第41話 JR駅名の旅 JRの時刻表には全国の駅名が記されており、しかもその読み方がひらがなで書いてあるので、日本の地名を調べるには大変つごうのよい資料である。そのなかからいくつかを選んでみた。はたしていくつ読めるだろうか。 妹背牛、母恋、舞木、左沢、笑内、桑折、水鳥、大嵐、京終、放出、有年、敬川、美袋、鮎喰、 これらの地名に使われている漢字はとりわけむずかしいわけではない。しかし、地名や人名には、その土地や人を知らない人には読めないものが多い。次の地名はいずれもJRの駅名である。これも音で読むのか訓で読むのかはその土地の人に聞いてみなければわからない。 千里、川内、三田、上郷、西条、余部、神田、神戸、小倉、常盤、東雲、 千 里は千里(せんり)とも読めるし千里(ちさと)とも読める。古事記や万葉集が解読できないばかりでなく、現在使われている地名も読み方がわからないのであ る。千里を音で読もうと訓で読もうとその土地の人にとって、わが町の名を「千里」と漢字で書くことが大事なのだという考えかたもある。漢字にはそれぞれ意 味があって千里(せんり)と読まれようと千里(ちさと)と読まれようと「千里」という漢字がわが町を想起させるのだと考える人もいるだろう。しかし、一方 文字は読むための記号だから、千里(せんり)と読むのか千里(ちさと)と読むのか、読む人に伝えられない文字は文字として機能していないに等しいと考える 人もいる。 これは、文字とは何か、ことばとは何か、という基本問題にゆきあたらざるをえない。ソシュールによると言語(ラング)とは記号(signe)の 体系であるという。言語は記号である能記(シニフィアン)とその表現内容である所記(シニフィエ)によってなりたっている。千里という町がある。それが所 記(シニフィエ)である。問題は千里という漢字が能記(シニフィアン)なのか、あるいは千里(ちさと)あるいは千里(せんり)という声が能記(シニフィア ン)なのかということになる。 表 音文字を使うヨーロッパ人は声が能記(シニフィアン)であり、文字は声を写したものであるという。しかし、表意文字である漢字文化圏の人びとのなかには文 字こそが能記(シニフィアン)であると考える人も多い。いずれにしても、冒頭にあげたJRの駅名の読み方は次の通りである。 妹背牛 もせうし(函館本線)
母恋 はこ(室蘭本線) 人 名には人名に使える漢字のいうのが決まっていて、それによって出生届けをする。しかし、地名は漢字制限が決まるずっと前から使われているものだから制限は ない。しかも、人名も地名も漢字の読み方にはなんの制限もない。千里などの駅名も訓で読むところもあり、音で読むところもある。 千里
せんり(北大阪阪急線)
千里
ちさと(高山本線) 日本語には音 と訓があり、音読みにするか訓読みにするかを判断をしなければならない。千里(せんり・ちさと)、川内(せんだい・かわうち)を読み分けるだけでなく、三 田(サン・だ)、上郷(かみ・ゴウ)、西条(にし・ジョウ)、餘部(あまる・ベ)などのように重箱読み、湯桶読みも自由自在である。小倉(こくら・おぐ ら)はいずれも訓読みである。小山(こやま・おやま)なども同じである。御宿(おんじゅく)、御代田(みよた)、御所(ごぜ)なども知っていればこそ読め るが、あらかじめ知らなければどう読んでいいかわからない。常磐(ときわ)、東雲(しののめ)は慣用だから個別に覚えるにしても、常磐(ジョウバン)、東 雲(トウウン)という駅も別の場所にあるのだから切符を買う時にも用心しなければならない。 万葉集の時代 から日本語は漢字を使って日本語を表記する方法を開発してきた。音は中国語の日本式発音であり、訓は翻訳であり、当て字である。馬酔木(あせび)、時鳥 (ほととぎす)から秋刀魚(さんま)、秋桜(コスモス)までありである。朝鮮語では新羅の頃は音読みと訓読みがあり、それが郷歌(ヒヤンガ)の解読をむず かしくしているが、現代の朝鮮語では漢字は音読みのみに使われている。しかし、日本語では現在も音読みと訓読みが併用されていて便利な反面、煩雑でもあ る。漢字を音で読むか訓で読むかはまったく恣意的であり、同じ発音の地名でも違う漢字を用いることも少なくない。 常陸 ひたち(常磐線)、 日立
