第53話 ベトナム漢字音の痕跡

  漢字文化圏は中国大陸、朝鮮半島、日本列島ばかりでなく、ベトナムにも及んでいる。ベトナムは漢の武帝の時代から約千年にわたって中国の植民地であった。 ベトナムという呼称も中国語の「越南」をベトナム漢字音で読んだものである。ベトナム漢字音は日本漢字音や朝鮮漢字音とは違った発音がある。越南(ベトナ ム)、河内(ハノイ)、胡志明(ホー・チミン)などはいずれもベトナム語読みである。中根谷徹の『ベトナム漢字音の研究』によると、ベトナム漢字音はつぎ のようになる。

   越南veit nam、 河内ha noi、 胡志明ho chi-ming

 ベトナムでも漢字を使ってベトナム語を表記する方法は試行錯誤の連続だった。ベトナムでは漢字でベトナム語を表記するのに字喃「チュノム」という文字が工夫された。漢字の意味とベトナム語の音を組み合わせる方法で、例えば「/*」と書いて林「ラム」と読む。「百」が意味を表し、「林」がベトナム語の音を表す。また、「南年*」と書いて南「ナム」と読む。南「ナム」が音を表わし、「年」が意味を表わす。「足多*」は音は「タ」、意味は蹴るである。吶は音は「ノイ」、意味は云うである。一時は公式の文書も字喃(チュノム)で書かれ、中国語の文学作品が字喃に翻訳されたこともあったが、結局は漢字をさらに複雑にすることになり、使われなくなってしまった。
 *百
/*=百冠+林、南年*=南+年、*足多*=足+多、

17世紀にはイエズス会の宣教師によってローマ字表記の「クオック・グウ(国語)」が請考案され、フランス植民地時代には中国との繋がりを断つために積極的に使われるようになった。ベトナムの地名や人名の漢字音は江南地方の古い中国語音の痕跡を留めている。

  清化(タインホア)、西山(タイソン)、新安(タンアン)、昇龍(タンロン)、
   占城(チャンパ)、順化(フエ)、奠邊府(ディエン・ビエン・フー)、湄公(メコン)、
   阮愛国(グエン・アイクオック)、高王(カオヴォン)、陳仁宗(チャン・ニャントン)、

 ○ ベトナム語では、古代中国語の越[jiuat]、王[hiuang]、文[miuən]などのように中国語の[-iu-] 介音が  「ヴ」であらわれる。

(van)、 文(van)、 萬(van)、 物(vat)、 偉(vi)、 尾(vi)、 院(vien)、 炎(vien)、 越(viet)
  亡
(vong)、 雨(vu)、 武(vu)、 無(vu)、 王(vuong)

 ○ ベトナム漢字音では中国語の喉音は保たれて河(ha)、胡(ho) のようにあらわれる。

 ○ 日本漢字音のサ行はベトナム漢字音では、タ行で現れることがある。

   志(chi)、 之(chi)、 旨(chi)、 脂(chi)、 肢(chi)、 至(chi)、 止(chi)
(thi)、 斯(tu)、 手(thu)、 散(tan)、 作(tac)、 常(thuong)、 辰(than)、 時(thoi)、 盾(thuan)、 十(thap)、   絶(tuyet)

  ベトナム漢字音は、中国南部の古い発音を受け継いでいる。日本語でも音でサ行に発音されることばが、訓ではタ行で発音されることがあり、江南地方の古代音との関係を考えてみる必要がある。

手(シュ・て)、  散(サン・ちる)、 作(サク・つくる)、 常(ジョウ・つね)、
   辰(シン・たつ)、 時(ジ・とき)、  盾(ジュン・たて)、
十 (ジュウ・とを)、
   絶(ゼツ・たえる)、堪(ジン・たえる)、出(シュツ・でる)、津(シン・つ)、
   照(ショウ・てる)、床(ショウ・とこ)、束(ソク・つか)、 取(シュ・とる)、

中 国江南地方の方言でタ行音として発音されることばが、弥生音として古代日本語に受け入れられて手「て」、散「ちる」、作「つくる」などの日本語になった可 能性がある。その後タ行音は摩擦音化してサ行音になり、手「シュ」、散「サン」、作「サク」と発音されるようになったと推論することができる。同じ声符を もった漢字でカ行とサ行に読み分けるものがかなりあることも、その傍証となる。

石(セキ)・拓(タク)、折(セツ)・哲(テツ)、   失(シツ)・鉄(テツ)、
     説(セツ)・脱(ダツ)、植(ショク)・直(チョク)、豆(ズ)・頭(トウ)、

 カ行とサ行の関係は中国語音でも複雑である。たとえば、現代北京語のjin qinxinは日本漢字音 では「キン」と「シン」あるいは「ジン」となる。日本語のカ行音・サ行音と現代北京語音との関 係は複雑で、つぎのようになる。

  北京語音    日本語音カ行「キン」    日本語音サ行「シン」
    jin     斤、近、禁、巾、今、金、  浸、津、進、晋、尽、
        筋、謹、緊、錦、

       qin      芹、勤、欽、禽、琴、           侵、寝、親、秦、沁
       xin        欣、                                    心、芯、辛、新、信、

 北京語のqin chin に近く、xin shin に近く発音する。中国語では「北京」は北京(Beijing)であり、青島は青島(Qingdao) である。北京のローマ字表記は、今は北京(Beijing)とするのが一般的だが、かつては北京(Peking)と書き慣わしていた。これらの漢字の中国語方言音、朝鮮漢字音、ベトナム漢字音を調べてみると、つぎのようにな対応がみられる。

   古代中国語音 北京語 広東語  上海語 朝鮮語  ベトナム語
    斤     kiən        jin       gan         jin           keun        can
    欣     xiən          xin       yan         xin          heun        han
    侵     tsiəm         qin       cham       qin          chim        xam
    浸  tziəm         jin        jam          jin           chim        tam

  北京語の斤(jin)は古代中国語の[k-] が介音iの影響で前舌音となり/tji-/ に近い音になり、それが破擦音化して斤(jin)  となったものであろう。欣(xin) は喉音であり、広東語では頭音が失われている。浸(jin) の古代中国語音が侵[tziəm] であり、北京語の浸(jin) は古代中国語音に近い。ベトナム語音はi介音が失われて浸(tam)になり、朝鮮語音ではi介音の影響で口蓋化して浸(chim) になった。

日 本漢字音は一般に朝鮮漢字音にもっとも近い。しかし、弥生時代の借用音のなかにはベトナム語音の影響、あるいは中国江南地方の方言の影響ではないかと思わ れるものがある。ベトナム語音は江南地方の古代音の痕跡を残している可能性があるので、古代の日本語音を復元するのには、ベトナム漢字音も参考にする必要 がある。

作(サク・つくる)、散(サン・ちる)、時(ジ・とき)、手(シュ・て)、取(シュ・とる)、十(ジュウ・とを)、出(シュツ・でる)、盾(ジュン・たて)、照(ショウ・てる)、
床(ショウ・とこ)、常(ジョウ・つね)、辰(シン・たつ)、津(シン・つ)、
堪(ジン・たえる)、絶(ゼツ・たえる)、束(ソク・つか)、

  これらの弥生音は中国江南地方の古代音を継承している可能性がある。ベトナム漢字音はその傍証となる。

もくじ

☆第42話 北京看板考

★第46話 ソウル街角ウオッチング

☆第51話 現代中国語と韓国・朝鮮語

★第52話 北京音・朝鮮語音・日本漢字音