万葉集の研究が盛んになったのは江戸時代の中期
である。江戸時代は朱子学(儒学)全盛の時代である。それに対抗するかのように国学が起こる。契沖が『万葉代匠記』をあらわし、鴨真淵が『万葉考』をあら
わして、古典にもとづいて古代日本の思想・文化を明らかにしようとした。そのような時代背景のなかで伊勢の医者、本居宣長は『古事記傳』を著して『古事
記』こそはやまと魂の原点であるとした。 1.原初「やまとことば」ありきや 一介の町医者である宣長が『古事記傳』という、 気の遠くなるような注釈を書き始めたのは、賀茂真淵に会ってからである。宝暦13年(1763年)、本居宣長は伊勢松坂の本陣新上屋(しんじょう や)という宿屋で、賀茂真淵に会っている。真淵は67歳、宣長は34歳であった。その時のやりとりが『玉勝間』に載っている。賀茂真淵は本居宣長に、つぎ のように諭したという。 われ(真 淵)も もとより、神の御典(みふみ)をとかむと思ふ心ざしあるを、そはまづからごゝろを清くはなれて、古へのまことの意を、たづねえずばあるべからず。然るにそ のいにしへのこゝろをえむことは、古言を得たるうへならではあたはず、古言をえむことは、萬葉をよく明らむるにこそあれ。さる故に、吾は、まづもはら萬葉 をあきらめんとする程に、すでに年老て、のこりのよはひ、今いくばくもあらざれば、神の御ふみをとくまでにいたることえざるを、いましは年さかりにて、行 さき長ければ、今よりおこたることなく、いそしみ學びなば、其心ざしとぐること有べし。(『玉勝間』二の巻) 宣長は『うひ山ふみ』のなかで次のように書いてい る。
件の書ども(古事記、日本書紀)を早くよまば、やまとたましひよく堅固(かた)まりて、漢意
(からごころ)におちいらぬ衛(まもり)にもよかるべき。道を學ばんと心ざすともがらは、第一
に漢意、儒意を、清く濯ぎ去りてやまと魂(たましひ)をかたくする事を、要すべし、、 日本の歴史は石器時代にはじまり、縄文時代、弥
生時代、古墳時代へと展開していくというのが常識である。弥生時代は稲作の技術や鉄器の文化が大陸から、朝鮮半島を経由して日本にもたらされた国際交流の
時代である。 大和朝廷が成立したのも中国文明が朝鮮半島を経
由して日本列島に波及してきた結果である。大和朝廷の文化は唐の都の文化を規範として成立した。 また、高松塚古墳の壁画などを見れば、朝鮮の風
俗が入ってきていたことがわかる。『萬葉集』が成立した8世紀は、日本が中国大陸や朝鮮半島から孤立して、独自の文化を形成した時代ではなく、日本の歴史
のなかでもまれにみる国際化の時代であった。ことばも、文字時代以前から、弥生時代、古墳時代を通じて中国語の語彙を数多く取り入れていた。、万葉集の歌
のなかにも朝鮮漢字音の影響を受けたと思われるものが数多く含まれている。文字時代をになった史(ふひと)の多くは朝鮮半島の出身であることも衆知の事実
である。 万葉集が8世紀の日本文化の金字塔であることは
間違いない。しかし、漢字で書かれている万葉集のなかから漢意(からごころ)を濯ぎ去ることはできるのだろうか。 中国文明だけが東アジアの唯一の文明であった時 代にあって、本居宣長は日本語を、そして国家としての日本を大宇の中心に据えることによって、辺境の文化と考えられてきた日本を普遍の高みに押し上げよう とした。 中国文明は中華思想を生み、中国語だけが正しい 言語であり、あとは「南蛮鴂舌」(南方の蛮人はもずのさわがしい鳴き声のようにまくしたてる)であるというのが中国人の言語観であった。言語における華夷 思想である。本居宣長はこれに反発して、「此ノ五十ノ外ハ。皆鳥獣萬物ノ聲ニ近キ者ニテ。溷雑不正ノ音也ト知ルベシ」と主張している。本居宣長もまた中国 人の華夷思想を受け継いでいる。 しかし、万葉集の時代は「漢心(からごころ)を 排した純粋なやまとごころ」の時代ではなく、中国の文化や文明が朝鮮半島を経て日本列島にやってきた時代であり、漢字がもたらされ、百済人が、新羅人が、 高麗人が中国語や朝鮮語の語彙を日本語のなかに持ち込んだ時代でだったのではなかろうか。 2.万
葉人の言語生活
日本が本格的な文字時代になったのは8世紀のこと である。古事記が成立したのは712年であり、日本書紀は720年に成立した。万葉集は759年ころ成立したと考えられている。 万葉集は「やまとことば」の歌を漢字の音や訓を駆 使して記録したものである。万葉集成立以前にすでに「人麻呂歌集」などの古歌集があり、万葉集はそれをもとにして成立したと考えられている。 しかし、注目すべきは、万葉集の成立より早い 751年には、日本最初の漢詩集である『懐風藻』ができていることである。「やまとごころ」を詠った万葉集よりも、中国語の詩集である『懐風藻』のほうが 先にできたのである。 万葉集の歌人のなかには『懐風藻』に漢詩を残して いる人が何人もいる。大津皇子、文武天皇、大神高市麻呂、大伴旅人、境部王、背奈王行文、刀利宣令、長屋王、安倍広庭、吉田宣、藤原宇合、石上乙麻呂など は、万葉集に歌を残しているばかりでなく、漢詩も残している。万葉集の時代には「やまとことば」で歌を作るばかりでなく、中国語の詩を書ける人が数多くい たのである。そのなかの一人である大津皇子は『万葉集』と『懐風藻』辞世の歌と漢詩を残している。 [万葉集の歌]
大津皇子、被レ死
之時、磐余池陂流レ涕
御作歌一首 五言 臨終 一絶
金烏臨ニ西
舎一 これらの歌と詩は次のように読む。 大
津皇子の被死(みまか)らしめらゆる時、磐余(いはれ)の池の陂(つつみ)にして涕(なみだ)を流して作りましし御歌一首 百
傳(ももづたふ) 磐余(いはれの)池(いけ)に 鳴(なく)鴨(かも)を 今日(けふ)耳(のみ)見(みて)や 雲(くも)隠去(がくりな)む(万416) [懐風藻の漢詩] 臨
終 金
烏(きんう)西舎(せいしゃ)に臨み 歌も漢詩もいずれも臨終の作である。万葉集の歌 で は日本の歌の伝統に従って、季節の微妙な移り変わりに心を動かし、美しい自然を愛惜する心情と、死にたいする自分の思いを重ね合わせている。これにた いし て、漢詩では当時宮廷を中心に広がりつつあった、仏教の思想が色濃く映し出されている。 言語表現のうえでも、万葉集の歌は「ももづた う」 という枕詞にはじまり、「雲隠りなむ」という隠喩で終わっていて、事物を直接的に表現せずに余韻を重んずる「やまとことば」の伝統をふまえている。歌 は 「毎年北方から飛来する無心の鴨が何かを予知したかのごとく鳴いている。鴨は来年もまたやって来るであろう。しかし、私は今日を限りにこの鴨を見ること が なくなるであろう」という感慨がこめられている。 漢詩はもっと観念的で、「西舎」「泉路」など仏 教 の概念が織り込まれている。「日は西方浄土に傾き、うち鳴らす太鼓の音は、はかない命のリズムを刻む。黄泉の路には賓(まろうど)も主(あるじ)もない、 この夕べどこに宿を求めればよいのやら。ひとりわが家に別れを告げるのみ」と解釈できる。漢詩は歌より観念的で、かつ明示的である。 万葉歌は中国語に翻訳しても漢詩になりえない し、 漢詩はそのまま日本語にしても万葉の歌にはなりえない。漢詩は脚韻こそ踏んでいないものの、大津皇子が日本語と中国語を使いこなす、バイリンガルであった ばかりでなく、日本文化の伝統と中国や仏教思想に深いかかわりをもっていたことを、うかがわせるに十分である。 大津皇子は天武天皇の第3皇子(持統紀)とも長
子
(『懐風藻』)ともいわている。大津は少年時代に壬申の乱を経験している。天武天皇崩御の後、大津皇子は謀反の企てがあるとの嫌疑によって死を賜った。万
葉集の歌も懐風藻の漢詩も、辞世の作とされている。漢詩のほうは中国に類似の詩があることが研究者によって明らかにされている。しかし、この詩が大津皇子
の作に擬せられているということは、大津皇子が「やまとことば」で歌を詠むばかりでなく、中国語を駆使して漢詩を作る素養があったことを示唆している。
