万葉集を代表する歌人柿本人麻呂の生涯は、正史
に記録がないことから、謎につつまれている。近江朝をしのぶ歌を残していることから天武天皇、持統天皇、文武天皇の時代にかけての人と考えて間違いないで
あろう。 柿本朝臣を名のる人物で正史に登場するのは、天
武10年(681年)に小錦下(しょうきんげ)を授けられ和銅元年(708年)に従四位下で亡くなった、柿本猨(さる)という人物だけである。 『日本書紀』には「柿本臣猨など、あわせて十一
人に小錦下の位を授けたまふ」(681年)とあり、『続日本紀』には「従四位下柿本朝臣佐留卒す」(708年)とある。この柿本猨と柿本人麻呂とは、どの
ような関係があるのだろうか。柿本人麻呂と柿本猨とは別人物だと考える人も多い。申年に生まれたから猨と呼ばれたという説もある。猨は柿本人麻呂と同一人
物だと考える人も、万葉集を代表する歌人に猨という名前はふさわしくないと感じている。 柿本人麻呂が歌を詠んだのは680年から709
年ころの間である。柿本猨は和銅元年(708年)に亡くなったとされているから、人麻呂が創作活動をした時代とほぼ重なっている。『日本書紀』や『続日本
紀』に登場する柿本猨は、柿本人麻呂と同一人物である可能性がある。 柿本「猨」あるいは柿本朝臣「佐留」は、「猿」
ではなくて、百済などの官位「率」である。「率」の古代中国語音は率[shiuət] である。中国語韻尾の[-t] は朝鮮漢字音では規則的に[-l] になるから、百済の官位「率」は百済語では率(sol) になる。そして、日本語では卒「そち」と呼ばれ
た。百済の官位十六品は上から順に、つぎのようになっている。
『日本書紀』の「柿本臣猨」、『続日本紀』の
「柿本朝臣佐留」は「柿本臣卒(そち)」あるいは「柿本朝臣卒(そち)」にあたる百済の官位であると考えることができる。 日本書紀のなかの朝鮮の地名や人名は、日本風に読
んでいる。しかし、現地での発音を考慮する必要がある。たとえば、『日本書紀』のつぎのような記述はどうだろうか。
秋7月に、百済、安羅(あら)の日本府と新羅
と計(はかりごと)を通(かよは)す
これらの記録は百済本記をもとにして書いている
ものだが、日本書紀の一般的な読み方としては「率」と書いてあれば率(そち)、「佐魯」と書いてあれば佐魯(さる)と読む。「率」の朝鮮漢字は率(さ
る)、日本漢字音は率(そち)だから、「率」が「佐魯」と同一の官位を指していることがわからなくなってしまう。「佐魯麻都」を「さる・まつ」と読むとす
れば、「紀臣奈率弥麻沙」も「きのおみ・なさる・みまさ」と呼ぶべきであろう。
甲の古代中国語音は甲[keap] で甲(かひ)に近い。しかし、韻尾の[-p] の音は音便化して甲(かひ)とは読めなくなってし
まったので、末音の[-p]
を
「背」と添記したものである。日本でも地名の甲斐の「斐」は甲[keap] の末音[-p] が音便化して甲(コウ)となり甲(かひ)とは読め
なくなってしまったために添加したものである。 揖保の糸の保も揖[iəp] の[-p] が音便化して揖だけでは揖(いぼ)と読めなくなっ
てしまったために「保」を補ったものである。また鹿児島県の指宿(いぶすき)は揖宿という地名であったが、揖が音便化して揖(いぶ)とは読めなくなってし
まったので指宿と漢字の方を変えてしまった。 「莫古」も莫古(まくこ)ではなく莫古(まこ)
であろう。「古」は莫[mak]
の
韻尾[-k] を添記したものである。 日本書紀の記述によれば、紀臣奈率は紀臣が韓
(から)の婦人と結婚して生まれ、百済に留まって奈率になった人だという。この後には、つぎのような記述もある。「佐魯・麻都は韓国の生まれである。的
臣、吉備臣、河内臣などはみんな佐魯・麻都の指揮に従って日本府の政務をほしいままにしている」。日本の高位高官が百済に赴き、国際結婚をして現地に留ま
り、高い官位をえて朝廷のなかで発言権をもっていたことが、この記述からわかる。逆に百済の高官が日本に来て朝廷のなかで高い地位についたり、官位を与え
られていたとしてもおかしくはない。この時代には国境を越えた貴族社会が形成されていたのである。 柿本一族は百済の官位、率「さる」に匹敵するほ
ど官位を与えられる家柄だったことになる。仮に柿本猨が柿本人麻呂本人でなかったにしても、柿本一族は百済の朝廷に近い、国際貴族社会の一員であったとみ
て間違いないであろう。『日本書紀』には、つぎのような記述もある。
百済滅亡後、多数の百済人が渡来した。百済で官
位が与えられていた人には、それに相応する日本の官位を与え、農民には土地を与えた。
鬼室集斯の百済での位は達率であるというから、百済では二番目に高い位である。日本人が百済の官位を授けられただけでなく、百済人もまた大和朝廷から官位
を授けられているのである。百済で官位が達率だった者には、大和朝廷では小錦下が授けられている。 柿本猨は猨(さる)つまり百済では「率」である
から日本で小錦下の位を授けられたとしても至当な扱いである。猨は率「そち」であり、決して動物の猿に通ずる蔑称などではありえない。
古
(いにしへの)人(ひと)に和礼(われ・吾)有(あれ)や樂浪(ささなみ)の故(ふるき)京(みやこ)を見(みれ)ば悲(かなし)き(万32) 楽
浪(ささなみ)の國(くに)つ美神(みかみ)の浦(うら)さびて荒有(あれたる)京(みやこ)見(みれ)ば悲(かなし)も(万33) |
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