明治十四年叨辱學士稱。賦詩曰。(中略)昂々未折雄飛
志。夢駕長風萬里船。盖神已飛於易北河畔矣。未幾任軍醫爲軍醫本部僚屬。躑躅鞅掌。
汨没于簿書案牘之間者。三年於此。而今有茲行。欲毋喜不可得也。
鴎外の初期の小説はともかくとして、漢詩や漢文
の日記は現代の教育を受けた者にはほとんど解読できない。要旨は「自分は大学を卒業した時から洋行したいという志をもっていた。現在の医学は西洋から来た
ものであり。本を読んだり、講義を聴くだけでは分からない。現地に行ってみないと分からないことがある。明治十四年に大学を卒業して学士の称号を得た時
に、早く留学してみたいという詩を作った。自分の心はすでに易北河(エルベ河)のほとりにあったが、軍医になり軍医本部に所属して時を待っていた。そして
今ようやくドイツに行けることになった。喜んではいけないと云われても喜ばずはいられない。」ということになる。日記のなかには漢詩もいくつか残されてい
る。
負笈三年歎鈍根 還東何以報天恩 關心不獨秋風恨 一夜歸舟過涙門
これは帰国の際、船が紅海からインド洋に出よう
とする時に作られた詩であるが、「三年もドイツに留学したけれども、思うように成果はあがらず、帰国してからどう恩返ししていいか分からない」という趣旨
の詩である。
○鴎外と漱石
森鴎外と夏目漱石とは、しばしば並び称せられる。それぞれの年譜を並べてみると次のようになる。
|
森鴎外
|
夏目漱石
|
生れ
6歳
7歳
8歳
9歳
10歳
11歳
12歳
13歳
15歳
16歳
17歳
18歳
20歳
22歳
23歳
24歳
27歳
28歳
29歳
34歳
38歳
39歳
44歳
|
文久二年(1862)、津和野に生れる
論語を学ぶ
孟子を学ぶ
藩校養老館で四書を復読
藩校養老館で五経を復読
父から和蘭文典を学ぶ
藩校養老館で左国史漢を復読
室良悦に和蘭文典を学ぶ
上京し、本郷進文学舎で独語を学ぶ
東京医学校予科に入学
東京医学校予科本科に進む
大学を卒業、陸軍軍医となる
ドイツ留学(4年間)
帰国、陸軍軍医学校教官となる
訳詩集『於母影』
『舞姫』
軍医学校長となる
小倉に赴任(3年間)
|
慶応三年(1867)、東京に生まれる
浅草寿町の小学校に入学
東京府第一中学校に入学
二松学舎に入り、漢学を学ぶ
私立成立学舎に入学、英語を学ぶ
大学予備門に予科に入学
本科一部(文学)に入学、英文専攻
帝国大学文科英文科に入学
帝国大学文科英文科卒業
イギリス留学(2年間)
『吾輩は猫である』
修善寺の大患
|
鴎外は20歳で大学を卒業しているのに対して漱石が大学を卒
業したのは27歳であった。生まれたのは鴎外が漱石より五年早い
だけだが、鴎外は何の迷いもなく江戸時代と同じ教育を受けている。それに対して漱石の初等教育は明治の教育を受けた第一ジェネレーションといえる。漱石に
は漢籍への愛着があり、漢学と洋学のどちらを学ぶべきか、大いに悩んだ。
○近代文明との遭遇
鴎外と漱石とは、生前交際というほどのものはなかったようである。しかし、両者はともに漢学の素養を身につけて育ち、ヨーロッパに留学して近代文明に接
し、はなばなしく文壇にデビューしたという点では同じ精神史を歩んでいるように見える。鴎外はドイツ留学記念三部作ともいえる『舞姫』『文づかひ』『うた
かたの記』を発表した。漱石の場合は『吾輩は猫である』がデビュー作であり、『坊ちゃん』『草枕』『虞美人草』が帰国三部作となっている。鴎外の場合も、
