柿本人麻呂の歌は漢字の訓だけを使って助詞など
は記されていないもの、吏読のように日本語の助詞や活用語尾を書きくわえてあるものなど、さまざまな書記法が使われているので、万葉集の編者はさまざまな
史の手を経て伝えられた歌を万葉集に載せたのであろう。 雄略天皇の歌な古事記や日本書紀の歌謡にいくつか
載録されているが、使われている漢字の音価を詳細に調べてみると、万葉集の歌の史と記紀歌謡の史の漢字の使い方は違う。三百年もの間には同じ漢字でも読み
方が変わってしまう。
記紀万葉の時代の日本語を漢字で表記したのは、
朝鮮半島から渡来した史(ふひと)たちであった。彼らの多くは中国人の末裔であると主張していた。漢字こそが中国文明の真髄であり、史は文字によって中国
文化をになうことを誇りとしていた。史は世襲性であった。史はアジアで唯一の文字文化を構築した中国人の末裔でなければならなかった。
欽明30年夏4月、胆津の白猪田部の丁者(よほ
ろ)を調べて、詔に従い戸籍を定めた。これにより田戸(たへ)の正確な戸籍ができた。天皇は胆津が戸籍を定めた功をほめて、姓を賜い白猪史(しらいのふび
と)とされた。田令(たつかい)に任ぜられて、葛城山田の直(あたい)瑞子(みつこ)の副官とされた。
史(ふびと)を召し集めて、読み解かしめた。
史たちは3日かかっても、誰も解読す ることができなかった。そのとき船史(ふねの
ふびと)の祖先、王辰爾(おうしんに) が読み解いてつかまつったので、天皇と大臣は
共にほめて、『よくやった。辰爾(しん に)。さすがだ。お前がもし学問に親しんでい
なかったら、誰がこの文章を読み解き得 たろうか。今後は殿内に侍って仕えるように』
といわれた。そして東西の(大和と河内 の)史に、『お前たちの習業はまだ足りない。お前たち
の数は多いが、辰爾一人に及ばな いではないか』といわれた。高麗のたてまつっ
た文書は、烏(からす)の羽に書いて あった。字(もじ)は烏の羽の黒いのに紛れ
て、誰も読める人がなかった。辰爾は羽 を炊飯の湯気で蒸して、帛(ゆれきぬ・柔らか
い上等の絹布)に羽を押しつけ、全部 その字を写しとった。朝廷の人々は一様にこれ
に驚いた。 高句麗では国の初め(紀元前37年)から漢字を
使用していて、『留記』という国史百巻を編集している。朝鮮半島では漢字で朝鮮語を表記する方法も早くから試みられていた。助辞を音訓の漢字で書き加える
吏読体、朝鮮語の語順によって漢字を書き連ねる誓記体、音と訓を併用し多くの添読字を加える郷札体などの表記法があった。『日本書紀』の逸話は、烏の羽に
書いてあったというのはフィクションだとしても、高麗からの国書が、正規の漢文でなく、朝鮮半島で工夫された表記法で書かれていた可能性を示唆している。
日本に渡来した史は、出身地や渡来した時期によって、違った表記法を身につけていたものと考えられる。 応神期に、西史(かふちのふひと)の王仁が、は
じめて文字を日本に伝えたといわれている。西暦でいうと四世紀の終りか5世紀の初頭にあたる。後に東漢(やまとのあや)の阿知使主(あちのおみ)などが渡
来してこれに加わる。5世紀後半には百済・任那の人びとが日本列島に渡来し、6世紀中葉には高句麗からの渡来者がきた。船史(ふなのふひと)は船の賦を掌
り、白猪史(しらゐのふひと)は屯倉、津史(つのふひと)は難波津の賦を掌った。 7世紀中ごろには百済が滅亡して数千人の亡命者
があった。これらの人びとは正規の漢文を書くだけでなく、漢字によって日本語を記録する必要にせまられていたに違いない。漢字で日本語を表記する方法は、
万葉集が成立する何世紀も前から準備されていたのである。 やがて8世紀になると、『古事記』、『日本書
紀』、『万葉集』が相次いで成立する。『日本書紀』は正式の漢文で書かれている。『古事記』は、太安万侶の序文は漢文で書かれているが、本文はいわゆる変
体漢文で書かれている。『万葉集』は題詞は漢文で書かれているが、歌は音を主体に書かれているもの、訓を主体に書かれているもの、助辞が省略された表記、
助辞を添記した表記など、朝鮮半島で発達したさまざまな表記法が混用されている。それは、史の家系によって、漢字による日本語の表記法が一様でなかったこ
とを示唆している。万葉集についてみると、同じ柿本人麻呂の歌でも、表記法はさまざまである。 現代の文学者は文体を重んじ、字くばりも文体と