『日本書紀』は大津皇子について、つぎのように伝えている。 「詩賦の興隆は大津に始まる」というのは大変な賛 辞である。大津皇子は「やまとことば」で歌を作り、中国語で詩を書いた。漢詩は宮廷の社交場である詩宴で、長屋王を中心に作られ、披露された。漢詩は限ら れた支配階級の文化であり、詩宴に招かれたのは当時の知識人の代表である僧侶、貴族のみであった。宮廷では官吏の服装も唐の装束をそのまま写したもので あった。唐の官吏にならって漢詩を作ることが、官吏の重要な仕事のひとつとされていた。 唐代の中国では、風格のある詩を作ることは、儒者 の仕事のなかで最も重要視されていた。よい詩が作れなければ科挙の試験に通らないばかりでなく、儒者としての資質を疑われることにもなりかねなかった。万 葉人もまた、中国の伝統に則って、詩作にしのぎを削った。この時代の宮廷の風俗は、唐の文化を規範としていた。文字をもった中国文化こそが唯一の文化であ り、漢字文化圏である高句麗、百済や新羅の宮廷文化もまた大和朝廷と同じであった。 懐風藻が宮廷文化を反映しているのに対して、万 葉歌は、「やまとことば」しか話さない層も含めた。幅広い層の歌をおさめている。万葉集には、東歌や防人の歌など、漢字文化と接点のない人々の歌も含まれ ている。万葉時代の日本人の言語生活は三つの層から成り立っていたと考えることができる。 1.漢字文化に造詣が深く『懐風藻』に漢詩を載せた宮 廷人:大友皇子、河島皇子、大伴王、葛野王、釈弁正、釈智蔵、釈道慈、藤原史、百済和麻呂、采女比良夫、など、 2.『懐風藻』には漢詩を載せ、『万葉集』には和歌も 残した人びと:大津皇子、文武天皇、大伴旅人、長屋王、境部王、藤原宇合、安部広庭、葛井広成、吉田宜、など、 3.『万葉集』にのみ和歌を残した人びと:柿本人麻
呂、額田王、山部赤人、高橋虫麻呂、藤原鎌足、坂上郎女、大伴家持、など、 山上憶良は『懐風藻』には漢詩を載せていないが、
万葉集のなかに漢詩があるので第二のグループに属するものとみなすことができる。 大津皇子の万葉歌と漢詩をみただけでも、万葉集の 時代の人びとの多くが、二つの言語世界をもち、「やまとことば」には「やまとことば」でなければ表現しきれない心情世界があったことがわかる。それだから こそ、漢字をなんとか手なづけて、「やまとごころ」を託すことができる文字を手にいれようとしたのであろう。その悪戦苦闘の足跡を、万葉集の漢字は伝えて いる。 3.柿本人麻呂とは誰か 柿本人麻呂は山上憶良とちがって漢詩を残してはい ない。人麻呂は唐の文化にあこがれ、宮廷で漢詩を作るグループに属していなかったことだけは確かである。 万葉集を代表する歌人柿本人麻呂の生涯は、正史に 記録がないことから、謎につつまれている。近江朝をしのぶ歌を残していることから天武天皇、持統天皇、文武天皇の時代にかけての人と考えて間違いないであ ろう。 柿本朝臣を名のる人物で正史に登場するのは、天武 10年(681年)に小錦下(しょうきんげ)を授けられ和銅元年(708年)に従四位下で亡くなった、柿本猨(さる)という人物だけである。 『日本書紀』には「柿本臣猨など、あわせて十一人 に小錦下の位を授けたまふ」(681年)とあり、『続日本紀』には「従四位下柿本朝臣佐留卒す」(708年)とある。この柿本猨と柿本人麻呂とは、どのよ うな関係があるのだろうか。柿本人麻呂と柿本猨とは別人物だと考える人も多い。申年に生まれたから猨と呼ばれたという説もある。猨は柿本人麻呂と同一人物 だと考える人も、万葉集を代表する歌人に猨という名前はふさわしくないと感じている。 柿本人麻呂が歌を詠んだのは680年から709年 ころの間である。柿本猨は和銅元年(708年)に亡くなったとされているから、人麻呂が創作活動をした時代とほぼ重なっている。『日本書紀』や『続日本 紀』に登場する柿本猨は、柿本人麻呂と同一人物である可能性がある。 柿本「猨」あるいは柿本朝臣「佐留」は、「猿」で はなくて、百済などの官位「率」である。「率」の古代中国語音は率[shiuət] である。中国語韻尾の[-t] は朝鮮漢字音では規則的に[-l] になるから、百済の官位「率」は百済語では率(sol/jol) になる。そして、日本語では卒「そち」と呼ばれ た。百済の官位十六品は上から順に、つぎのようになっている。 1.左
平、2.達率、3.恩率、4.徳率、5.扞率、6.奈率、7.将徳、8.施徳、 「率」は百済ではかなり高い官位である。『日本 書 紀』には「左魯」あるいは「佐魯」という名前の人物が、ほかにも二人登場する。一人は 任那の人で「左魯那奇」という。もう一人は、百済の人で「佐魯麻都」である。左魯あるいは佐魯は名前ではなく百済、任那の官位「率」である可能性が高い。 日本書紀編纂当時、日本漢字音では「率」は率「そち」と読んでいた。「率」では日本語として「さる」と読めないから、音仮名で「左魯」あるいは「佐魯」と 表記したもので、「任那の率・那奇」、「百済の率・麻都」である。 『日本書紀』の「柿本臣猨」、『続日本紀』の 「柿本朝臣佐留」は「柿本臣卒(そち)」あるいは「柿本朝臣卒(そち)」にあたる百済の官位であると考えることができる。 日本書紀のなかの朝鮮の地名や人名は日本風に読ん でいる。しかし、現地での発音を考慮する必要がある。たとえば、『日本書紀』のつぎのような記述はどうだろうか。 任 那の左魯(さる)・那奇他甲背(なかたかふはい)等が計を用ゐて、百済(くだら)の適莫爾解(ちゃくまくにげ)を爾林(にりむ)に殺す。爾林は高麗(こ ま)の地なり。帯山城(しとろもろのさし)を築きて、東道を距ぎ守る。粮運ぶ津を断へて、軍をして飢え困びしむ。百濟の王(こきし)、大いに怒りて、領軍 古爾解(こにげ)・内頭莫古解(まくごげ)等を遣して、衆を率て帯山(しともろ)に趣きて攻む。(顕宗三年、478年) 秋 七月に、百済、安羅(あら)の日本府と新羅と計を通すを聞きて、前部(ぜんほう)奈率(なそち)鼻利莫古(びりまくこ)・奈率宣文(せんもん)・中部 (ちゅうほう)奈率木刕眯淳(もくらまいじゅん)・紀臣奈率弥麻沙(みまさ)等を遣して、(紀臣奈率は、蓋し是紀臣の、韓の婦を娶りて生める所、因て百済 に留りて奈率(なそち)と為れる者なり。未だその父を詳にせず。他も皆此にならえ。)安羅(あら)に使して、新羅に到れる任那の執事を召して、任那を建て むことを謨らしむ。別に安羅の日本府の河内直(かふちのあたひ)の、計を新羅に通すを以て、深く責め罵る。(百済本記に云はく、加不至費直(かふちのあた ひ)・阿賢移那斯(あけえなし)・佐魯麻都(さろまつ)等という。(欽明二年、541年) まず、「任那の左魯・那奇他甲背」は「任那の率」 である。「率」と書いたのでは率「そち」と日本風に読まれてしまうので、音で「左魯」と表記したものである。「前部奈 率鼻利莫古」、「奈率宣文」、「中部奈率木刕眯淳」、「紀臣奈 率弥麻沙」は、百済の官位で第六位の奈率「なさる」である。「奈」は百済語で「国」を意味するから、「国の率」ということにな る。「佐魯麻都」は音で書かれているが「率・麻都」である。 これらの記録は百済本記をもとにして書いているも のだが、日本書紀の一般的な読み方としては「率」と書いてあれば率(そち)、「佐魯」と書いてあれば佐魯(さる)と読む。「率」の朝鮮漢字は率(さる)、 日本漢字音は率(そち)だから、「率」が「佐魯」と同一の官位を指していることがわからなくなってしまう。「佐魯麻都」を「さる・まつ」と読むとすれば、 「紀臣奈率弥麻沙」も「きのおみ・なさる・みまさ」と呼ぶべきであろう。 日本書紀の朝鮮の地名や人名は、朝鮮の表記法をそ のまま継承しているため、日本語で読むと理解しにくい場合がある。例えば、「那奇他甲背」の甲背は甲背(かふはい)と詠んでいるが甲背(かひ)であろう。 朝鮮語には末音添記という表記法があって郷歌(ひやんが)などでよく用いられている。 甲の古代中国語音は甲[keap]で甲(かひ)に近い。しかし、韻尾の[-p]の音は音便化して甲(かひ)とは読めなくなってし まったので、末音の[-p]を「背」と添記したものである。日本でも地名の甲 斐の「斐」は甲[keap]の末音[-p]が音便化して甲(コウ)となり甲(かひ)とは読め なくなってしまったために添加したものである。 揖保の糸の保も揖[iəp]の[-p]が音便化して揖だけでは揖(いぼ)と読めなくなっ てしまったために「保」を補ったものである。また鹿児島県の指宿(いぶすき)は揖宿という地名であったが、揖が音便化して揖(いぶ)とは読めなくなってし まったので指宿と漢字の方を変えてしまった。 「莫古」も莫古(まくこ)ではなく莫古(まこ)で あろう。「古」は莫[mak] の韻尾[-k] を添記したものである。 日本書紀の記述によれば、紀臣奈率は紀臣が韓(か
ら)の婦人と結婚して生まれ、百済に留まって奈率になった人だという。この後には、つぎのような記述もある。「佐魯・麻都は韓国の生まれである。的臣、吉
備臣、河内臣などはみんな佐魯・麻都の指揮に従って日本府の政務をほしいままにしている」。日本の高位高官が百済に赴き、国際結婚をして現地に留まり、高
い官位をえて朝廷のなかで発言権をもっていたことが、この記述からわかる。逆に百済の高官が日本に来て朝廷のなかで高い地位についたり、官位を与えられて
いたとしてもおかしくはない。この時代には国境を越えた貴族社会が形成されていたのである。 柿本一族は百済の官位、率「さる」に匹敵するほど 官位を与えられる家柄だったことになる。仮に柿本猨が柿本人麻呂本人でなかったにしても、柿本一族は百済の朝廷に近い、国際貴族社会の一員であったとみて 間違いないであろう。『日本書紀』には、つぎのような記述もある。 天
