第252話  万葉人の言語生活     

 日本が本格的な文字時代になったのは8世紀のこ とである。古事記が成立したのは712年であり、日本書紀は720年に成立した。万葉集は759年ころ成立したと考えられている。

 万葉集は「やまとことば」の歌を漢字の音や訓を 駆使して記録したものである。万葉集成立以前にすでに「人麻呂歌集」などの古歌集があり、万葉集はそれをもとにして成立したと考えられている。

 しかし、注目すべきは、万葉集の成立より早い 751年には、日本最初の漢詩集である『懐風藻』ができていることである。「やまとごころ」を詠った万葉集よりも、中国語の詩集である『懐風藻』のほうが 先にできたのである。

 万葉集の歌人 のなかには『懐風藻』に漢詩を残している人が何人もいる。大津皇子、文武天皇、大神高市麻呂、大伴旅人、境部王、背奈王行文、刀利宣令、長屋王、安倍広 庭、吉田宣、藤原宇合、石上乙麻呂などは、万葉集に歌を残しているばかりでなく、漢詩も残している。万葉集の時代には「やまとことば」で歌を作るばかりで なく、中国語の詩を書ける人が数多くいたのである。そのなかの一人である大津皇子は『万葉集』と『懐風藻』辞世の歌と漢詩を残している。

 

[万 葉集の歌]

 大津皇子、被レ死之時、磐余池陂流レ涕御作歌一 首

 百傳 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟(万 416)

 

[懐 風藻の漢詩]

 五言 臨終 一絶

  金烏臨ニ西舎
  鼓声催ニ短命
  泉路無ニ賓主
  此夕誰家向

 
 これらの歌と詩は次のように読む。

[万 葉集の歌]

大津皇子の被死(みまか)らしめらゆる時、磐余 (いはれ)の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りましし御歌一首

 
百 傳(ももづたふ) 磐余(いはれの)池(いけ)に 鳴(なく)鴨(かも)を 今日(けふ)耳(のみ)見(みて)や 雲(くも)隠去(がくりな)む(万416)

 

[懐 風藻の漢詩]

臨終

金 烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨み
鼓 声(こせい)短命を催(うなが)す
泉 路(せんろ)賓主なし
こ の夕 誰が家にか向ふ

 
 歌も漢詩もい ずれも臨終の作である。万葉集の歌では日本の歌の伝統に従って、季節の微妙な移り変わりに心を動かし、美しい自然を愛惜する心情と、死にたいする自分の思 いを重ね合わせている。これにたいして、漢詩では当時宮廷を中心に広がりつつあった、仏教の思想が色濃く映し出されている。

 言語表現のう えでも、万葉集の歌は「ももづたう」という枕詞にはじまり、「雲隠りなむ」という隠喩で終わっていて、事物を直接的に表現せずに余韻を重んずる「やまとこ とば」の伝統をふまえている。歌は「毎年北方から飛来する無心の鴨が何かを予知したかのごとく鳴いている。鴨は来年もまたやって来るであろう。しかし、私 は今日を限りにこの鴨を見ることがなくなるであろう」という感慨がこめられている。

 漢詩はもっと 観念的で、「西舎」「泉路」など仏教の概念が織り込まれている。「日は西方浄土に傾き、うち鳴らす太鼓の音は、はかない命のリズムを刻む。黄泉の路には賓 (まろうど)も主(あるじ)もない、この夕べどこに宿を求めればよいのやら。ひとりわが家に別れを告げるのみ」と解釈できる。漢詩は歌より観念的で、かつ 明示的である。

 万葉歌は中国 語に翻訳しても漢詩になりえないし、漢詩はそのまま日本語にしても万葉の歌にはなりえない。漢詩は脚韻こそ踏んでいないものの、大津皇子が日本語と中国語 を使いこなす、バイリンガルであったばかりでなく、日本文化の伝統と中国や仏教思想に深いかかわりをもっていたことを、うかがわせるに十分である。

 

