第254話 文 字文化の担 い手・史(ふひと)

 

 柿本人麻呂の歌は漢字の訓だけを使って助詞など は記されていないもの、吏読のように日本語の助詞や活用語尾を書きくわえてあるものなど、さまざまな書記法が使われているので、万葉集の編者はさまざまな 史の手を経て伝えられた歌を万葉集に載せたのであろう。

雄略天皇の歌な古事記や日本書紀の歌謡にいくつか 載録されているが、使われている漢字の音価を詳細に調べてみると、万葉集の歌の史と記紀歌謡の史の漢字の使い方は違う。三百年もの間には同じ漢字でも読み 方が変わってしまう。

 
 確かに万葉集は全部漢字で書かれている。しか し、漢字で書かれているからといって全部漢文であるわけではない。題詞の部分は漢文で 書かれていて、日本人が読んでも中国人が読んでも意味を理解することはできる。歌の部分は漢字を借用して日本語を表記しているので、中国語としては読めな い。

 記紀万葉の時代の日本語を漢字で表記したのは、 朝鮮半島から渡来した史(ふひと)たちであった。彼らの多くは中国人の末裔であると主張していた。漢字こそが中国文明の真髄であり、史は文字によって中国 文化をになうことを誇りとしていた。史は世襲性であった。史はアジアで唯一の文字文化を構築した中国人の末裔でなければならなかった。

 
 いずれにしても、雄略天皇などが上表文に正式な 漢文も書き、万葉集の音訓を交えた日本語文を書き、古事記、日本書紀という違った音韻体系をもった文書に自分の歌を自分の手で書いたものとは考えられな い。史(ふひと)には百済系、高麗系などさまざまな背景をもった人たちがいた。日本書紀には阿直岐史をはじめ船史(ふねのふびと)、白猪史(しらゐのふび と)、津史(つのふびと)などが登場して、徴税や外国からの賓客の接待にあたっている。

 
 万葉集にはさまざまな表記法が併用されている。 柿本人麻呂の歌は人麻呂が書写し、雄略天皇の歌は雄略天皇が漢字を選んで書いたとするのは無理がある。万葉集は三百年にわたる時代の歌を大集成している。 日本語としての表記法が成熟していなかった時代にはさまざまな表記法が試みられた。それをまとめえたのは史(ふひと)たちのみであったろう。史の多くは朝 鮮半島からの渡来人であった。しかし、渡来人も出張期間が過ぎると母国へかえって行くという人びとではなく、二世三世になると日本の文化をささえる中核と なる日本人になっていった。そして、在来の日本人も渡来の漢字文化を受け入れて律令国家を形成していった。

 
 『日本書紀』に史のことがしばしば書かれてい る。史のことがはじめて登場するのは応神天皇の時代のことである。

 
  応神15年秋8月6日、百済王は阿直岐(あち き)を遣わして、良馬二匹を奉った。
  それを大和の軽の坂上の厩で飼わせた。阿直岐 に掌らせて飼わせた。その馬飼いをし
  たところを厩坂という。阿直岐はまたよく経書 を読んだ。それで太子莵稚郎子(うぢ
  のわきいらつこ)の師とした。天皇は阿直岐に 「お前よりもすぐれた博士(ふみよむ
  ひと)がいるか」と問われた。これに対して 「王仁(わに)という者がおり、秀れて
  おります」と申しあげた。上毛野(かみつけ の)君の先祖の荒田別(あらたわけ)・巫
  別(かむなきわけ)を百済に遣わして、王仁を 召された。阿直岐は阿直岐の史の先祖
  である。(現代語訳)

 
 文字は馬とともにもたらされた。『魏志倭人伝』 には邪馬台国には馬はいないと書いてあるから、馬も文明とともに大陸からもたらされたの である。6世紀になると史の記録がしばしば登場する。

 
 欽明14年秋7月4日、樟勾宮(くすのまがりの みや)に行幸された。蘇我大臣稲目宿禰(いなめのすくね)が勅を承って、王辰爾(おうしんに)を遣わし船の税を記録させた。王辰爾を船司(ふねのつかさ) とし、姓を賜って船史(ふねのふびと)とした。今の船連(ふねのむらじ)の先祖である。

 欽明30年夏4月、胆津の白猪田部の丁者(よほ ろ)を調べて、詔に従い戸籍を定めた。これにより田戸(たへ)の正確な戸籍ができた。天皇は胆津が戸籍を定めた功をほめて、姓を賜い白猪史(しらいのふび と)とされた。田令(たつかい)に任ぜられて、葛城山田の直(あたい)瑞子(みつこ)の副官とされた。