智天皇四年の春二月、百済国の官位の階級を勘校した。なお、佐平福信の功績によって鬼室集斯(くるしつしふし)に小錦下の位を授けた。その本の位は達率
(だちそち)である。また、百済の民、男女四百人あまりを近江の国の神崎郡(かむさきのこほり)に移住させた。 百済滅亡後、多数の百済人が渡来した。百済で官位 が与えられていた人には、それに相応する日本の官位を与え、農民には土地を与えた。 鬼室集斯の百済での位は達率であるというから、百済では二番目に高い位である。日本人が百済の官位を授けられただけでなく、百済人もまた大和朝廷から官位 を授けられているのである。百済で官位が達率だった者には、大和朝廷では小錦下が授けられている。 柿本猨は猨(さる)つまり百済では「率」である
から日本で小錦下の位を授けられたとしても至当な扱いである。猨は率「そち」であり、決して動物の猿に通ずる蔑称などではありえない。 人麻呂は近江の都を偲ぶ歌をいくつか作ってい
る。近江朝は666年から壬申の乱で廃都になる672年まで、わずか5年あまりの首都であり、そこに人麻呂の心のふるさとがあったと考えられる。 楽 浪(ささなみ)の國(くに)つ美神(みかみ)の浦(うら)さびて荒有(あれたる)京(みやこ)見(みれ)ば悲(かなし)も(万33) 4.文字文化の担い手・史(ふひと) 柿本人麻呂の歌も漢字の訓だけを使って助詞な
どは記されていないもの、吏読のように日本語の助詞や活用語尾を書きくわえてあるものなど、さまざまな書記法が使われているので、万葉集の編者はさまざま
な史の手を経て伝えられた歌を万葉集に載せたのであろう。 雄略天皇の歌な古事記や日本書紀の歌謡にいくつか 載録されているが、使われている漢字の音価を詳細に調べてみると、万葉集の歌の史と記紀歌謡の史の漢字の使い方は違う。三百年もの間には同じ漢字でも読み 方が変わってしまう。 記紀万葉の時代の日本語を漢字で表記したのは、朝 鮮半島から渡来した史(ふひと)たちであった。彼らの多くは中国人の末裔であると主張していた。漢字こそが中国文明の真髄であり、史は文字によって中国文 化をになうことを誇りとしていた。史は世襲性であった。史はアジアで唯一の文字文化を構築した中国人の末裔でなければならなかった。 いずれにしても、雄略天皇が上表文に正式な漢文 も書き、万葉集の音訓を交えた日本語文を書き、古事記、日本書紀という違った音韻体系をもった文書に自分の歌を自分の手で書いたものとは考えられない。史 (ふひと)には百済系、高麗系などさまざまな背景をもった人たちがいた。日本書紀には阿直岐史をはじめ船史(ふねのふびと)、白猪史(しらゐのふびと)、 津史(つのふびと)などが登場して、徴税や外国からの賓客の接待にあたっている。 『日本書紀』に史のことがしばしば書かれている。
史のことがはじめて登場するのは応神天皇の時代のことである。 文字は馬とともにもたらされた。『魏志倭人伝』に
は邪馬台国には馬はいないと書いてあるから、馬も文明とともに大陸からもたらされたの
であろう。6世紀になると史の記録がしばしば登場する。
欽明30年夏4月、胆津の白猪田部の丁者(よほろ)を調べて、詔に従い戸籍を定めた。これにより田戸(たへ)の正確な戸籍ができた。天皇は胆津が戸籍を定
めた功をほめて、姓を賜い白猪史(しらいのふびと)とされた。田令(たつかい)に任ぜられて、葛城山田の直(あたい)瑞子(みつこ)の副官とされた。 高句麗では国の初め(紀元前37年)から漢字を使用していて、『留記』という国史百巻 を編集している。朝鮮半島では漢字で朝鮮語を表記する方法も早くから試みられていた。助辞を音訓の漢字で書き加える吏読体、朝鮮語の語順によって漢字を書 き連ねる誓記体、音と訓を併用し多くの添読字を加える郷札体などの表記法があった。『日本書紀』の逸話は、烏の羽に書いてあったというのはフィクションだ としても、高麗からの国書が、正規の漢文でなく、朝鮮半島で工夫された表記法で書かれていた可能性を示唆している。日本に渡来した史は、出身地や渡来した 時期によって、違った表記法を身につけていたものと考えられる。 応神期に、西史(かふちのふひと)の王仁が、はじ めて文字を日本に伝えたといわれている。西暦でいうと四世紀の終りか5世紀の初頭にあたる。後に東漢(やまとのあや)の阿知使主(あちのおみ)などが渡来 してこれに加わる。5世紀後半には百済・任那の人びとが日本列島に渡来し、6世紀中葉には高句麗からの渡来者がきた。船史(ふなのふひと)は船の賦を掌 り、白猪史(しらゐのふひと)は屯倉、津史(つのふひと)は難波津の賦を掌った。 7世紀中ごろには百済が滅亡して数千人の亡命者が あった。これらの人びとは正規の漢文を書くだけでなく、漢字によって日本語を記録する必要にせまられていたに違いない。漢字で日本語を表記する方法は、万 葉集が成立する何世紀も前から準備されていたのである。 やがて8世紀になると、『古事記』、『日本書
紀』、『万葉集』が相次いで成立する。『日本書紀』は正式の漢文で書かれている。『古事記』は、太安万侶の序文は漢文で書かれているが、本文はいわゆる変
体漢文で書かれている。『万葉集』は題詞は漢文で書かれているが、歌は音を主体に書かれているもの、訓を主体に書かれているもの、助辞が省略された表記、
助辞を添記した表記など、朝鮮半島で発達したさまざまな表記法が混用されている。それは、史の家系によって、漢字による日本語の表記法が一様でなかったこ
とを示唆している。万葉集についてみると、同じ柿本人麻呂の歌でも、表記法はさまざまである。 現代の文学者は文体を重んじ、字くばりも文体と
考えて文字を選ぶ。しかし、柿本人麻呂が歌の内容にあわせて表記法を変えたとは考えにくい。また、人麻呂が何種類もの表記法に通じていて、ときと場合に
よってそれらを使い分けたというのも説得力に欠ける。 人麻呂の活躍した時代は680年から709年の間
であり、万葉集が成立したとされる天平宝字三年(759年)からみると半世紀以上前のことになる。人麻呂の筆跡がそのまま残っていて万葉集に載録されたと
は考えにくい。『人麻呂歌集』の歌は『人麻呂歌集』の編纂に携わった史(ふひと)の手で文字化されたと考えられる。万葉集巻1から巻3までを担当した史がいて、その他の
巻についてもそれぞれ編纂に携わった史がいて、それぞれの史の家に伝えられた表記法を選んだと考えるのが穏当ではなかろうか。 1.助詞や活用語尾が表記されていないもの。『人
麻呂歌集』などに多い。 春
楊 葛山 発雲 立座 妹念(万
2453) 戀
死 戀死哉 我妹 吾家門 過行(万
2401) 2.助詞や活用語尾を添記したもの。万葉集でもっ とも多く用いられている表記法である。 楽
浪之 思賀乃辛崎 雖ニ幸有一 大宮人之 船麻知兼津(万
30) 左
散難弥乃 志我能 大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛(万31) 3.漢字の音だけを使って表記したもの。大伴家持
や後期万葉集の歌、東歌、防人の歌などに多い。
現代の人類学者や言語学者が文字をもたない未開民
族の言語を研究する場合、辞書もなく文法書もないので現地のインフォーマント(話者)から聞き取りをして、それを文字化することになるが、人によって発音
の仕方が違い、それぞれ自分が正しいと主張するので収拾が付かず、どれが標準的な発音なのか、音韻構造を把握するだけでも大変だという。 万葉集の時代には、懐風藻に詩を残した宮廷の人び とや僧侶、山上憶良などは不自由なく漢字をあやつることができたに違いないが、日本語の書記法が確立していたわけでもなく、文字をあつかうのは史(ふひ と)という専門職の専有物であった。 朝鮮半島は紀元前108年に楽浪郡などがおかれて 以来中国文明の影響を受けてきた。ことばも中国語の影響を受けた。日本でも大和朝廷が成立して国家としての体裁をととのえることができたのは、早い時期か ら中国と間接、直接に接触して、中国文化を取り入れてきた結果である。 朝鮮半島には吏読、誓記体、郷歌など漢字で朝鮮語 を記録する方法が古くから試みられており、万葉集の書記法も朝鮮半島における書記法を援用したものと思われ る。李基文の『韓国語の歴史』によって、朝鮮半島における書記法を概観してみると次のようになる。 辛
亥年二月廿六日 南山新城作節 如法以作 後三年崩破者
罪教事為聞教令誓事之、、 万葉集でも「者」は日本語の助辞の表記に使われ
ている。 熟
田津爾 船乗世武登 月待者 潮毛可奈
比沼 今者許藝乞菜(万
8)額田王 淡
