第205話
古代日本語と中国語(子音編)
そのため、古代 にほける中国語からの借用語は日本語の音韻構造に適合して、さまざまに転移している。日本語で一般に訓と考えられて読み方の漢字には古代中国語からの借用 語がかなり含まれている。漢字の音とされている呉音や漢音は唐代における規範的な読み方を主として平安時代の日本語の音韻構造にあわせて解釈したものであ る。五十音図ができたのも平安時代である。 呉音、漢音などの漢字音は、日本語としての漢字の読み方規範を示
したものであり、中国語音そのものではない。そのことは朝鮮漢字音と比較し、あるいは現代の中国語の方言音と比較し、あるいは朝鮮漢字音などと比較してみればよく分かる。日本の漢字音は
「日本漢字音」というべきものである。 日本語の訓は一
般に「やまとことば」のなかの意味の同じものを漢字にあてはめたものである、と考えられている。しかし、随唐の時代以前の中国語語音を調べてみると、日
本語で訓と考えられている漢字の読み方のなかには、古代中国語音の痕跡を留めているものがかなり含まれていることが分かる。
奥[uk] おく、音[iam] おと、腕[uan] うで、怨[iuan] うらむ、憂[iu] うれふ、癒[jio] いゆ、 2.中国語の疑母[ng-]や日母[nj-] が失われたもの。 熱[njiat] あつし、入[njiəp] いる、 3.中国語の喉音[h-][x-] が脱落したもの。 合[həp] あふ、会[huat] あふ、降[hoəm] おる、恨[hən] うらむ、現[hyan] あらはす、 4.中国語の声母が後続の介音[-i-]などの影響で脱落したもの。 赤[thjyak] あか、織[tjiek] おる、射[djyak] いる、臣[sjien] おみ、今[kiəm] いま、禁[kiəm ]いむ、 5.語頭に母音が添加されたもの。 弟[dyei] おと、堕[duai] おとす、痛[thong] いたし、負[biua] おふ、 (中国語の頭音が[m-][l-]の場合に母音が添加されることがある。) 海女[muə] あま、網[miuang] あみ、未[miuət] いまだ、夢[miuəng] いめ、妹[muəi] いも、 日本語のア行音
には古代中国語の頭子音が脱落したものや、頭音に母音が添加されたものが多く含まれている。言語のたどった長い歴史のなかで、中国語音も変化
し、日本語の音韻構造も変化した。そして、音韻構造の違う日本語の音韻構造に合わせて中国語原音は、さまざまに転移して受け入れられた。 1.古代中国語の[k-][kh-][g-]に依拠したもの。 金[kiəm] かね、菊[kiuk] きく、絹[kyuan] きぬ、巾[kien] きぬ、肝[kan] きも、肩[kyan] かた、 2.古代中国語の喉音[h-][x-]が転移したもの。 韓[han] から、莖[heng] くき、峡[heap] かひ、蛤[həp] かひ、熊[hiuəm] くま、雲[hiuən] くも、 3.古代中国語の鼻濁音[ng-]を継承したもの。 雁[ngean] かり、言[ngian] こと、刈[ngiat] かる、児[ngye] こ、凝[ngiəng]こ る、 4.上古中国語の[m-][l-]の前の入り渡り音[h-]の痕跡を留めたもの。 鎌[hliam] かま、栗[hliet] くり、來[hlə] くる、輪[hliuən] くるま、籠[hlong] こ・こもる、 ここで、日本語のサ行音の形成について整理してみ るといくつかの類型に分類することができる。 1.古代中国語の[s-][z-]または[tz][ts]にあたるもの。 塞[sək] せき、性[sieng] さが、祥[zieng] さが、摺[ziuəp] する、鵲[syak] さぎ、咲[syô] さく、 2.古代中国語の[t-][d-]などが[-i-]介音の影響で摩擦音化したもの。 洲[tjiu] す、渚[tjia] す、知[tie] しる、潮[diô] しほ、貞[tieng] さだか、定[dyeng] さだむ、 3.