 
史の役割は徴税から戸籍の作成まで幅広い。敏達天 皇の時代にはあの有名な烏羽の上表というエピソードが記されている。

 
  敏達元年5月15日、天皇は高麗(こま)の国 書をとって、大臣に授けたまう。諸の

  史(ふびと)を召し集めて、読み解かしめた。 史たちは3日かかっても、誰も解読す

  ることができなかった。そのとき船史(ふねの ふびと)の祖先、王辰爾(おうしんに)

  が読み解いてつかまつったので、天皇と大臣は 共にほめて、『よくやった。辰爾(しん

  に)。さすがだ。お前がもし学問に親しんでい なかったら、誰がこの文章を読み解き得

  たろうか。今後は殿内に侍って仕えるように』 といわれた。そして東西の(大和と河内

  の)史に、『お前たちの習業はまだ足りない。お前たち の数は多いが、辰爾一人に及ばな

  いではないか』といわれた。高麗のたてまつっ た文書は、烏(からす)の羽に書いて

  あった。字(もじ)は烏の羽の黒いのに紛れ て、誰も読める人がなかった。辰爾は羽

  を炊飯の湯気で蒸して、帛(ゆれきぬ・柔らか い上等の絹布)に羽を押しつけ、全部

  その字を写しとった。朝廷の人々は一様にこれ に驚いた。

 

 高句麗では国の初め(紀元前37年)から漢字を 使用していて、『留記』という国史百巻を編集している。朝鮮半島では漢字で朝鮮語を表記する方法も早くから試みられていた。助辞を音訓の漢字で書き加える 吏読体、朝鮮語の語順によって漢字を書き連ねる誓記体、音と訓を併用し多くの添読字を加える郷札体などの表記法があった。『日本書紀』の逸話は、烏の羽に 書いてあったというのはフィクションだとしても、高麗からの国書が、正規の漢文でなく、朝鮮半島で工夫された表記法で書かれていた可能性を示唆している。 日本に渡来した史は、出身地や渡来した時期によって、違った表記法を身につけていたものと考えられる。

 

 応神期に、西史(かふちのふひと)の王仁が、は じめて文字を日本に伝えたといわれている。西暦でいうと四世紀の終りか5世紀の初頭にあたる。後に東漢(やまとのあや)の阿知使主(あちのおみ)などが渡 来してこれに加わる。5世紀後半には百済・任那の人びとが日本列島に渡来し、6世紀中葉には高句麗からの渡来者がきた。船史(ふなのふひと)は船の賦を掌 り、白猪史(しらゐのふひと)は屯倉、津史(つのふひと)は難波津の賦を掌った。

 7世紀中ごろには百済が滅亡して数千人の亡命者 があった。これらの人びとは正規の漢文を書くだけでなく、漢字によって日本語を記録する必要にせまられていたに違いない。漢字で日本語を表記する方法は、 万葉集が成立する何世紀も前から準備されていたのである。

 

 やがて8世紀になると、『古事記』、『日本書 紀』、『万葉集』が相次いで成立する。『日本書紀』は正式の漢文で書かれている。『古事記』は、太安万侶の序文は漢文で書かれているが、本文はいわゆる変 体漢文で書かれている。『万葉集』は題詞は漢文で書かれているが、歌は音を主体に書かれているもの、訓を主体に書かれているもの、助辞が省略された表記、 助辞を添記した表記など、朝鮮半島で発達したさまざまな表記法が混用されている。それは、史の家系によって、漢字による日本語の表記法が一様でなかったこ とを示唆している。万葉集についてみると、同じ柿本人麻呂の歌でも、表記法はさまざまである。

 

 現代の文学者は文体を重んじ、字くばりも文体と 考えて文字を選ぶ。しかし、柿本人麻呂が歌の内容にあわせて表記法を変えたとは考えにくい。また、人麻呂が何種類もの表記法に通じていて、ときと場合に よってそれらを使い分けたというのも説得力に欠ける。

人麻呂の活躍した時代は680年から709年の間 であり、万葉集が成立したとされる天平宝字三年(759年)からみると半世紀以上前のことになる。人麻呂の筆跡がそのまま残っていて万葉集に載録されたと は考えにくい。『人麻呂歌集』の歌は『人麻呂歌集』の編纂に携わった史(ふひと)の手で文字化されたと考えられる。万葉集巻1から巻3までを担当した史が いて、その他の巻についてもそれぞれ編纂に携わった史がいて、それぞれの史の家に伝えられた表記法を選んだと考えるのが穏当ではなかろうか。