海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思努尒 古所レ念(万266)柿本人麻呂 万葉集 では「月待てば」を「月待者」とし、「汝が鳴けば」を「汝鳴者」のように使われている。日本語や朝鮮語は膠着語であり、「てにをは」にあたる助 詞や活用語尾が、ことばとことばを糊しろのように貼り付けしていく。これにたいして、孤立語である中国語には助詞や活用語尾がほとんどない。そこで初期の 日本語を表記した史たちは、朝鮮語を漢字で表記した経験をもとにして、日本語の助辞や活用語尾を表記した。 〇誓記体 壬申年六月十六日 二人幷誓記 天前誓 今自三年後 忠道執持 過失无誓 若此事失 天大罪得誓 若國不安大乱世 可容行誓之、、 この文
章は漢文の語順ではなく、新羅語の語順で書かれている。新羅語(朝鮮語)の語順は日本語の語順と同じだから、そのまま訳してみると次のようになる。 <壬 申年六月十六日に、二人がともに誓って記す。天の前に誓う。今より三年後に、忠道を執持し、過失のないことを誓う。もしこのことを失えば、天に大罪を得ん ことを誓う。もし国が安からず大いに世が乱れるならば、よろしくすべからく(忠道を)行わんことを誓う、、> ○郷歌 郷歌は
新羅の萬葉集にあたるものだが『三国遺事』にのせられている十四首と、『均如伝』にのせられている十一首だけが伝わっている。日本の植民地時代に小倉進平
が解読につとめ、独立後は梁柱東が『古歌研究』として集大成している。そのうちの一首「月明師為亡妹榮斎歌」
の一部は次のよう記されている。
5.柿
本人麻呂の「ことば」世界 [原文] [日本語読み下し文] 「古(いにしへ)思ほゆ」の部分は漢文と語順が 同じで「古所レ念」レ点(返り点)が施されている。この歌は「や まとことば」を漢字で表記したものだと考えられている。しかし、柿本人麻呂の歌は純粋な「やまとことば」だけで書かれているのだろうか。 [中国語訳] [朝鮮語訳](原文はハングル表記) 日本語の語順は朝鮮語とまったく同じである。日 本語の助詞と現代朝鮮語の助詞は形はあまり似ていないが、使われ方は全く同じである。 また、使われている場所も同じである。
[日本語] 情(こころ)もしぬに [日本語]
古(いにしへ)所レ念
(おもほゆ) 日本語の語彙のなかにも、中国語と同源とみられ るものがある。(○印は中国語との同源語、●印は朝鮮語との同源語) ○ 海(うみ) 古代中国語の「海」は海[xuə] である。現代中国語音は海(hai) であり、日本漢字音は海(カイ)である。「海」の
声符は毎[muə]であり、日本語の「うみ」は「海」の声符毎[muə]を継承したものことばである。 ● 海(うみ) 「淡海の海」はho su<湖 水>と漢語に訳されているが、朝鮮語の「うみ(海)」はpa daで ある。万葉集の枕詞などにみられる「わたつみの」は「わた」(朝鮮語の海pada)に「み」(日本語の海(うみ))を重ねたもの で、新羅の郷歌(ヒヤンガ)などでしばしば用いられる両点といわれるものである。「つ」は「沖つ波」「庭つ鳥」の「つ」であり「の」の意味である。「わた (朝鮮語の海)のうみ(日本語の海)の」という修辞的な表現である。朝鮮語のあとに日本語を併記したバイリンガル表記ともいえる。 ○ 浪(なみ) 「浪」の古代中国語音は浪[lang]である。日本語や朝鮮語などアルタイ系言語では語
頭に[l-] がくることはないという原則があるから、語頭の[l-] は[n-] に転移する。朝鮮語では今でも盧泰愚(ノ・テ
ウ)、盧武鉉(ノ・ムヒョン)のように中国語のlはnに転移する。現代朝鮮語では「浪」は浪(nang) である。日本語の「なみ」の語源は中国語の「浪」
と同源でである。浪(なみ)と発音するのは、朝鮮語読みの影響があるものと思われる。 ● 浪(なみ) 「なみ(波)」の朝鮮語はmul gyeolで ある。mulは「みず(水)」は日本語の「水(みず)」と同源 である。 ○ 鳥(とり) 「鳥」の古代中国語音は鳥[tyô] である。日本語の鳥(とり)は古代中国語の鳥[tyô]と関係があることばであろう。 ● 千鳥(ちどり) 「ちどり(千鳥)」は朝鮮語で
はmul
the saeと
訳されている。mul
the saeはmul
<水>the<群れ> sae<鳥>である。朝鮮語の「鳥(とり)」はsaeである。saeは中国語の隹[tjuəi]と同源であり、意味は「鳥」の別名である。日本語
のカラス、ウグイス、ホトトギスなどのスは朝鮮語のsaeと同源である。 ○ 汝(な) 日本語の古語にある汝「な」の語源は古 代中国語の汝[njia] である。中国語の「汝」は日本語では汝(な)にな り、朝鮮語では汝(ne) になった。日本語の「われ」、「あ」の語源は古代 中国語の我[ngai] あるいは吾[nga] の語頭音[ng-] が脱落したものである。 ● 汝(な) 朝鮮語の「な(汝)」はneであり、日本語の「汝(な)」と同源である。朝鮮
語のneは中国語の汝[njia]と同源である。 ○ 鳴(なく) 日本漢字音の鳴(メイ)であり、古代 中国語音は鳴[mieng]である。日本語の「なく」は、中国語の「鳴」と同 系のことばであろう。 日本語では中国語の[m-] が[n-] であらわれる場合がしばしばある。中国語の苗[miô]は日本語では苗「なへ」、名[mieng]は名(な)であり、無[miua]は無(ない)となる。[m-] と[n-] はいずれも鼻音であり転移しやすい。鳴[mieng]の韻尾[-ng]は[-k]と調音の位置が同じであり、唐代の中国語音は鳴[mieng]だが、上古音は鳴[mieg*]に近い入声音であったと中国語音韻史では考えられ ている。 ● 古(いにしへ) 朝鮮語訳はyeot il<昔日>である。朝鮮語のilは「日」の朝鮮漢字音であり、「日本」はil bonである。ilは中国語の日[njiet]の頭音[nj-]が脱落し、韻尾の[-t]が(-l)に転移したものである。朝鮮漢字音では中国語の日 母[nj-]は規則的に脱落し、韻尾の[-t]は規則的に(-l)に転移する。 ○ 念(おもふ) 万葉集では「おもふ」に念[niəm]、思[siə](万1434)、憶[iək](万196)などが使われている。日本語の「おも ふ」は中国語の念[niəm]の頭音が脱落したものである可能性がある。 日本が中国文明を受け入れるようになったのは8 世紀にはじまったことではなく、万葉集が成立する千年も前から鉄や稲作を通じて中国文明と接触し、漢字はともかくも、中国文化を受け入れてきた。弥生時代 は中国文化の影響なしには成り立たなかったであろう。ことばも朝鮮半島などを通じて入ってきていた。 柿本人麻呂の歌(万266)の歌に使われている ことばも中国語や朝鮮語と同源のものが数多く含まれている。 ○中国語と同源語:海(うみ)、浪(なみ)、鳥
(と
り)、汝(な)、鳴(なく)、念(おもふ) 樂
浪之 思賀乃辛崎 雖二幸
有一
大宮人之 船麻知兼津(万
30)柿本人麻呂 ○ 浪(なみ) 中国語の浪[lang]の転移したものである。古代日本語にはラ行音は語 頭にたつことがなかったので、ナ行に転移した。ラ行とナ行は調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、転移しやすい。朝鮮語でもlは語頭に立つことがないのでナ行に転移する。盧泰 愚(ノテウ)など、、 また、韻尾の[-ng]は日本語にはない音であり、調音の方法が同じ(鼻
音)なのでマ行に転移した ○ 辛(からい) 「辛」の古代中国語音は辛[sien]だとされている。現代北京音は辛(xin)である。現代の北京音は摩擦音で日本語の「シン」 に近いが、古代音の[xin]は喉音でありカ行音に近い。日本語の辛(からい) は中国語の上古音、辛[xien*]に依拠したものであろう。韻尾の[-n]は調音の位置がラ行音と同じであり、転移しやす い。 喉音[x-] がカ行であらわれる例:昏[xuən]くれ、黒[xək]くろ、薫[xiuən]かおる、漢[xan]から、 ○ 崎(さき) 日本漢字音で「キ」であらわれる漢字 の訓はサ行である場合が多い。カ行音は[-i-]介音の発達によって摩擦音に変化したものと思われ る。日本語の崎(さき)は摩擦音化した崎[xiai]と崎[kiai]の痕跡を留めているものと思われる。 例:
