第160話
古代日本語語源字典序 日本語の語源は
ほとんどが不明である。タカ(高)が転じて竹(タケ)になったとか、コメ(米)は小実(コミ)、クロ(黒)が転じて鴉(カラス)とか、ヌスミ(盗)が転じ
て鼠(ネズミ)になったというトンチ話のような民間語源説がまことしやかに伝えられている。むずかしい単語は漢語が多いから語源は明らかだが、やさしいこ
とばの語源がわからない。大槻文彦が『言海』のなかで「猫」の語源について次のように書いているのは有名である。
ねこ[名] 猫
(ねこま下略 寐高麗ノ義ナドニテ韓国渡來ノモノカ、上略シテこまトモイ 『広辞苑』の編
者である新村出は『語源を探る』(講談社文芸文庫)のなかで「カゼ、カザというのは、その風の樹木などを吹いて音を立てるその音の擬声語だと解釈する方が
むしろ自然であろう。」「風と雲とは縁が深い。雲の語源はまだ確定していないが、やはりコモルという言葉と語源を同じくするにちがいなかろう。」「アメは
天(あめ)から降るからアメであり、雪というのはおそらくは、純潔、清潔という意味から出たか、あるいは語源の不明な雪という語から清純という形容詞が出
たか、その前後関係は今いった雲の語源と同じように考えられる。」「キリという言葉の語源は、極めてはっきりしていて、限るとか絶ち切るとか、しきるとか
いう場合のキル、すなわち切断する、遮断する、という断の字に当ることは、語学者にも常識家にも、直ちにうなずかれる。」としている。 語源論はことば
のロマンを探ることば遊びとして語られている。日本語の語源は『万葉集』『古事記』『日本書紀』など日本語の古い記録のなかから探るべきであろう。記紀万
葉の世界は漢字だけの世界である。日本語はまず、中国語を表記するための文字として発達してきた漢字によって書かれているから古代日本語の姿を復元するに
は、漢字の歴史を知らなければならない。ところが漢字は象形文字であるため、訓古学では文字の意味は研究が進んでいるが、漢字の音についてはあまり研究が
進んでいるとはいえない。中国語にはさまざまな方言があり、それも時代によって変化しちるから、同じ文字が使ってあってもその音価は違う場合が多い。 唐の時代の漢字
音については唐詩の韻の研究が行われており、切韻とか韻鏡を調べてみれば、かなりくわしく唐代の漢字音を再構築することができる。唐代の漢字音を定点とし
てさらに古い時代の漢字音を再構することもできる。王力の『同源字典』をもとに古代中国語の音韻体系を示すと次のようになる。 頭子音
この表で横軸の音は調音の位置が同じである。影[--]は喉の閉鎖音であり、音価はゼロである。暁[x-]、匣[h-]も咽喉の奥で発声する音で日本語にはない音であ
る。日本漢字音ではカ行に転移することが多い。見[k-]、渓[kh-]、群[g-]、疑[ng-]は口腔の最も奥で発声される。端[t-]、透[th-]、定[d-]、泥[n-]、來[l-]は歯茎の裏、口腔の前方で発声される。幇[p-]、滂[ph-]、並[b-]、明[m-]は唇を閉じて発声する唇音である。調音の位置が同
じ音は転移しやすい。 この表の縦軸は調音の方法が同じである。見[k-]、端[t-]、幇[p-]は破裂音の清音である。群[g-]、定[d-]、並[b-]は破裂音の濁音である。清音と濁音は転移しやす
い。古代日本語では語頭に濁音が立つことはなく、語中では中国語の清音も濁音になる。 日本語には見[k-]・渓[kh-]、端[t-]・透[th-]、幇[p-]・滂[ph-]の区別はない。照[tj-]、穿[thj-]、神[dj-]、日[nj-]、審[sj-]、禅[zj-]は口蓋化音である。照[tj-]系の音は端[t-]系の音が口蓋化してできた音である。中国語では隋
唐の時代に入る前に口蓋化が起こったとかんがえられている。 精[tz-]、清[ts-]、従[dz-]は摩擦音である。また、疑[ng-]、泥[n-]、日[nj-]、明[m-]は鼻音8空気が鼻に抜ける音)である。 調音の位置の同じおとは転移しやすく、調音の方法
の同じ音も転移しやすい。したがって、この表で横の列の音は転移しやすく、縦軸の音も転移しやすい。 日本語では作[tzak]・(サク・つくる)、灰[huəi](カイ・はい)、舞[miua]・(ブ・まう)、眉(ビ・まゆ)、麦(バク・む
ぎ)、牧(ボク・まき)、剥(ハク・はぐ)などの音と訓は同源であり、いずれも中国語語源である、ということになる。訓のほうが古い音であり、日本漢字音
