第253話  柿 本人麻呂とは誰か

 
 柿本人麻呂は山上憶良とちがって漢詩を残しては いない。人麻呂は唐の文化にあこがれ、宮廷で漢詩を作るグループに属していなかったことだけは確かである。

 万葉集を代表する歌人柿本人麻呂の生涯は、正史 に記録がないことから、謎につつまれている。近江朝をしのぶ歌を残していることから天武天皇、持統天皇、文武天皇の時代にかけての人と考えて間違いないで あろう。

 柿本朝臣を名のる人物で正史に登場するのは、天 武10年(681年)に小錦下(しょうきんげ)を授けられ和銅元年(708年)に従四位下で亡くなった、柿本猨(さる)という人物だけである。 

 『日本書紀』には「柿本臣猨など、あわせて十一 人に小錦下の位を授けたまふ」(681年)とあり、『続日本紀』には「従四位下柿本朝臣佐留卒す」(708年)とある。この柿本猨と柿本人麻呂とは、どの ような関係があるのだろうか。柿本人麻呂と柿本猨とは別人物だと考える人も多い。申年に生まれたから猨と呼ばれたという説もある。猨は柿本人麻呂と同一人 物だと考える人も、万葉集を代表する歌人に猨という名前はふさわしくないと感じている。

 柿本人麻呂が歌を詠んだのは680年から709 年ころの間である。柿本猨は和銅元年(708年)に亡くなったとされているから、人麻呂が創作活動をした時代とほぼ重なっている。『日本書紀』や『続日本 紀』に登場する柿本猨は、柿本人麻呂と同一人物である可能性がある。

 柿本「猨」あるいは柿本朝臣「佐留」は、「猿」 ではなくて、百済などの官位「率」である。「率」の古代中国語音は率[shiuət] である。中国語韻尾の[-t] は朝鮮漢字音では規則的に[-l] になるから、百済の官位「率」は百済語では率(sol) になる。そして、日本語では卒「そち」と呼ばれ た。百済の官位十六品は上から順に、つぎのようになっている。

 
1.左平、2.達率、3.恩率、4.徳率、5.扞 率、6.奈率、7.将徳、8.施徳、
9.固徳、
10.季徳、11.対徳、12.文督、13.武督、14.佐軍、15.振武、16.克虞、

 
 「率」は百済ではかなり高い官位である。『日本 書紀』には「左魯」あるいは「佐魯」という名前の人物が、ほかにも二人登場する。一人は 任那の人で「左魯那奇」という。もう一人は、百済の人で「佐魯麻都」である。左魯あるいは佐魯は名前ではなく百済、任那の官位「率」である可能性が高い。 日本書紀編纂当時、日本漢字音では「率」は率「そち」と読んでいた。「率」では日本語として「さる」と読めないから、音仮名で「左魯」あるいは「佐魯」と 表記したもので、「任那の率・那奇」、「百済の率・麻都」である。

 『日本書紀』の「柿本臣猨」、『続日本紀』の 「柿本朝臣佐留」は「柿本臣卒(そち)」あるいは「柿本朝臣卒(そち)」にあたる百済の官位であると考えることができる。

日本書紀のなかの朝鮮の地名や人名は、日本風に読 んでいる。しかし、現地での発音を考慮する必要がある。たとえば、『日本書紀』のつぎのような記述はどうだろうか。

 
  任那の左魯(さる)・那奇他甲背(なかたかふ はい)等が計を用ゐて、百済(くだら)
  の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を爾林(にり む)に殺す。爾林は高麗(こま)の地な
  り。帯山城(しとろもろのさし)を築きて、東 道を距ぎ守る。粮運ぶ津を断へて、軍
  をして飢え困びしむ。百濟の王(こきし)、大 いに怒りて、領軍古爾解(こにげ)・内
  頭莫古解(まくごげ)等を遣して、衆を率て帯 山(しともろ)に趣きて攻む。
  (顕宗3年、478年)

 

  秋7月に、百済、安羅(あら)の日本府と新羅 と計(はかりごと)を通(かよは)す
  を聞きて、前部(ぜんほう)奈率(なそち)鼻 利莫古(びりまくこ)・奈率宣文(せん
  もん)・中部(ちゅうほう)奈率木刕眯淳(も くらまいじゅん)・紀臣奈率弥麻沙(み
  まさ)等を遣して、(紀臣奈率は、蓋し是紀臣 の、韓の婦を娶りて生める所、因て百済
  に留りて奈率(なそち)と為れる者なり。未だ その父を詳にせず。他も皆此にならえ。
  安羅(あら)に使して、新羅に到れる任那の執 事を召して、任那を建てむことを謨(は
  か)らしむ。別に安羅の日本府の河内直(かふ ちのあたひ)の、計を新羅に通すを以
  て、深く責め罵る。(百済本記に云はく、加不 至費直(かふちのあたひ)・阿賢移那斯
  (あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)等とい う。(欽明2年、541年)