崎[kiai](キ・さき)、埼[kiai](キ・さき)、碕[kiai](キ・さき)、其[giə](キ・それ)、 漢字は表音性に乏しいから、音韻史をたどること が困難な場合があるが、ヨーロッパの言語にはcentum languageとsatem languageという二つの系統の言語があって、同じ語源のこと ばをカ行(centum)で発音するものとサ行(satem)で発音するものがある。 また、英語のscheduleはアメリカ英語では「スケジュール」といい、イギ リス英語では「シェジュール」と発音する。英語では学校をschoolといい、ドイツ語ではSchuleと書いて「シューレ」と読むなど、カ行とサ行は関 係が深い。 ○ 幸(さき) 「幸」の古代中国語音は幸[hieng]である。中国語の喉音[h-]は日本語にはない音で、調音の位置がカ行に近いこ とから日本漢字音ではカ行であらわれることが多い。 しかし、中国語の喉 音[h-]は破裂音であったものが、摩擦音に変化っするとい う歴史をたどっているため、同じ声符をもった漢字がカ行とサ行に読み分けられる場合がある。日本語の幸(さき)は幸[hieng]と摩擦音化した幸[xieng]の痕跡を留めているものと思われる。 例:逆[ngyak](ギャク)・朔[sak](サク)、嗅[thjiuk](キュウ・かぐ)・臭[thjiuk](シュウ・くさ ○ 宮(みや) 「宮」の古代中国語音は宮[kiuəm]だとされている。宮[kiuəm]の上古音は宮[hmiuəm*]であり、入りわたり音[h-]の発達したものが宮(キュウ)であり、[h-]が脱落したものが宮(みや)になった可能性があ る。同じような例としては海[xə]・毎[muə]、忽[xuət]・物[miuət]などをあげることができる。 入りわたり音の例:見[hmyan*](ケン・みる)、観hmuan*](カン・みる)、丸[human*](ガン・ 日本語の「みや」は廟[miô]とも音義ともに近い。 〇 船(ふね) 「船」は盤[buan]と同系だという。日本語の船(ふね)は盤[buan]と同系であろう。古代日本語では濁音ではじまるこ とばはなかったので、語頭の[b-]は清音になった。また、古代日本語には[-n]で終わる音節はなかったので、韻尾に母音を添加し て「ふ+ね」となった。現代の日本語でも[-n]ではじまる音節はない。 ● 船(ふね) 「船」にあたる朝鮮語は船(pae)である。長崎の船漕ぎ競争「ペーロン」の「ペ」は 朝鮮語の船(pae)である。 ○ 兼(かねる) 「兼」の古代中国語音は兼[kiem]である。日本漢字音は兼(ケン・かねる)である。 古代中国語は韻尾の[-n]と[-m]を弁別するが、日本漢字音では[-n]も[-m]も「ン」であらわれる。古代日本語には「ン」で終 わる音節もなかったので、母音を添加して兼(かねる)となった。 ○ 津(つ) 「津」の古代中国語音は津[tsien]である。日本語の津(つ)は中国語の津[tsien]の韻尾[-n]が脱落したものである。 韻尾の[-n]が脱落した例:田[dyen]た、千[tsyen]ち、眼[ngean]め、邊[pyen]へ、分[piuən]ぶ、真[tjien]ま、 天[thyen]て、 左
散難弥乃 志我能大和太 與杼六友 昔人二 亦母相目八毛(万31)柿本人麻呂 ○ 左散難弥(ささなみ) 「左散難弥(ささなみ)」 は音表記であるが、中国語音は「左(tzai)散(san)難(nan)弥(miai)」であり、散(san)、難(nan)の韻尾[-n]は日本語では失われている。古代日本語は開音節 (母音で終わる音節)であり、中国語の韻尾[-n]はしばしば脱落した。 ○ 難弥(浪) 「浪」の中国語音は浪[lang]であり、日本語の「なみ」は中国語の頭音[l-]がナ行に転移し、韻尾の[-ng]がマ行に転移したものである。 ● 和太(わだ) 朝鮮語の「うみ(海)」はpa daである。この場合は湖(琵琶湖)に使われている。 ○ 與杼六(澱む) 中国語の「澱」は澱[dyən]である。古代日本語では濁音が語頭に立つことはな かったので語頭に半母音「よ」を添加したものである。「杼」の古代中国語音は杼[zia]とされており、日本漢字音は普通、杼(ジョ)と読 まれているが、記紀万葉では杼(ド)に用いられていることが多い。「杼」の上古音は杼[dia*]であり、それが摩擦音化して杼[zia]になったものと思われる。 ○ 相(合) 万葉集では「あふ」に漢字「相」をあて ていることが多いが、合[həp](ゴウ・あふ)が音義ともに日本語の「あふ」に近 い。 嗚
呼見乃浦尓 船乗為良武 [女
感]*嬬
等之 珠裳乃須十二 四寶三都良武香(万40)柿本人麻呂 ○ 見(みる) 古代中国語の「見」は見[kyan]である。「見」の祖語(上古音)は見[hmyan*]のような音であった可能性がある。入りわたり音[h-]が発達したものが、見(ケン)になり、入りわたり 音が脱落したものが見(みる)になったものと考えられる。 ○ 船(ふね) 盤[buan]の原義は「船」だという。、日本語の「ふね」は盤[buan]と同源である。 ● 船(ふね) 朝鮮語の「船」はpaeである。日本語の「ふね」の「ふ」は朝鮮語のpaeと関係がある可能性がある。長崎の船漕ぎ競争 「ペーロン」は朝鮮語のpaeと同源である。 ○ 乗(のる) 「乗」の古代中国語音は乗[djiəng]である。古代日本語には濁音ではじることばなかっ たおで[d-]は[n-](ナ行)に転移した可能性がある。[d]と[n]は調音の位置が同じであり転移しやすい。 ○ [女感]*嬬(をとめ) 万葉集では「をとめ」に[女感]*という文字がしばしば使われている。女偏に感で一
字であるが、パソコンにない文字なので便宜上[女感]*と表記した。「嬬」は嬬[njio]であり、女[njia]の類語である。 ○ 等(ら) 「等」の古代中国語音は等[təng]である。[t-]と[l-]は調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、日本語の 等(ら)は中国語の等[təng]が転移したものである可能性がある。古代日本語で はラ行音は語頭にくることがなかったが、語中・語尾では中国語の[t]がラ行であらわれることがあった。等(ら)は接尾 辞である。 ● 裳(も) 朝鮮語では裳(もすそ)のことをchi maという。日本語の裳(も)は朝鮮語のchi maから派生したものであろう。 ○ 潮(しほ) 「潮」の古代中国語音は潮[diô]である。日本語の「しほ」は音義ともに潮[diô]に近い。日本語では「しほ」は「潮」にも「塩」に も使われる。塩(しほ)は潮の援用であろう。 ● 潮(しほ) 朝鮮語では潮は潮cho su<潮水>であり、塩は塩so geumである。 ○ 満(みつ) 「満」の古代中国語音は満[muan]である。韻尾の[-n]は調音の位置が[-t]と同じ(歯茎の裏)であり、転移しやすい。古代中 国語の韻尾[-n]の多くは上古音が[-t]であったと考えられている。 例:肩[kyan]かた、腕[uan]うで、管[kuan]くだ、本[puən]もと、盾[djiuən]たて、幡[phiuan]はた、
● 潮騒(しほさゐ) 金思燁の『韓訳萬葉集』では
「潮騒」をpa da<海>pha do<波濤>と訳している。 ○ 嶋(しま) 日本語の「しま(島・嶋)」は中国 語の洲[tjiu]と関係のあることばではないかと言われている。 ● 嶋(しま) 日本語の「しま(嶋)」は朝鮮語の嶋(seom)と同源である。 ○ 邊(べ) 嶋邊(しまべ)の邊(べ)は中国語の邊[pyen]の韻尾[-n]が脱落したものである。日本語は開音節(母音で終 わる音節)であり、[-n]で終わる音節は古代日本語にはなかった。 ○ 船(ふね) 中国語の「船」の原義は「盤」である
という。盤[buan]は日本語の「ふね」と同源である。 ● 船(ふね) 朝鮮語の「ふね」はpaeである。paeは中国語の盤[buan]の頭音が清音になり、韻尾の[-n]が脱落したものである可能性がある。長崎の船漕ぎ 競争「ぺーろん」の「ぺー」は朝鮮語のpaeと同源である。 ○ 妹(いも) 「妹」の古代中国語音は妹[muəi]である。古代日本語では中国語の[m-]が語頭にくる場合、母音を添加することが多い。 ○ 廻(み) 「廻」の古代中国語音は廻[huəi]である。「廻」の上古音は廻[hmuəi*]と再構できる。入りわたり音[h-]が発達したものが廻(カイ)であり、[h-]が脱落したものが廻(み)あるいは廻(まはる)で あろう。