古代音中国語の喉音[h-][x-]などが[-i-]介音の影響で摩擦音化したもの。 賢[hyen] かしこし、懸[hiuen] さがる、狭[heap] せばし、幸[heang] さき・さち、 日本語のタ行音は古代中国語と対応関係がみられ る。古代日本語のタ行音は、古代中の国[t-][d-][th-]に対応している。また、古代中国語音が摩擦音化する以前の古い中国語音の痕跡を留めたものがある。 田[dyen] た、竹[tiuk] たけ、丈[diang] たけ、段[duan]・壇[dan] たな、店[tyəm] たな、 2.古代中国語音の頭音が獨音である場合、語頭に 清音を添加することがある。 直[diək] ただに、但[dean] ただ、畳[dyəp] たたみ、筒[dong] つつ、傳[diuen] つたふ、 3.古代中国語音が[tz-][dz-]の場合、摩擦音化以前の上古音の痕跡を留めている
ことがある。 絶[dziuat] (たつ・ゼツ)、足[tziok]
(た
る・ソク)、津[tzien] (つ・シン)、 これらの祖語は次のように再構できる。 4.古代中国語音が口蓋化音である場合、日本語の訓は 口蓋化以前の上古音の痕跡を留めていることがある。音ではサ行であらわれ、訓ではタ行であらわれる。タ行のほうが古く、サ行のほうが新しい。 楯・盾[djiuən] (たて・ジュン)、垂[zjiuai] (たれる・スイ)、出[thjiuət] ((い)づ・シュツ)、 束[sjiok] (つか・ソク)、舂[sjiong](つく・ショウ)、常[zjiang]( つね・とこ・ジョウ)、 これらの祖語は次のように再構できる。 5.古代日本語には[l-]ではじまる音節がなかったため、中国語の[l-]は日本語では[t-]に転移した。 瀧[liong] たき、嶺[lieng] たけ、龍[liong] たつ、立[liəp] たつ、粒[liəp] つぶ、 日本語のナ行は中国語の[t-][d-][n-] のほか、[l-][m-] や[ng-][nj-] が合流してできあたっている。 1.中国語の[d-][th-][n-]がナ行であらわれるもの。 長[diang] ながし、逃[do] にげる、濁[diok] にごる、塗[da] ぬる、除[dia] のぞく、 2.中国語の[m-] がナ行に転移したもの。 名[mieng] な、勿[miuəi] な、鳴[mieng] なく、無[miua] なし、眠[myen] ねむる、 3.中国語音の[l-] がナ行に転移したもの。 流[liu] ながる、梨[liet] なし、浪[liang] なみ、涙[liuei] なみだ、櫟[lek] なら、嶺[lieng] ね、 4.中国語の日母[nj-]、疑母[ng-]がナ行に転移したもの。 汝[njia] な、弱[njiôk]竹・なゆたけ、柔[njiu] にこ・にき、潤[njiuən] ぬらす、濡[njio] ぬれる、 5.中国語音の[zj-] に依拠しているもの。 嘗[zjiang] なむ、馴[ziuən] なれる、似[ziə] にる、野[jya]の、 6.頭音が脱落し、韻尾が日本語で独立した音節として あらわれるもの。 根[kən] ね、音[iəm] ね、
≪調音の方法が同じで調音の位置が異なるもの≫ 日本語のハ行音は唇音系[p-][ph-][m-]、と喉音系[x-][h-] の二つに大きく分かれる。そのほかに後口蓋音[k-][g-][ng-] の転移したものがみられる。日本語には咽音がな かったため、喉音と後口蓋音は弁別されず、ハ行音として受け入れられたと考えられる。 1.唇音系[p-][ph-][m-] が転移したもの。 剥[peok] はぐ、邊[pyen] はた、鉢[puat] はち、撥[puat] はねる、濱[pien] はま、腹[piuək] はら、 拂[piuət] はらふ、祓[piuət] はらふ、氷[pieng] ひ、簸[puai] ひ、稗[pie] ひえ、鄙[piə] ひな、 2.