 
 まず、「任那の左魯・那奇他甲背」は「任那の 率」である。「率」と書いたのでは率「そち」と日本風に読まれてしまうので、音で「左魯」と表記したものである。「前部奈率鼻利莫古」、「奈率宣文」、 「中部奈率木刕眯淳」、「紀臣奈率弥麻沙」は、百済の官位で第六位の奈率「なさる」である。「奈」は百済語で「国」を意味するから、「国の率」ということ になる。「佐魯麻都」は音で書かれているが「率・麻都」である。

 これらの記録は百済本記をもとにして書いている ものだが、日本書紀の一般的な読み方としては「率」と書いてあれば率(そち)、「佐魯」と書いてあれば佐魯(さる)と読む。「率」の朝鮮漢字は率(さ る)、日本漢字音は率(そち)だから、「率」が「佐魯」と同一の官位を指していることがわからなくなってしまう。「佐魯麻都」を「さる・まつ」と読むとす れば、「紀臣奈率弥麻沙」も「きのおみ・なさる・みまさ」と呼ぶべきであろう。

 
 日本書紀の朝鮮の地名や人名は、朝鮮の表記法を そのまま継承しているため、日本語で読むと理解しにくい場合がある。例えば、「那奇他甲背」の甲背は甲背(かふはい)と詠んでいるが甲背(かひ)であろ う。朝鮮語には末音添記という表記法があって郷歌(ひやんが)などでよく用いられている。

 甲の古代中国語音は甲[keap] で甲(かひ)に近い。しかし、韻尾の[-p] の音は音便化して甲(かひ)とは読めなくなってし まったので、末音の[-p] を 「背」と添記したものである。日本でも地名の甲斐の「斐」は甲[keap] の末音[-p] が音便化して甲(コウ)となり甲(かひ)とは読め なくなってしまったために添加したものである。

 揖保の糸の保も揖[iəp] [-p] が音便化して揖だけでは揖(いぼ)と読めなくなっ てしまったために「保」を補ったものである。また鹿児島県の指宿(いぶすき)は揖宿という地名であったが、揖が音便化して揖(いぶ)とは読めなくなってし まったので指宿と漢字の方を変えてしまった。

 「莫古」も莫古(まくこ)ではなく莫古(まこ) であろう。「古」は莫[mak] の 韻尾[-k] を添記したものである。

 日本書紀の記述によれば、紀臣奈率は紀臣が韓 (から)の婦人と結婚して生まれ、百済に留まって奈率になった人だという。この後には、つぎのような記述もある。「佐魯・麻都は韓国の生まれである。的 臣、吉備臣、河内臣などはみんな佐魯・麻都の指揮に従って日本府の政務をほしいままにしている」。日本の高位高官が百済に赴き、国際結婚をして現地に留ま り、高い官位をえて朝廷のなかで発言権をもっていたことが、この記述からわかる。逆に百済の高官が日本に来て朝廷のなかで高い地位についたり、官位を与え られていたとしてもおかしくはない。この時代には国境を越えた貴族社会が形成されていたのである。

 柿本一族は百済の官位、率「さる」に匹敵するほ ど官位を与えられる家柄だったことになる。仮に柿本猨が柿本人麻呂本人でなかったにしても、柿本一族は百済の朝廷に近い、国際貴族社会の一員であったとみ て間違いないであろう。『日本書紀』には、つぎのような記述もある。

 
  天智天皇4年の春2月、百済国の官位の階級を 勘校した。なお、佐平福信の功績によ
  って鬼室集斯(くるしつしふし)に小錦下の位 を授けた。その本の位は達率(だちそ
  ち)である。また、百済の民、男女四百人あま りを近江の国の神崎郡(かむさきのこ
  ほり)に移住させた。(天智4年、665年)

 

 百済滅亡後、多数の百済人が渡来した。百済で官 位が与えられていた人には、それに相応する日本の官位を与え、農民には土地を与えた。 鬼室集斯の百済での位は達率であるというから、百済では二番目に高い位である。日本人が百済の官位を授けられただけでなく、百済人もまた大和朝廷から官位 を授けられているのである。百済で官位が達率だった者には、大和朝廷では小錦下が授けられている。

 柿本猨は猨(さる)つまり百済では「率」である から日本で小錦下の位を授けられたとしても至当な扱いである。猨は率「そち」であり、決して動物の猿に通ずる蔑称などではありえない。

 
 人麻呂は近江の都を偲ぶ歌をいくつか作ってい る。近江朝は666年から壬申の乱で廃都になる672まで、わずか5年あまりの首都であり、そこに人麻呂の心のふるさとがあったと考えられる。


古 (いにしへの)人(ひと)に和礼(われ・吾)有(あれ)や樂浪(ささなみ)の故(ふるき)京(みやこ)を見(みれ)ば悲(かなし)き(万32)

楽 浪(ささなみ)の國(くに)つ美神(みかみ)の浦(うら)さびて荒有(あれたる)京(みやこ)見(みれ)ば悲(かなし)も(万33)







もくじ

第252話 万葉人の言語生活

第254話 文字文化の担い手・史(ふひと)

第255話 柿本人麻呂の「ことば」世界