ひたち(常磐線) 違う漢字が同じ音をあらわし、同じ漢字が違う音をあらわすということが日常的に起こる。これでは地名解読辞典が必要になる。 下馬 げば(仙石線)
馬下 まおろし(磐越西線) さらに問題を複雑にしているのは漢字の音が前後の関係で変わってくることである。 勝川
かちかわ(東海道本線) 勝浦
かつうら(外房線) 地名は知って いる人には読めるが、知らない人には読めない。すでに知っている人にしか読めない文字というのはいったいなんだろうか。神戸と書いて神戸(こうべ)と読め るは神戸という大きな町があることを知っているからである。神戸という漢字は神戸(かんべ)かもしれないし、神戸(ごうど)かもしれない。 次の駅名は飯田線にある駅名であるが、普通の日本人にはどれくらい読めるだろうか。 出馬、水窪、大嵐、小和田、小沢、鶯巣、為栗、金野、駄科、八幡、上郷、本郷、沢渡、 これも特別にむずかしい漢字が使われているわけではないが、地元の人がどう読んでいるかは漢字だけからは判断できない。正解は下記のごとくである。 出馬(いずんま)、
水窪(みさくぼ)、
大嵐(おおそれ)、 日本の地名は日本人にも読めない、と言わざるをえない。そこで登場したのが「かな書き」の市町村名である。これは町村合併によって増えてきている。 [北海道] このほかに、カタカナの地名もある。北海道ニセコ町、山梨県南アルプス市である。筑波(つくば)、埼玉(さきたま)、いなべ(員弁)、かつらぎ(葛城)、 さぬき(讃岐)、さつま(薩摩) は万葉集などにもみられる日本の古地名である。しかし、現在の漢字音は筑(チク)、埼(キ)、員(イン)、弁(ベン)、 讃(サン)というのが一般的である。 古い地名を守 ろうという運動が各地に起こっているが、地名は読めなくなると変わることもあった。鹿児島県の指宿はかつては揖宿と表記していたが「揖」の発音が揖「ユ ウ」と音便化してしまい揖宿「いぶすき」とは読めなくなってしまったので指宿に改めた。揖の古代中国語音は揖[iəp]であり日本漢字音では揖「いぶ」であった。それが音便化してしまったため漢字を変えて指宿とした。そうめんの「揖保の糸」の場合は揖だけでは揖「いぼ」と読めなくなってしまったために送りがなとして「保」をつけくわえて揖保「いぼ」と読めるようにしたものである。甲斐の国の「斐」も甲[keap]が音便化して甲「かひ」が甲「こう」となってしまったために「斐」をおぎなって二文字で甲斐「かひ」と確実に読めるようにしたものである。 アルファベッ トなどの表音文字を使っている国では、地名も人名も表音文字だけで書く。漢字のような表意文字は文字の発音が変わってしまっても文字はそのまま残るから、 読めなくなってしまうということが起こる。その場合、字義を大切にして昔のままの漢字を使い続けるか、新しい表記法を採用するかという選択を迫られること になる。 中国語には仮名はないから中国の地名だけでなく、世界中の地名を漢字だけで表記しなければならない。中国語の地図を開いてみると次のような漢字が飛び込んでくる。 巴
黎、羅馬、米蘭、伯爾尼、維也納、莫斯科、貨盛頓、紐約、聖弗朗西斯科、洛杉磯、夏威夷、 日本では幸いにカタカナがあるから外国の地名はカタカナで書くことにしている。上の地名に対応する日本語の表記はつぎのようになる。 パリ、ローマ、ミラノ、ベルリン、ウイーン、モスクワ、ワシントン、ニューヨーク、 韓国では地名や人名もハングルで表記する。日本語の地名はカタカナで表記したら、ほんとうにその漢字が担ってきた歴史が失われてしまうのだろうか。古事記や万葉集に解読できない部分があるだけでなく、現代の日本語も解読不能な文字体系に依存している。 |
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