○ 山(やま) 「山」の古代中国語音は山[shean]である。山[shean]は口蓋化音であり、日本語では口蓋化の影響で脱落 して山(やま)になった。 ● 山(やま) 朝鮮語の「やま(山)」はmoiである。朝鮮語のmoiは日本語の「もり(森)」とどうげんだという。 ○ 吾(われ) 日本語の「われ(吾)」は中国語の吾[nga]の頭音が転移したものである。日本語のワ行は合音 (唇をまるめた音)であり、鼻音の[m-]あるいは[ng-]と音価が近い。万葉集では吾[nga]は頭音が脱落して、吾(あ)であらわれることもあ る。 ● 吾(われ) 朝鮮語の「われ(吾)」はnaである。朝鮮語のnaは中国語の吾[nga]の転移したものである。朝鮮語では疑母[ng-]が語頭にくることがないので、同じ鼻音である(n-)に転移した。「吾」の朝鮮漢字音は吾(o)である。吾(o)は吾[nga]の頭音が脱落したものである。古代日本語と朝鮮語 は音韻構造が似ている。 ○ 知(しる) 古代中国語の「知」は知[tie]である。日本語の「しる」は中国語の知[tie]が介音[-i-]の影響で摩擦音化したものである。 ○ 妹(いも) 古代中国語の「妹」は妹[muəi]に母音「い」が添加されたものである。 ● 妹(いも) 金思燁の『韓訳萬葉集』ではこの歌の 「いも(妹)」はma nu ra<妻>と訳されている。古代日本語の「いも」は妹 (いもうと)ばかりでなく、男から妻や恋人・姉妹など親しい女性を呼ぶことばとして使われる。万葉集の歌のなかでも「妹(いも)」をimと訳した例(万2697)もある。朝鮮語のimは「恋慕う人」である。 皇
者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為流鴨(万235)柿本人麻呂 ○ 皇(おほきみ) 皇(おほきみ)の「きみ(君)」 は中国語の君[kiuən]である。 ● 皇(おほきみ) 皇(おほきみ)の「おほ」は朝鮮 語のhan(大きい)と同系のことばである。 ○ 神(かみ) 神(かみ)の古代中国語音は神[djien]である。神と同じ声符の漢字に乾坤の坤[khuan]があり、神も神[khuan*]に近い音価をもっていたものと考えられる。日本語 の「かみ」は中国語の神の上古音に依拠したものであろう。 日本漢字音でサ行であらわれるものが訓ではカ行
であらわれる例は多い。カ行音のほうが古く、サ行音は介音[-i-]などの発達によって摩擦音化したものである。 同じ声符の漢字がカ行とサ行に読み分けられる例:
石[zjyak](セキ・コク)、枝[tjie](シ)・技 漢字は表音性が乏しいから音を復元するのはむず
かしい。英語であれば、たとえばknife、knight、know、knock、knitという綴りが残っていれば、現代英語ではkは発音しないが、kを発音した時代があったことがわかる。 ● 神(かみ)金思燁はこの歌の「かみ(神)」をkeom nimと訳している。nimは「神さま」の「さま」にあたることばである。朝 鮮語のkeomも日本語の「かみ」と同源であろう。 ○ 天(あめ・あま) 古代中国語の「天」は天[thyen]である。日本語の「あめ」は中国語の頭音[th-]が介音[-y-]の発達によって脱落したものである。 ○ 雲(くも) 古代中国語の「雲」は雲[hiuən]である。日本漢字音の雲(ウン)は中国語の頭音[h-]が介音[-iu-]の影響で脱落したものであり、訓の雲(くも)は頭 音[h-]がカ行であらわれたものである。喉音[h-]は日本語にはない音であり、調音の位置がカ行に近 いことから、日本語ではカ行であらわれることが多い。 ● 雲(くも) 朝鮮語の「くも(雲)」は音がunであり、訓(古来からの朝鮮語)がku reumである。unは中国語の雲[hiuən]の頭音[h-]が脱落したものであり、ku reumは雲[hiuən]の頭音[h-]が(k-)であらわれ、韻尾の[-n]が(-m)に転移したものである。日本語も朝鮮語も音訓とも 中国語と同源である。 珠
藻苅 敏馬乎過 夏草之 野嶋之埼尒 舟近著奴(万250)柿本人麻呂 ● 珠(たま) 朝鮮語の「たま(珠)」はku seul<釧>である。日本語の「くしろ(釧)」は朝鮮語
のku seulと同源である。 新蘿の郷歌などにも漢字の韻尾を示すために末音 添記という方法が用いられたことが知られている。例えば「夜音」と書いてpamと読み、「風未」と書いてpa ramと読む。「夜」は音の「夜(ya)」ではなく音(eum)を添加することによって「夜(pam)」と読むことができる。また、「風」は「風(phung)」ではなく、未(mi)を添加することによって風(pa ram)と訓で読むべきことがわかる。 ○ 苅(かる) 「苅」の古代中国語音は苅[ngiat]である。日本語の「かる(苅・刈)」は中国語の苅[ngiat]の転移したものであろう。語頭の[ng-]は調音の位置が[k-]と同じ(後口蓋)であり、韻尾の[-t]は[-l]と調音の位置が同じ(歯茎の裏)であり、転移しや すい。 ○ 馬(うま) 古代中国語の「馬」は馬[mea]である。日本語の「うま(馬)」は語頭に母音 「う」を添加したものである。馬[mea]は唇音であり、日本語の訓では「う」は合口音[m-]の前に添加される。例:梅[muə]うめ、味[miuət]うまし、没[muət]うもる、など ● 馬(うま) 朝鮮語の「うま(馬)」はmalである。malはアルタイ系のことばであり、モンゴル語では馬はmoirである。中国語の馬(ma)はアルタイ系遊牧民族からの借用語である可能性が 高い。 ● 夏(なつ) 朝鮮語の「なつ(夏)」はyeo reumである。yeo reumは中国語の熱[njiat]と関係のあることばである可能性がある。スウェー デンの言語学者B.カールグレン(1889-1978)は『言語学と古代中国』(1920、オスロー)のなかで、日本語の「なつ(夏)」は 中国語の熱[njiat]に由来するとしている。日本語の「なつ(夏)」、 朝鮮語の夏(yeo reum)は中国語の熱[njiat]と同系である可能性がある。 ○ 野(の) 古代中国語の「野」は野[jya]である。しかし、同じ声符をもった序は序[zia]であり、また記紀万葉では「杼」は「迩本杼理(に ほ鳥)」などのように杼(ど)に使われている。「野」にも野[djya*]のような音があったと考えられる。古代日本語では 濁音が語頭にくることはなかったので日本語では野(の)になったと考えられる。 ● 野(の) 朝鮮語の「野(の)」はteulである。日本の地名にある「都留」などは朝鮮語の 野(teul)に由来するのではないかとされている。 ○ 嶋(しま) 日本語の「しま(島・嶋)」は中国語 の洲[tjiu]と関係のあることばではないかと言われている。 ● 嶋(しま) 朝鮮語の「しま(島・嶋)」はseomである。日本語の「しま(島・嶋)」は朝鮮語のseomと同源であろう。 ○ 舟(ふね) 「舟」の古代中国語音は舟[tjiu]であり、「船」は船[ziuən]であり、日本語の「ふね」とは発音が離れている。 ● 舟(ふね) 朝鮮語の「ふね(舟・船)」はpaeである。paeは盤[buan]の韻尾が脱落したものである可能性がある。また、 長崎の船漕ぎ競争「ペーロン」の「ペー」は朝鮮語のpaeと同源である。 稲
日野毛 去過勝尒 思有者 心戀敷 可古嶋所見(万253)柿本人麻呂 ○ 稲(いね) 「稲」の古代中国語音は稲[du]である。中国語には秈[shean]ということばがあって「うるち」を意味する。ス
ウェーデンの言語学者B.カールグレンは、日本語の「いね」は文化史的に
も明らかに中国からの借用語であるとして、「いね」は秈[shean]と同源だとしている。 ● 日(ひ) 朝鮮語の「日」はhaeである。日本語の「ひ(日)」は朝鮮語のhaeと同源である。 ○ 野(の) 古代中国語の「野」は野[jya]である。「野」の祖語(上古音)は野[djya*]であった可能性がある。日本語の野(の)は中国語
の野[djya*]の痕跡を残している。日本漢字音の野(ヤ)は唐代の中国語音、野[jya]に依拠したものである。 ● 野(の) 朝鮮語の「の(野)」はteulである。日本の地名「都留」や「鶴橋」は朝鮮語の 野(teul)であると考えられている。 ○ 過(すぎる) 古代中国語の「過」は過[kuai]である。中国語の[k-]は介音[-i-][-u-]の影響で摩擦音化することがある。たとえば同じ声
符をもった「技」は技[gie]であり、「枝」は枝[tjie]である。枝(シ)は技(ギ)が摩擦音化したもので
あり、技(ギ)のほうが古く、枝(シ)のほうが新しい。日本語の「すぎる(過)」の「す」は過[xuai*]に近い音を再現したものであろう。同様の例は崎
(キ・さき)などにもみられる。 ○ 心(こころ) 「心」の古代中国語音は心[siəm]である。「心」の上古音は心[xiəm*]に近い音であったと考えられるから、日本語の「こころ」は心[xiəm*]に依拠したものであろう。 ● 戀(こひ) 朝鮮語の「こひ(戀)」はsa rangであるが、keu ri da<恋しがる・恋慕う>ということばもある。金思燁
はこの歌の「戀」をkeu riと訳している。日本語の「こひ(戀)」は朝鮮語のkeu riと同源であろう。 ● 嶋(しま) 朝鮮語の「しま(嶋)」はseomである。日本語の「しま(嶋)」は朝鮮語のseomと同源であろう。 矢
釣山 木立不レ見