漱石の場合も外国で新しい文学にふれた衝撃が初期の創作の原点となっている。
鴎外はドイツ留学に留学した時には留学先の言葉
が自由に聞け、自由に話せた。彼は留学の全期間を通じて欧州の文学書を熟読した。このことは鴎外の残した書籍をみても明らかである。大学の自由な空気にふ
れることが機縁となって、近代的な自我に見覚め歴史や文学に関心を持つようになった。留学は鴎外の専門分野である医学の新しい知識を身につけるばかりでな
く、自身の思想や生き方を大きく変える契機となった。『舞姫』は鴎外の文名を一躍高めることになった。社会的名声が高まるにつれ、鴎外はもはや一軍医では
なくなっていた。鴎外は次のように述懐している。
一面には予が醫學を以て相交はる人は、他(あれ)は小説家だから與(とも)に醫學を
談ずるには足らないと云ひ、予が官職を以て相對する人は、他(あれ)は小説家だから
重事を托するには足らないと云って、暗々裡に我進歩を礙(さまた)げ、我成功を挫(く
ぢ)いたことは、幾何といふことを知らない。(『鴎外漁史とは誰ぞ』)
○エリートの挫折
ヨーロッパへの留学は鴎外にとっても漱石にとっても近代的自我を目覚めさせたという点では重要である。自分のなかに近代的な自我を探す旅が作品を作り出
す原動力になっていた。しかし、鴎外にとっても漱石にとっても晩年の創作を支えた原動力は挫折ではなかったろうか。挫折が今までは見えなかった自分自身を
再発見する力になっていたように見える。
鴎外にとって挫折とはいわゆる小倉左遷である。漱石にとって挫折とはいわゆる修善寺の大患である。鴎外は明治三二年(1899)から三五年(1902)まで第十二師団軍医部長として九州の小倉に勤務を
命ぜられた。三八歳から四一歳という働き盛りである。
普通のサラリーマンにとって転勤はあたりまえのことだが、エリートをもって認ずる鴎外にとってそれは左遷以外の何ものでもなかった。二十歳で大学を卒業
した鴎外は二三歳でドイツに留学し、俺が一番だと思い続けてきた。小倉への転勤が鴎外にとって左遷であったのは、東京帝国大学医学部で同期だった小池正直
が陸軍軍医としては最高のポストである陸軍軍医監に任じられていたからである。小池は鴎外より八歳年上であった。しかし、それは鴎外にとっては大変な屈辱
だった。鴎外はこの頃から幼少時以来の漢学的古典的教養への思慕が再び高まってくる。当時の手紙によって、ある日の鴎外の小倉での生活を覗いてみる。
この頃は午前九時出勤 午後三時退出 直ちに衣服を更(か)へて佛語教師の宅に參り
六時に稽古濟み歸りて 湯をつかひ晩飯し 直ちには葉巻一本啣(くは)へて散歩に出
で申候 一本がなくなるまで 小倉の町を縱横無礙に歩めば 丁度一時間立ち 至極體
によろしく候 それにて九時頃に相成申候 それより佛語の手帳を浄書し 又梵語(サ
ンスクリット)を少しやれば 十時半か十一時になり 直ちに寝ることヽいたし候
この『小倉日記』は長い間行方不明になってい
た。だから戦前の『鴎外全集』には載っていない。松本清張の『或る「小倉日記」伝』は小倉時代の鴎外の姿を復元しようとする男の執念を暖かい目で描いてい
る。結局主人公は小倉時代の鴎外に接した人に会い、その姿を彷彿させることはできたが、日記は発見されずじまいで死んでしまう。日記が発見されたのは昭和
二十六年二月。東京でのことであった。
小倉時代の鴎外は軍医として巻き返しをはかって
いたわけではない。役人の世界では同期がトップに立ったら、もう他の同期生にはチャンスがない、というのが今も昔も常識である。鴎外は三年間の小倉時代を