考えて文字を選ぶ。しかし、柿本人麻呂が歌の内容にあわせて表記法を変えたとは考えにくい。また、人麻呂が何種類もの表記法に通じていて、ときと場合に
よってそれらを使い分けたというのも説得力に欠ける。 人麻呂の活躍した時代は680年から709年の間
であり、万葉集が成立したとされる天平宝字三年(759年)からみると半世紀以上前のことになる。人麻呂の筆跡がそのまま残っていて万葉集に載録されたと
は考えにくい。『人麻呂歌集』の歌は『人麻呂歌集』の編纂に携わった史(ふひと)の手で文字化されたと考えられる。万葉集巻1から巻3までを担当した史が
いて、その他の巻についてもそれぞれ編纂に携わった史がいて、それぞれの史の家に伝えられた表記法を選んだと考えるのが穏当ではなかろうか。 1.助詞や活用語尾が表記されていないもの。『人
麻呂歌集』などに多い。
<春楊(はるやなぎ) 葛山(かつらぎやまに)
發(たつ)雲(くもの) 立(たち
<戀(こひ)死(しなば) 戀(こひも)死(しね
と)や 我妹(わぎもこが)
<楽浪(ささなみ)の 思賀(しが)の辛崎(から
さき) 雖二幸有一(さきくあれど) 左
散難弥乃 志我能 大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛(万31) <ささなみの 志我(しが)の 大(おほ)和太
(わだ) よどむとも 昔(むかしの)
<須賣呂伎(すめろぎ・天皇)の 御代(みよ)
佐可延牟(さかへむ・榮)と 阿頭麻
<筑波祢(つくばね)に 由伎(ゆき・雪)かも
布良留(ふらる・降) 伊奈(いな・
<美豆等利(みづとり・水鳥)の 多知(たち・
發)の已蘇岐(いそぎ・急)に 父母
<和呂(わろ・吾等)多比(たび・旅)は 多比
(たび・旅)と於米保(おめほ・念)
万葉集の時代には、懐風藻に詩を残した宮廷の人び
とや僧侶、山上憶良などは不自由なく漢字をあやつることができたに違いないが、日本語の書記法が確立していたわけでもなく、文字をあつかうのは史(ふひ
と)という専門職の専有物であった。
朝鮮半島には吏読、誓記体、郷歌など漢字で朝鮮
語を記録する方法が古くから試みられており、万葉集の書記法も朝鮮半島における書記法を援用したものと思われる。李基文の『韓国語の歴史』によって、朝鮮
半島における書記法を概観してみると次のようになる。
辛亥年二月廿六日 南山新城作節 如法以作 後三
年崩破者 罪教事為聞教令誓事之、、(慶州南山新城碑)
万葉集でも「者」は日本語の助辞の表記に使われ
ている。 [日本語原文] 熟
田津爾 船乗世武登 月待者 潮毛可奈比沼 今者許藝乞菜(万8)額田王 <熟田津(にきたつ)に 船乗(ふなのり)せむと
月(つき)待(まて)ば 潮(しほ)もかなひぬ 今(いま)は許藝(こぎ・漕)乞(いで・出)な>
<淡海(あふみ)の海(み) 夕浪(ゆふなみ)千
鳥(ちどり) 汝(なが)鳴(なけ)ば 情(こころ)もしのに 古(いにしへ)所レ念(おもほゆ)> 万葉集では「月待てば」を「月待者」とし、「汝
が鳴けば」を「汝鳴者」のように使われている。日本語や朝鮮語は膠着語であり、「てにをは」にあたる助詞や活用語尾が、ことばとことばを糊しろのように貼
り付けしていく。これにたいして、孤立語である中国語には助詞や活用語尾がほとんどない。そこで初期の日本語を表記した史たちは、朝鮮語を漢字で表記した
経験をもとにして、日本語の助辞や活用語尾を表記した。
壬
申年六月十六日 二人幷誓記 天前誓 今自三年以後 忠道執持 過失无誓 若此事失 天大罪得誓 若国不安大乱世 可容行誓之、、(壬申誓記石)
壬申年六月十六日に、二人がともに誓って記
す。天の前に誓う。今より三年後に、忠 ○郷歌 郷歌は新羅の萬葉集にあたるものだが『三国遺
事』にのせられている十四首と、『均如伝』にのせられている十一首だけが伝わっている。日本の植民地時代に小倉進平が解読につとめ、独立後は梁柱東が『古
歌研究』として集大成している。そのうちの一首「月明師為亡妹榮斎歌」の一部は次のよう記されている。
そのために訓読の文字には第二音節の音を末音添
記して読み間違えのないようにした。 |
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