落乱 雪驟 朝樂毛(万
262)柿本人麻呂 ○ 矢(や) 古代中国語の「矢」は矢[sjiei]である。日本語の矢(や)は中国語の頭音が口蓋化 の影響で脱落したものである。 ● 矢(や) 朝鮮語の「や(矢)」はhwa salである。万葉集には「得物矢(さつや)」(万 61)、「佐都矢(さつや)」(万4374)ということばがあるが、「さつや」は「さつ(朝鮮語のsal)+矢(中国語の矢[sjiei]の転移したもの)」の複合語である。 ○ 釣(つり) 古代中国語の「釣」は釣[tyô]である。日本語の「つり(釣)」は中国語の釣[tyô]と同系のことばであろう。古代日本語には釣(チョ
ウ)のような音節はなかったので釣(つり)として受け入れた。 ○山(やま) 古代中国語の「山」は山[shean]である。日本語の山(やま)は中国語の頭音が口蓋 化の影響で脱落し、韻尾の[-n]がマ行に転移したものである。[-n]と[-m]は調音の方法が同じ(鼻音)であり、転移しやす い。日本の「ン」は[-n]と[-m]を兼ねており、[-n]と[-m]は弁別されていない。 ● 山(やま) 朝鮮語の「やま(山)」はmoiである。朝鮮語のmoiは日本語の森(もり)と同源だとされている。 ○ 木(き) 古代中国語の「木」は木[mok]である。日本語の「き」は枝[tjie]と関係のあることばではなかろうか。枝と同じ声符 をもつ漢字に技[gie]があり、「枝」にも枝[gie*]に近い音価があったものと考えられる。枝[gie*]のほうが古く、枝[tjie]は介音[-i-]の影響で摩擦音化したものである。中国語の樹[zjio]も祖語(上古音)が樹[tjio*]に近い音であった可能性がある。 ● 朝(あさ) 朝鮮語の「あさ(朝)」はa chimである。日本語の「あさ」は朝鮮語のa chimと同源である。 八
雲刺 出雲子等 黒髪者 吉野川 奥名豆颯(万430)柿本人麻呂 ○ 雲(くも) 古代中国語の「雲」 は雲[hiuən]である。日本語の雲(くも)は中国語の頭音[h-]が日本語のカ行になり、韻尾の[-n]がマ行に転移したものである。中国語の喉音[h-]は日本語にはない音であり、調音の位置がカ行(後 口蓋音)に近いので日本語ではカ行であらわれることが多い。日本漢字音の雲(ウン)は頭音の[h-]が介音[-iu-]の影響で脱落したものである。 ● 雲(くも)朝鮮語の「雲(くも)」はku reumである。ku reumは中国語の雲[hiuəm]に依拠したものであろう。日本語の「くも」は古代
中国語の雲[hiuən]、朝鮮語のku reumと同源である。 ○ 刺(さす) 古代中国語の「刺」は刺[tsiek]である。日本語の「さす」は中国語の刺[tsiek]と同源であろう。 ○ 出(いづる) 古代中国語の「出」は出[thjiuət]である。頭音の[th-]は有気音であり、日本語にはない音である。有気音
は濁音に近く、そのため日本漢字音では濁音であれわれるものも多い。「いづる」の「い」は濁音の前の母音添加であり、「る」は韻尾[-t]に対応している。 ○ 子(こ) 古代中国語の「子」は子[tziə]であり、日本漢字音は子(シ)である。日本漢字音
の「シ」は訓ではカ行であらわれるものがいくつか見られる。これらは偶然の一致だどうか。サ行音はカ行音(上古音)の摩擦音化したものである可能性があ
る。 中国語には同じ声符をカ行とサ行に読み分けるも
のもある。このことは中国語音韻史のなかで音韻変化があったことを裏づけているように思える。 ○ 黒(くろ) 古代中国語の「黒」は黒[xək]である。日本語の「くろ」は中国語の黒[xək]の韻尾[-k]がラ行に転移したと考えることもできる。中国語に
は日本語の「くろ」にあたることばに玄[hyuen]がある。日本語の「くろ」は玄[hyuen]の頭音[h-]がカ行であらわれ、韻尾の[-n]がマ行であらわれたものであると考えるほうが穏当
であろう。頭音[h-]は日本語にはない音であり、調音の位置がカ行(後
口蓋)に近いので日本語ではカ行であらわれることが多い。 ● 黒(くろ) 日本語の「くろ(黒)」にあたる朝鮮 語はkeomである。朝鮮語のkeomは音義ともに中国語の玄[hyuen]に近い。中国語の玄[hyuen]、日本語の「くろ」、朝鮮語のkeomは同源であろう。 ○野(の) 「野」の古代中国語音は野[jya]である。「野」と同じ声符をもった漢字に序があ り、古代中国語音は序[zia]、抒[djia]などがあり、柿本人麻呂の歌でも「與杼六(よど む・澱)」(万31)のように杼(ど)使われている。日本語の野 (の)は野[djia*]の頭音[d-]がナ行に転移したものであろう。 ● 野(の) 朝鮮語の「の(野)」はteulである。日本語古地名にある都留、鶴橋、鶴見など の「つる」は朝鮮語の野(teul)ではないかと言われている。 ○ 川(かは) 古代中国語の「川」 は川[thjyuən]である。「川」と同じ声符をもった漢字に訓[xiuən]があることから「川」にも川[xiuən*]に近い音があったものと推論できる。日本語の「か は」は中国語の上古音、川[xiuən*]と同系のことばであろう。 ○ 川(かは)「かは(川)」にあたる朝鮮語はka ramである。Ka ramも中国語の川[xiuən*]と同源のことばであろう。 ○ 奥(おき) 「奥」は現代の日本語では「沖」と表
記する。古代中国語の「奥」は奥[uk]である。日本漢字音の奥(オウ)は奥[uk]の韻尾が音便化したものであり、唐代以降の中国語
音に依拠している。 6.呉
音・漢音以前 日本漢字音には呉音と漢音があるとされている。 例えば「音」は呉音が音(オン)、漢音が音(イン)であるとされている。訓は音(おと)であり、これは古来からの「やまとことば」であるとされている。「音」の古代中国語音は音[iəm]である。古来からの日本語は開音節であり、「ン」 という音節はなかった。そこで呉音・漢音以前の日本語では音[iəm]が音(おと)に転移して日本語として受け入れられ たのではなかろうか。 呉音・漢音が成立したのは日本が本格的な文字時 代に入る8世紀のことである。柿本人麻呂の歌のなかには呉音・漢音が成立する以前の漢字音がかなり含まれている。 日本は弥生時代のはじめから鉄、稲作などをとも
なった中国文明を受け入れてきており、ことばもまた入ってきていたものと思われる。中国文明との接触は万葉集が成立する1000年も前から行われ、それに
ともなってことばも入ってきたと考えるのが自然であろう。 ここでは弥生時代から7世紀までの中国語音を弥
生音または倭音と呼ぶことにする。「音」についていえば、音(おと)は倭音であり、つぎに呉音・音(オン)、漢音・音(イン)と変化したと考えることがで
きる。 戦前の国学では日本文化の独自性が強調
され、日本語の特殊性を闡明することに力点がおかれていたために、万葉集は「やまとことば」で書かれており、やまとことばの中には外国語由来のことばは含
まれていないとされてきた。 7.音韻転移の法則 同源語を探すのには音韻変化には法則を知る必要
がある。英語のnameが「なまえ」ににているというだけでは同源語だと
はいえない。 古代中国語の日本は日本[njiet-puən]である。中国語日母[nj-]は唐代以降[dj-]に近い音に変化した。日本漢字音でも「日本」は日 (ニチ)だが、「元日」となると日(ジツ)である。英語のJapanはおそらく元の時代の中国語音に依拠したものであ ろう。元の時代(13世紀)にマルコ・ポーロは中国を旅している。マルコ・ポーロが上海あたりで聞いた発音はJipangあるいはJipanに近かったと思われる。それがイタリア語ではGiappone、スペイン語ではjapón(xa’pon)(ハポン)、フランス語ではjapon(ʒapõ)(ジャポン)、ドイツ語ではJãpan(ヤーパン)、英語ではJapanになったと考えられる。 中国語ではそれがさらに変化してribenになり、朝鮮語では頭音が脱落してil bonになった。これも古代中国語音を基点として解明することがで きる。 古代中国語
北京語 上海語
広東語
朝鮮語 英語 音韻変化は同じ地域、同じ時代であれば、同じ方向
に転移することが知られている。例えば、古代中国語の日母[nj-]は現代の[dj-]を経て(ri-)に変化したから、中国料理の青椒肉絲(チンジャオロウスウ)、回鍋肉(ホイクオロ
ウ)の肉[njiuk]は現代北京語音では肉(rou) である。語尾の[-t] が現代北京音では規則的に失われている。 古代中国語の日母[nj-] は現代の北京語では規則的にr音であらわれるとい
うのが音韻法則であり、韻尾の[-t]は規則的に失われるというのも音韻法則である。