 

1.助詞や活用語尾が表記されていないもの。『人 麻呂歌集』などに多い。

 
春 楊 葛山 発雲 立座 妹念(万 2453)

<春楊(はるやなぎ) 葛山(かつらぎやまに)  發(たつ)雲(くもの) 立(たち 
ても)座(ゐても) 妹(いもをしぞ)念(おも ふ)>

 
戀 死 戀死哉 我妹 吾家門 過行(万2401)

<戀(こひ)死(しなば) 戀(こひも)死(しね と)や 我妹(わぎもこが)
吾家(わぎへの)門(かどを) 過(すぎて)行 (ゆくらむ)>

 
2.助詞や活用語尾を添記したもの。万葉集でもっ とも多く用いられている表記法である。

 
楽 浪之 思賀乃辛崎 雖幸 有  大宮人之 船麻知兼津(万 30)

<楽浪(ささなみ)の 思賀(しが)の辛崎(から さき) 雖幸有(さきくあれど)  
大宮人(おほみやびと)の 船(ふね)麻知(ま ち・待)兼(かね)つ>


左 散難弥乃 志我能 大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛(万31)

<ささなみの 志我(しが)の 大(おほ)和太 (わだ) よどむとも 昔(むかしの)
人(ひと)に 亦(また)も相(あは)めやも>

 
3.漢字の音だけを使って表記したもの。大伴家持 や後期万葉集の歌、東歌、防人の歌などに多い。

 
  須賣呂伎能 御代佐可延牟等 阿頭麻奈留 美知乃久夜麻尓 金花佐久(万4097)

 <須賣呂伎(すめろぎ・天皇)の 御代(みよ) 佐可延牟(さかへむ・榮)と 阿頭麻
 (あづま・東)なる 美知乃久(みちのく・陸 奥)夜麻(やま・山)に 金(くがね)
 花(はな)佐咲(さく・咲)>(大伴家持)

 
  筑波祢尓 由伎可母布良留 伊奈乎可母 加奈思吉兒呂我 尓努保佐流可母
 (万3351)

 <筑波祢(つくばね)に 由伎(ゆき・雪)かも 布良留(ふらる・降) 伊奈(いな・
 否)をかも 加奈思吉(かなしき)兒呂(ころ) が 尓努(にぬ・布)保佐流(ほさる・
 乾)かも>(東歌)

 
 美豆等利乃 多知能已蘇岐尒 父母尒 毛能波須價尒弖 已麻 叙久夜志伎(万4337)

 <美豆等利(みづとり・水鳥)の 多知(たち・ 發)の已蘇岐(いそぎ・急)に 父母
 (ちちはは)に 毛能(もの)波須(はず・言) 價(け・来)にて 已麻(いま・
 今)ぞ久夜志伎(くやしき・悔)>(防人の歌)

 
  和呂多比波 多比等於米保等 已比尒志弖 古米知夜須良牟 和加美可奈志母
 (万4343)

 <和呂(わろ・吾等)多比(たび・旅)は 多比 (たび・旅)と於米保(おめほ・念)
 ど 已比(いひ・家)にして 古(こ・子)米知 (めち・持)夜須(やす・痩)らむ 和
 加(わが)美(み・女)可奈志(かなし)も> (防人の歌)

 
 現代の人類学者や言語学者が文字をもたない未開 民族の言語を研究する場合、辞書もなく文法書もないので現地のインフォーマント(話者)から聞き取りをして、それを文字化することになるが、人によって発 音の仕方が違い、それぞれ自分が正しいと主張するので収拾が付かず、どれが標準的な発音なのか、音韻構造を把握するだけでも大変だという。

万葉集の時代には、懐風藻に詩を残した宮廷の人び とや僧侶、山上憶良などは不自由なく漢字をあやつることができたに違いないが、日本語の書記法が確立していたわけでもなく、文字をあつかうのは史(ふひ と)という専門職の専有物であった。

 
 朝鮮半島は紀元前108年に楽浪郡などがおかれ て以来中国文明の影響を受けてきた。ことばも中国語の影響を受けた。日本でも大和朝廷が成立して国家としての体裁をととのえることができたのは、早い時期 から中国と間接、直接に接触して、中国文化を取り入れてきた結果である。