喉音系[x-][h-]の音が転移したもの。 花[xoa] はな、火[xuəi] ひ・ほ、響[xuang] ひびく、羽[hiua] は、匣[heap] はこ、 3.後口蓋音[k-][g-][ng-]の音が転移したもの。 乾・干[kan] ほす、骨[kuət] ほね、干[kan] ひる、蓋[kat] ふた、經[kyeng] ふる、 日本語のマ行音の起源は唇音[m]系と、喉音[h-]系の二つのグループにおおきく分 けることができる。 1.中国語原音が唇音[m-][p-][b-]系であるもの。 目[miuk] め、幕[mak] まく、覓[mək] まぐ、迷[myei] まとふ・まよふ、免[mian] まぬかる、 2.古代中国語の入りわたり音[h-]が失われて、日本語ではマ行であらわれることば。 合[həp] まじる、護[ho] まもる、丸[huan] まろ・まる、見[hyan] みる、廻[huəi] みる・まわる、 これらのことばの祖語には、入りわたり音[h-] がり、それが脱落したものと考えられる。 合[hməp] 、護[hmo] 、丸[hmuan] 、見[hmyan] 、廻[hmuəi] 、恵[hmyuet] 、胸[xmiong] 、 3.調音の位置の近い[ng-]または[n-][nj-][l-]で、日本語のマ行に転移したことば。 眼[ngean] め・まなこ、御[ngia] み、源[ngiuan] みなもと、雅[ngea-]美 みやび、 [n-][nj-] はいずれも鼻音であり、調音の方法が[m-] と同じであり、転移しやすい。また、[l-] は[m-][n-] と調音の位置が近く、転移したものと考えられる。 4.口蓋化によって頭音が脱落し、韻尾が日本語で 独立した音節を形成したたことば。 眞[sjien] ま、神[djien] み、身[sjien] み、 日本語のヤ行は中国語の[-i-]介音の発達によって頭音が脱落したものが多い。 楊[jiang] やなぎ、闇[əm] やみ、夜[jyak] よ・よる、由[jiu] よし、悦[jiuat] よろこぶ、 2.口蓋化などによって、中国語の頭音が脱落したこ とば。 矢[sjiei] や、舎[sjya] や、世[sjiai] よ、夕[zyak] ゆふ、床[dziang] ゆか、 3.中国語の疑母[nj-]、日母[ng-]、来母[l-]が、[-i-]介音によって脱落したことば。 柔[njiu] やはらか、譲[njiang] ゆづる、弱[njiôk] よはし、焼[ngyô] やく、梁[liang] やな、 4・中国語の喉音[h-]などが、後続の[-iu-]介音などによって脱落したことば。 往[hiuang] ゆく、行[heang] ゆく、横[hoang] よこ、詠[hyuang] よむ、 (その他) 古代日本語にはラ行ではじまることばはなかった。
記紀万葉にでてくるラ行のことばは「力士」「轆轤」など数少ない。 ○ワ行 日本語のワ行は中国語の頭音が[-i-]介音などの影響で脱落したものが多い。 1.中国語の頭音[ng-][m-][p-]が日本語でワ行に転移した例。 我[ngai]・吾[nga] わ・われ、鵞[ngai] わし、鰐[ngak] わに、岳[ngak] をか、 2.中国語の頭音が[-iu]介音などによって脱落し、ワ行に転移したことば。 沸[piuət] わく、雄[hiuəng] を、遠[hiuan] をち、絵[huai] ゑ、 3.中国語の介音[-i-]などが日本語でワ行であらわれた例。 若[njiak] わかし、餌[njiə] ゑ、女[njia] をみな、腋[jyak] わき、涌・湧[jiong] わく、 外来語は借用される側の音韻構造に合わせて転移す る。文明開化とともに入ってきた英語などの外来語も日本語の音韻構造に合わせて転移した。福沢諭吉の『学問のすすめ』や『文明論之概略』のなかにも外来語 がいくつか出てくる。
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