 大津皇子は天 武天皇の第3皇子(持統紀)とも長子(『懐風藻』)ともいわている。大津は少年時代に壬申の乱を経験している。天武天皇崩御の後、大津皇子は謀反の企てが あるとの嫌疑によって死を賜った。万葉集の歌も懐風藻の漢詩も、辞世の作とされている。漢詩のほうは中国に類似の詩があることが研究者によって明らかにさ れている。しかし、この詩が大津皇子の作に擬せられているということは、大津皇子が「やまとことば」で歌を詠むばかりでなく、中国語を駆使して漢詩を作る 素養があったことを示唆している。『日本書紀』は大津皇子について、つぎのように伝えている。

 
 朱鳥(あけみとり)2年冬10月2日、皇子大津の謀反が発 覚、皇子大津を逮捕。
 あわせて直広肆八口朝臣音橿(じきこうしやくちのあそみおとか し)等30余人を
 捕えた。3日、皇子大津に訳田(おさだ)の舎(いえ)で死を賜っ た。
 時に年24才であった。妃の山辺皇女は髪を乱してはだしで走って殉死した。
 見る者 皆嘆く。皇子大津は天武天皇の第3子である。目鼻立ちがとおり言語明朗で
 天智天皇に 愛されていた。長ずるに及んで才学に富み、特に文筆を愛された。
 詩賦の興隆は大津に 始まる。
(持統紀)

 
 「詩賦の興隆 は大津に始まる」というのは大変な賛辞である。大津皇子は「やまとことば」で歌を作り、中国語で詩を書いた。漢詩は宮廷の社交場である詩宴で、長屋王を中 心に作られ、披露された。漢詩は限られた支配階級の文化であり、詩宴に招かれたのは当時の知識人の代表である僧侶、貴族のみであった。宮廷では官吏の服装 も唐の装束をそのまま写したものであった。唐の官吏にならって漢詩を作ることが、官吏の重要な仕事のひとつとされていた。

 唐代の中国で は、風格のある詩を作ることが、儒者の仕事のなかで最も重要視されていた。よい詩が作れなければ科挙の試験に通らないばかりでなく、儒者としての資質を疑 われることにもなりかねなかった。万葉人もまた、中国の伝統に則って、詩作にしのぎを削った。この時代の宮廷の風俗は、唐の文化を規範としていた。文字を もった中国文化こそが唯一の文化であった。漢字文化圏である高句麗、百済や新羅の宮廷文化もまた大和朝廷と同じであった。

 

 懐風藻が宮廷 文化を反映しているのに対して、万葉歌は、「やまとことば」しか話さない層も含めた、幅広い層の歌をおさめている。万葉集には、東歌や防人の歌など、漢字 文化と接点のない人々の歌も含まれている。万葉時代の日本人の言語生活は三つの層から成り立っていたと考えることができる。

 
1.漢字文化に造詣が深く『懐風藻』に漢詩を載せ た宮廷人:大友皇子、河島皇子、大伴

  王、葛野王、釈弁正、釈智蔵、釈道慈、藤原 史、百済和麻呂、采女比良夫、など、

2.『懐風藻』には漢詩を載せ、『万葉集』には和 歌も残した人びと:大津皇子、文武天皇、

  大伴旅人、長屋王、境部王、藤原宇合、安部広 庭、葛井広成、吉田宜、など、

3.『万葉集』にのみ和歌を残した人びと:柿本人 麻呂、額田王、山部赤人、高橋虫麻呂、

  藤原鎌足、坂上郎女、大伴家持、など、

 
 山上憶良は『懐風藻』には漢詩を載せていない が、万葉集のなかに漢詩があるので第二のグループに属するものとみなすことができる。憶良の父憶仁は朝鮮から来た人で天智・天武の朝廷の侍医として仕えた ことが知られている。

 『懐風藻』には僧侶の漢詩がいくつか載せられて いるが、万葉集には僧侶はみられない。この時代、僧侶は最高の知識階級だった。

 大津皇子の万 葉歌と漢詩をみただけでも、万葉集の時代の人びとの多くが、二つの言語世界をもち、「やまとことば」には「やまとことば」でなければ表現しきれない心情世 界があったことがわかる。それだからこそ、漢字をなんとか手なづけて、「やまとごころ」を託すことができる文字を手にいれようとしたのであろう。その悪戦 苦闘の足跡を、万葉集の漢字は伝えている。


もくじ

第253話 柿本人麻呂とは誰か

第254話 文字文化の担い手・史(ふひと)

第255話 柿本人麻呂の「ことば」世界