通じて自分自身をみつめ直そうとしていたようにみえる。明治三五年には第一師団軍医部長として東京に戻り、明治四十年には軍医総監に任じられ、陸軍医の最
高ポストである陸軍省医務局長に補せられた。小池と同期とはいえ、年齢に八歳の差があったことが幸いした。
○豊熟の時代
漱石が『吾輩は猫である』を書いた明治三八年には、鴎外は『於母影』、『舞姫』、『うたかたの記』、『文づかひ』、『即興詩人』などを発表していた。し
かし、鴎外は『ヰタ・セクスアリス』のなかで主人公の金井君の目を借りて次のように書いている。
金井君も何か書いてみたいという考えはおりおり起こる。、、、そのうちに夏目金之助君が
小説を書きだした。金井君は非常な興味をもって読んだ。そして技癢(ぎよう)を感じ
た。そうすると夏目君の『吾輩は猫である』に対して『我輩も猫である』というような
ものが 出る。『我輩は犬である』というようなものが出る。金井君はそれを見て、つい
ついやになってなんにも書かずにしまった。
『ヰタ・セクスアリス』の「ヰタ」はArs
longa, Vita brevis(芸術は永く、命は短い)のVita(生命、生活)であり『ヰタ・セクスアリス』はラ
テン語のVita sexualis日本に訳せば『性生活』ということになる。鴎外は
これを敢えて訳さないで隠語めいて使っている。Ars
longa, Vita brevis(Art is long, life is short)は「命短し、恋せよ乙女」と訳されて明治の名訳と
されて知られていたので、明治の読者はその意味を理解したのであろう。鴎外はこれを明治四二年七月発行の「昴(スバル)」で発表した。雑誌は月末になって
発行禁止になった。ちょうどその頃観潮楼で歌会があり齊藤茂吉は鴎外に会ったが、鴎外は意外にもにこにこしていたという。
しかし、その頃の鴎外の日記や手紙をみるとことはそう簡単ではなかったようである。
内務省警保局長陸軍省に來て、Vita sexualisの
事を談じたりとて、石本次官新六予を戒
飭す。(明治四二年八月六日)
石本次官新六新聞紙に署名すべからずと警告す。(十一月二十九日)
また友人賀古鶴所への手紙に次のように記してい
る。
發賣禁止ハ「スバル第七号虎*」
ノ名義ニテ實行セラレ候 多少覺悟セラレ候 裸體畫モ
十年前ニハ正邪ニ關セズ同一ニ取リ扱ヒシモノニ候 今十年立タバ目サムルナラント存
候
それにしても「技癢」とは現在ではあまり見かけ
なくなったことばである。意味は広辞苑によると「他人のするものを見てむずむずすること。自分の技量を示したくてもとかしく思うこと」だという。くだいて
言えば「やきもち」あるいは「負け惜しみ」、もう少し上品にいえば「競争心」あるいは「負けじ魂」ということになる。「技癢」ということばがこの時期の鴎
外の行動を解くキーワードになっているようである。
鴎外はどうも競争心が強かったようである。軍医と
しては同期の小池正直とはりあい、文学では坪内逍遥と論争をくりひろげ、医学に関しても学会で専門的な論争をしていたようである。漱石に対する競争心が晩
年の鴎外の豊かな文学作品を生みだす一つの原動力になっていたことは確かであろう。
鴎外は幾多の中傷と挫折とに耐えて、ようやく陸
軍軍医の最高の地位である陸軍軍医総監陸軍省医務局長に就任してから、続々と珠玉のような作品の公表をはじめた。もいちど鴎外と漱石の時代を年表で確認し
てみたい。
|
森鴎外
|
夏目漱石
|