○古代中国語・朝鮮漢字音・日本漢字音の関係 万葉集の時代の日本語には、唐代の中国語にはみ
られないいくつかの特徴があった。 このため、弥生時代から古墳時代、飛鳥時代を通
じて受け入れた中国語の語彙は日本語の音韻構造に適合するように転移した。それを上記の日本語の特色にあわせて検証してみると、次のような転移の法則が明
らかになる。 [法
則1]:中国語の入声音には母音を添加して受け入れた。 入声韻尾[-k]: (補則) 入声音[-p]は
マ行またはバ行に転移した: [法 則2]:韻尾の[-n][-m]は 弁別されず、ナ行またはマ行で母音を添加してあらわれる。 万葉集の時代の日本語にはまだ「ン」という音節
はない。日
本語で[-n]まマ行であらわれることもあり、[-m]がナ行であらわれることもある。[-n]と[-m]は日本語では弁別されていない。 (補則) 頭音[-n]は
タ行音へ転移した例もある: 唐代の中国語の韻尾[-ng]の祖語(上代音)は[-k]あるいは[-g]に近かったと考えられている。[ng]と[-k]は調音の位置が同じ(後口蓋・軟口蓋)であり、転
移しやすい。 現在の漢字音でも同じ声符をもった漢字をカ行音
とウ音便に読み分けるものがある。カ行音のほうが古く、音便形は後に発達したものである。 また、同じ漢字の読み方にもカ行と音便形に読み
分ける場合もある。 (補則) 漢字は音節文字であり、頭子音と主母音の間に介
音[-u-][-u-]などがある。日本漢字音に音便化が発生したのは、
日本が本格的な文字時代に入った奈良時代以降のことと思われる。中国語には頭子音と主母音の間に介音[-i-][-u-][-iu-]などがあって、日本漢字音では拗音や合音であらわ
れる。古代日本語には拗音、合音はなかったので訓では直音であらわれる。 中国語の疑母[ng-]は濁音(ガ・ギ・グ・ゲ・ゴ)ではなく鼻濁音
(カ゜・キ゜・ク゜・ケ゜・コ゜)である。現代の日本語でも鼻濁音は語中・語尾にしかこない。例えば、音楽学校は(オンカ゜ク・ガッコウ)である。日本語
の訓では中国語の疑母[ng-]は脱落する。 朝鮮語の音韻構造は古代日本語と似ていて、朝鮮語
でも古代中国語の疑母[ng-]は脱落する。 (補則1) (補則2) 古代中国語音:入[njiəp]、弱[njiôk]、茹[njia]、柔[njiu]、潤[njiuən]、閏[njiuən]、熱[njiat]、 朝鮮漢字音では中国語の日母[nj-]は脱落する。古代日本語の音韻構造は朝鮮語に近
かった。 (補則)
例:陸[liuk]をか、柳[liu]やなぎ、良[liang]よき、梁[liang]やな、陵[liəng]をか、綾[liəng]あや、 朝鮮漢字音では介音[-i-]を伴う場合は規則的に脱落する。朝鮮語の場合は規
範として辞書などには李(ri)と記されていることもあるが、日常会話のなかでは
李(i)である。 (補則1) (補則2) 中国語の喉音[h-][x-]は日本語にない音なのでカ行へ転移する場合が多
い。喉音の調音の位置が日本語のカ行(後口蓋音)に近く、音価も近いので日本語ではカ行に転移することが多い。 (補則1) (補則2) (補則3)
例:梅[muə](バイ・うめ)、馬[mea](バ・うめ)、妹[miuət](マイ・いも)、味[miuət](ミ・ 漢字は象形文字だといわれているが、漢字のおよ そ70%には声符という音をあらわす部分がある。同じ声符をもった漢字は、少なくともその漢字ができた時代には同じ発音であったと考えられる。 しかし、例えば「漢字」の「漢」は漢(カン)で あるが、同じ声符をもった「嘆」は嘆(タン)である。漢字の読み方は唐代までは規範があったわけでは ないので、地方により、時代により読み方は違っていた。唐代になると韻書などもできているので、唐代の漢字音はかなりの確実性をもって復元できる。それ以 前の漢字音になるとわからないことが多い。例えば、紀元前1000年ごろできたといわれる『詩経』の韻を調べてみると、明らかに唐詩の韻とは違うことがわ かる。漢字は表音機能に乏しいので、いつの時代に、どこの地方で読み方が変わったのか、音韻変化の歴史を正確に解明することはむずかしい。 漢字の「漢」の古代中国語音は喉音であり漢[xan]であり、日本語にはない音である。「嘆」の古代中 国語音は有気音の嘆[than]であり、これも日本語にはない音である。有気音は 閉鎖音である[t-]の息を強く出して発音する音で、[th-]は音価が喉音の[x-]に近かったものと思われる。現代中国語の[x-]は摩擦音であるが、古代中国語の[x-]は破裂音であった。 日本漢字音で「カン」と読む漢字の古代中国語音
を取りあげてみただけでも次のような多様性がある。 日本漢字音の「カ」には中国語の[k-]のほかに、有気音[kh-]、喉音[h-][x-]が含まれている。韻尾についても、干[kan]の韻尾は[-n]であり、甘[kam]の韻尾は[-m]である。日本漢字音は中国語原音に依拠しているも のの、日本語の音韻構造のなかに取り入れられているのである。 同じ漢字でも、例えば「絵」は呉音が絵(エ・
<ヱ>)、漢音が絵(カイ・<クワイ>)とされている。呉音は江南地方の音だとされ、唐代には規範からはずれた音だと考えられていた。 音は中国語音韻史のなかでも変化し、外国語であ る日本語や朝鮮語に取り入れられると、そこでも、現地の音韻構造に適合して転移した。 7.「やまとことば」の成立 日本語の歴史を起源からたどる試みは、神話のご とくでむずかしいが、文字資料をもとにして時代をさかのぼることは不可能ではない。その場合、日本語の起源をます仮説としてたてるのではなく、文字資料の ある時代から遡っていくことが大切である。 中国語の音韻学も唐代の漢字音を標準点として、 上古音へと遡っている。日本語の場合も日本が本格的な文字時代に入った8世紀の日本語を標準点として、飛鳥時代、古墳時代、弥生時代へと遡っていきが、か なりの蓋然性をもって検証可能な仮説をたてることが可能である。 日本が本格的な文字時代に入った8世紀の日本語 は、漢字だけで書かれているとはいえ、かなり正確に再現することが可能である。記紀万葉が書かれたのは8世紀だとはいえ、日本が東アジアで唯一の文明であ る中国文明の影響を受けはじめたのは8世紀から約1000年もさかのぼる弥生時代のことである。 日本は中国から稲作や鉄の文化を受け入れた。古 墳時代の技術も中国や朝鮮半島の影響を抜きにしては考えにくい。古墳時代末期の古墳である高松塚古墳の壁画には朝鮮半島の風俗の影響が強くみられる。大和 朝廷の成立も中国の政治体制や文化の影響なしには考えられない。奈良時代の風俗は唐の文化を規範としていた。 これらの文化をささえたのは「ことば」である。 かならずしも文字化されたことばではなかったかもしれないが、文化は「ことば」によって運ばれてきた。 万葉集の日本語も「漢意(からごころ)」をぬぐ いされば「純粋なやまとことば」にたどり着くというようなものではなく、すでに萬葉集の「やまとことば(訓)」のなかにはすでに中国語から受け入れた語彙 が多く含まれていることがわかる。日本の漢字音は音(唐代の中国語音)と訓(奈良時代の日本語)があるのではなく、音が呉音と漢音に分かれているように、 訓も縄文時代以来の「やまとことば」と弥生時代以降中国から受け入れた語彙に分けられる。
「やまとことば」と考えられていることばのなか に、すでに中国語からの借用語(あるいは同源語)があるということである。弥生時代の初期以降、古墳時代、飛鳥時代を通じて日本語に取り入れられたことば があるのにもかかわらず、それをあらわす名称がないのも不都合だから、弥生時代以降の借用語という意味で便宜上「倭音」と呼ぶことにする。すると、つぎのような日本語の姿がみえてくる。
いずれにしても、縄文時代の日本語が万葉集の時 代の日本語を形作っているとは言い難い。まして、現代の日本語は弥生時代以前にその基層ができあがっていたとは考えにくい。 こうして整理してみると、万葉集のことはである 「やまとことば」は中国語や朝鮮語の影響を受けて、縄文時代の日本語よりも内容が豊かになっていた。万葉集の「やまとことば」は文明が日本列島に伝わる以 前、神代の時代から不変のもとしてあったことばではなく、「縄文語」のうえに弥生時代、古墳時代を通じて中国からもたらされた古い中国語(弥生音)が重層 的に重なり合った複合語であることがわかる。 万葉集の日本語は語順や音韻構造は朝鮮語に似て いる。これはおそらく縄文時代以来の日本語の文法構造を受け継いだものであろう。しかし、語彙の面ではすでに中国語の影響を受けていて、万葉集の歌を豊か なものにしている。 |
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