 朝鮮半島には吏読、誓記体、郷歌など漢字で朝鮮 語を記録する方法が古くから試みられており、万葉集の書記法も朝鮮半島における書記法を援用したものと思われる。李基文の『韓国語の歴史』によって、朝鮮 半島における書記法を概観してみると次のようになる。

 
○吏読

辛亥年二月廿六日 南山新城作節 如法以作 後三 年崩破者 罪教事為聞教令誓事之、、(慶州南山新城碑)

 
 この碑文では「節」「以」「者」「教」「令」 「之」が吏読だとされている。「後三年崩破者」とある「者」は朝鮮語の訓で読まれ、「その後三年破れば、、、」という意味になる。李読は高麗と李朝でも主 として公私文書に使用された。

 万葉集でも「者」は日本語の助辞の表記に使われ ている。

[日本語原文]

熟 田津爾 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜(万8)額田王

<熟田津(にきたつ)に 船乗(ふなのり)せむと  月(つき)待(まて)ば 潮(しほ)もかなひぬ 今(いま)は許藝(こぎ・漕)乞(いで・出)な>

 
淡 海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尒 古所レ念(万266)柿本人麻呂

<淡海(あふみ)の海(み) 夕浪(ゆふなみ)千 鳥(ちどり) 汝(なが)鳴(なけ)ば 情(こころ)もしのに 古(いにしへ)所レ念(おもほゆ)>

 万葉集では「月待てば」を「月待者」とし、「汝 が鳴けば」を「汝鳴者」のように使われている。日本語や朝鮮語は膠着語であり、「てにをは」にあたる助詞や活用語尾が、ことばとことばを糊しろのように貼 り付けしていく。これにたいして、孤立語である中国語には助詞や活用語尾がほとんどない。そこで初期の日本語を表記した史たちは、朝鮮語を漢字で表記した 経験をもとにして、日本語の助辞や活用語尾を表記した。

 
○誓記体

壬 申年六月十六日 二人幷誓記 天前誓 今自三年以後 忠道執持 過失无誓 若此事失 天大罪得誓 若国不安大乱世 可容行誓之、、(壬申誓記石)

 
 この文章は漢文の語順ではなく、新羅語の語順で 書かれている。新羅語(朝鮮語)の語順は日本語の語順と同じだから、そのまま訳してみると次のようになる。

 

  壬申年六月十六日に、二人がともに誓って記 す。天の前に誓う。今より三年後に、忠
  道を執持し、過失のないことを誓う。もしこの ことを失えば、天に大罪を得んことを
  誓う。もし国が安からず大いに世が乱れるなら ば、よろしくすべからく(忠道を)行
  わんことを誓う、、

 

○郷歌

 郷歌は新羅の萬葉集にあたるものだが『三国遺 事』にのせられている十四首と、『均如伝』にのせられている十一首だけが伝わっている。日本の植民地時代に小倉進平が解読につとめ、独立後は梁柱東が『古 歌研究』として集大成している。そのうちの一首「月明師為亡妹榮斎歌」の一部は次のよう記されている。

 
   生死路隠 此矣有阿米次肹伊遺 吾隠去内如辞叱都 毛如云遺去内尼叱古 於内秋察
   早隠風未、、

 
  生死の路は 此(ここ)に有りと懼れをなし  吾は去(ゆく)という辞(ことば)も 
  知らず云(いひ)て去(ゆく)か いづれの秋 の早い風に、、

 
○隠 「隠」は朝鮮語の主格助詞neunをあらわす。
○矣 「矣」は場所を示す助詞
eに用いられている。
○秋祭 「秋祭」と書いて
ma sulと読む。「祭」は「秋祭り」のいみではなく、 「秋」の韻
 尾が祭
(sul)と同じであることを示すための末音添記である。 
○風未 「風未」の「未」も「風」を音ではなく、 訓(朝鮮古来のことば)である
pa ramと 読むことを示すための末音添記である。

  ハングルが普及してからは朝鮮語では漢字は音読 しかしないが、郷歌の時代には漢字だけで朝鮮語を書いていたので、漢字は音読も訓読もする。郷歌の解読がむずかしいのは、どの漢字を訓読し、どの漢字を音 読するか区別がつきにくい点にある。

 そのために訓読の文字には第二音節の音を末音添 記して読み間違えのないようにした。





もくじ

第252話 万葉人の言語生活

第253話 柿本人麻呂とは誰か

第255話 柿本人麻呂の「ことば」世界