明治三八年
明治三九年
明治四○年
明治四一年明治四二年
明治四三年
明治四四年
明治四五年
大正二年
大正三年
大正四年
大正五年
大正六年
|
『ヰタ・セクスアリス』
『青年』
『妄想』
『かのやうに』
『阿部一族』
『大塩平八郎』
『山椒大夫』
『渋江抽斉』『高瀬舟』『寒山拾得』『伊沢蘭軒』
『北条霞亭』
|
『吾輩は猫である』
『草枕』『二百十日』
『野分』『虞美人草』
『夢十夜』『三四郎』
『それから』
『門』
『彼岸過迄』『行人』
『心』
『道草』
『明暗』
|
日本の近代文学にとって何という豊穣な時代であ
ろう。鴎外は明治四二年を転機として多筆になった。陸軍における地位が安定して周囲に遠慮や気がねなしに思うままにふるまうことができるようになった、の
もその理由のひとつであろう。大正五年には鴎外はすでに五五歳である。六一歳で没するのだからまさに晩年である。『渋江抽齊』が毎日新聞に連載される。そ
れから十日もたたぬうちに、漱石夏目金之助の最後の大作『明暗』が朝日新聞に連載されはじめる。
鴎外は小説を書き、漢詩を作ったばかりでなく、
歌も詠み詩も書いた。明治四四年(1907)には観潮楼で歌会も催している。まさに明治の文人
であった。明治四十年(1907)『うた日記』のなかにふと心にうかぶ青春の思い出
をうたったものがある。
扣鈕(ぼだん) 於南山
南山の たたかひの日に
袖口の こがねのぼたん
ひとつおとしつ
その扣鈕惜し
べるりんの 都大路の
ぱつさあじゆ 電燈あをき
店にて買ひぬ
はたとせまへに
えぼれつと かがやきし友
こがね髪 ゆらぎし少女(をとめ)
はや老(を)いにけん
死にもやしけん
はたとせの 身のうきしづみ
よろこびも かなしびも知る
袖のぼたんよ
かたはとなりぬ
ますらをの 玉と碎けし
ももちたり それも惜しけど
こも惜し扣鈕
身に添ふ扣鈕
南山の戦いで二つのうち一つをなくしてしまった
カフスボタン。二十年前ベルリンに留学中に買い求めた青春の思い出のボタン。あの頃の金髪の彼女は今どうしているのだろうか。鴎外の詩は、漢詩の流れをく
む、いわゆる詩というよりも、むしろ万葉集の長歌のような趣がある。
『澀江抽斎』の冒頭にはつぎのような抽斎の述志
の詩が掲げられている
三十七年如一瞬
三
十七年、一瞬の如し
学医伝業薄才伸
学
医の業を伝えるに薄才の伸びるをもってす
栄枯窮達任天命
栄
枯窮達は天命に任(まか)す
安楽換銭不患貧
安
楽をもって銭に換え貧を患(うれ)うることなし
「抽斎は内(うち)徳義を蓄へ、外(ほか)誘惑
を郤(しりぞ)け、恒(つね)に己の地位に安んじて、時の到るのを郤待ってゐいた」しかも抽斎は鴎外と同じく「医者であった。そして官吏であった。そして
経書や諸子のような哲学方面の書を読み、歴史も読み、詩文集のやうな文芸方面の書をも読んだ」人である。「かつてわたくしと同じ道を歩き」「其健脚はわた
くしの比ではなかった」この澀江抽斎に鴎外は「畏敬」を捧げ「親愛」を覚える。森鴎外は晩年史伝の考証的研究に没頭して、ついに渋江抽斎に邂逅し、抽斎の
なかに自己を発見して喜びとした。
医者としての鴎外は西洋の医学を全面的に受け入
れることができた。しかし『渋江抽斉』を書いたときの鴎外の心の中は東洋の文化に回帰している。和魂洋才とは云うものの森鴎外における和の基層をなしてい
たのは漢である。それは森鴎外ばかりでなく、幕末から明治にかけての日本人すべてにいえることである。夏目漱石も福沢諭吉もその例外ではない。
|