は唐代に中国語音に依拠した新しい音である。 日本漢字音ができあがったのは奈良時代だから、音
は呉音も漢音も広い意味では唐代の漢字音に依拠している。しかし日本列島と中国大陸との交流は弥生時代とともに始まっているから「やまとことば」とされて
いる訓のなかにも中国語起源のことばが数多く含まれている。 中国語の音節は、【語頭音+介音+主母音+韻尾】と
いう形でできている。たとえば、金[kiəm]、
語
頭音+介音+主母音+韻尾 これが日本語では絹[kyuan]・(ケン・きぬ)、嬪[pien]・(ヒン・ひめ)となる。訓の方が古い借用語であ
ある。介音には[-i][-u-][-y-][-iu]などがある。主母音と韻尾を含む韻部は次のように
なっている。 韻部
この表で横軸の音は転移しやすい。また縦軸の音は
甲類、乙類、丙類のなかで転移しやすい。 漢字には同じ声符を持ちながら読み方が違うものが
いくつか見られる。例えば夜[jya]:液[jyak]である。夜(ヤ)は液(エキ)の韻尾の脱落したも
のである。日本漢字音の夜(ヤ)は韻尾の[-k]が脱落した唐代の発音に依拠している。訓の夜
(よ・よる)のうち夜(よる)は夜[jyak]の[-k]が転移したものである。また夜(よ)は夜[jyak]の[-j-]が発達して口蓋化する前の音をとどめている。夜
(よる)が最も古く、韻尾が脱落して夜(よ)なり、さらに夜(ヤ)となったと考えられる。 奥(オウ・おく)の古代中国語音は奥[uk]と推定されている。現代北京語では奥(ao)である。日本語の奥(おく)は古い時代の中国語音
に依拠したものであり、奥(オウ)は唐代以降の中国語音に依拠している。なお、沖(おき)も語源は「澳」である。また、燠(おき)は火鉢などに火種を貯え
ておくもので、今ではつかわれなくなったことばだが中国語語源である。 また、墓[ma]・(ボ)、幕[mak]・(マク)では墓は幕の韻尾[-k]が脱落したものである。墓の訓である墓(はか)は
墓が墓[mak]であった古い時代の痕跡を留めている。 中国語の熟語のなかには同義のことばを重ねて強調
するもの多くみられるが、これらはいずれも同源語である。
涸渇[kha-khat]、
施設[sjiai-sjiat]、
跳躍[dyô-jiôk]、
柔弱[njiu-njiôk]、
捜索[shiu-sheak]、 日本語の弥生音
の元になっている古代中国語音についてはスウェーデンの言語学者が詳細な研究を行っている。その後台湾の音韻学者である董同龢が『上古音韻表稿』を著わし
て古代中国語の音韻体系を明らかにした。中国では王力が『同源字典』によって、「音近ければ義近し」として、漢字も表意文字ではあるが音の類似した文字は
同源であることを指摘した。 日本では藤堂明
保が『学研漢和大辞典』で漢字音の時代別の変移を上古音(周・秦)、中古音(隋・唐)、中原音韻(元)に分けて示した。また、白川静は『字通』に王力の
『同源字典』の考え方を紹介し、ローマ字表記に近い形で古代中国語音を示している。王力の『同源字典』は日本語に翻訳されていないので、白川静の『字通』
を見ると便利である。 しかし、古代中
国語音は多くの学者が異なった表記法を採用しているばかりでなく、その復元した音価も学者によって異なることが少なくない。それは古代といっても時代が数
百年違えば発音は変化し、またちほうによって同じ発音をしているわけではないので、やむをえないことではあるが、古代日本語との関係を検証するにはやっか
いな問題でもある。本稿では王力の『同源字典』を標準点と考え、必要に応じてカールグレン、董同龢、藤堂明保を参照することとした。 ただし、王力の古代中国語音は唐代の発音を基礎と
して、それからなるべき離れない形で復元されているので、隋唐時代以前にあったとそうていされる古代音については「上古音」として区別して用いているとこ
ろがある。 日本語の訓のなかには中国語の上古音に依拠した弥
生音(呉音・漢音以前の中国語からの借用音)が含まれている。表記で[
]は
古代音であり、(
)は
現代音をあらわす。 「第161話 あ・われ(我)の語源」以下は「あ
いうえお」順の配列になっている。 主な参考文献 王力『同源字典』商務印書館、北京、1997年、
初版1982年 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|