第195話
ほとけ(佛)の語源
【ほとけ(佛)】
佛
(ほとけ)造(つく)る眞朱(まそば)足(た)らすは水渟(たま)る池田の朝臣(あそ)が鼻の上(へ)を穿(ほ)れ(万3841)
「釋
迦の御足跡(みあと)石(いは)に寫(うつ)し置き敬(うやま)ひて後(のち)の保止氣(ほとけ)に譲り奉(まつ)らむ捧げ申さむ。」(佛足石歌)
「佛」の語源はサン
スクリットのBuddhaである。漢字の「佛」はサンスクリットの音写であ
り、初期の中国仏典では「浮屠」などと転写されている。古代中国語の「佛」は佛[biuət]である。日本語の「ほとけ」は「佛[biuət]+け」である。仏教伝来以前に「ほとけ」というこ
とばが「やまとことば」のなかにあったとは考えられないから「ほと+け」は中国語の佛[biuat]に「け」を添加したものであろう。「け」は「もの
のけ」の「怪」であろう。
【ほとり(邊)】
「天
皇久しく邊裔(ほとり)に居(ま)しまして悉(ことごとく)に百姓の憂へ苦(くるし)ぶることを知(しろ)しめせり。」(顕宗前紀)
古代中国語の「邊」
は邊[pyen] である。日本漢字音は邊(ヘン・あたり・べ・ほと
り)である。「邊」の上古中国語音は邊[pet] に近い音だったものと推定できる。日本語の「ほと
+り」は「邊+り」である。「り」は「あたり」などの「り」であろう。 「邊」には邊(へ)という訓もある。「邊(へ)」は邊[pyen] の韻尾[-n] が脱落したものである。邊(ほとり)の方が古く、邊(へ)の方が新しい。 参照:第193話【へ(邊)】、
【ほね(骨)】
「初
めの淡路宮(あはぢのみや)に(あ)れませり。生(あ)れましながら齒(みは)一骨(ひとつほね)の如し。」(反正前紀)
「則
ち當摩(たぎまの)蹶速(くゑはや)が脇骨(かたはらほね)を蹶(ふ)み折(さ)く。」
(垂
仁紀7年)
古代中国語の「骨」
は骨[kuət] である。日本漢字音は骨(コツ・ほね)である。「骨(ほね)」は 中
国語の語頭音[k-]はハ行に転移し、韻尾の[-t]は調音の位置が同じ[-n]に転移したものである。中国語の後口蓋音[k-]は調音の位置が喉音の[h-]に近く、日本語では[k-]と[h-]が弁別されないため、しばしばハ行であらわれる。
例:干[kan](カン・ひる・ほす)、蓋[kat](ガイ・ふた)、頬[kyap](キョウ・ほほ)、 經[kyeng](ケイ・ふる)、古[ka](コ・ふるい)、家[kea](カ・ケ・へ)、 減[kəm](ゲン・へす・へる)、
韻尾の[-t]は日本語ではナ行に転移することがある。
例:穴[hyuet](ケツ・あな)、物[miuət](ブツ・もの)、決[kiuat](ケツ・きめる)、 齧[ngyat](キツ・かむ)、撥[puat](ハツ・はねる)、
【ほふし(法師)】
法
師(ほうふし)らが髯(ひげ)の剃杭(そりくひ)馬つなぎいたくな引きそ僧(ほふし)は泣かむ(万3846)
法師[piuap-shiei] は漢語である。仏法に精通した人、出家した人で、
仏教とともに入ってきた漢語であ
る。仏教用語は漢訳仏教の用語をそのまま使う場合が多い。 例:餓鬼(がき)、壇越(だにをち)、塔(たふ)、波羅門(ばらもに)、布施(ふせ)、 初期の仏教は漢文の世界だったと考えられる。仏教の伝える概念が「やまとことば」では置き換えにくかったためであろう。日本最初の漢詩集である『懐風藻』には僧侶の歌がいくつかあるが、「やまとことば」で書かれた万葉集には僧侶の歌がないことからも、そのことがうかがえる。平安時代に入ってからも、空海は漢文で書いているし円仁の日記なども漢文である。
【ほほ(頬)】
「頬
和名豆良(づら)、一云保保(ほほ)」(和名抄)
古代中国語の「頬」
は頬[kyap] である。日本漢字音は頬(キョウ・ほお)である。日本語の「ほお」は中国語の頬[kyap] と同源であろう。日本語の「ほほ」は上古中国語の韻尾[-p] の痕跡をよく留めている。中国語の後口蓋音[k-]は喉音[h-] と調音の位置が近く日本語ではカ行であらわれるも
ののほかに、ハ行であらわれるものもいくつかみられる。 例:經[kyeing](ケイ・へる・ふる)、蓋[kat](ガイ・ふた)、干[kan](カン・ひる)、 廣[kuang](コウ・ひろし)、古[ka](コ・ふるい)、骨[kuət](コツ・ほね)、
【ほむ(褒)】
「天
皇、、、則ち褒(ほ)めて寵(めぐ)みたまふ。」(神武前紀)
真
木(まき)柱寶米(ほめ)て作れる殿のごといませ母刀自(とじ)面(おめ)變わりせず
(万4342)
古代中国語の「褒」
は褒[biu] である。
日本語の「ほむ・ほめる」は中国語の褒美[biu-miei] であろう。古代日本語では濁音
が語頭に来ることがなかったので、褒[biu] は清音(ほ)になった。
【ほゆ(吠)】
し
し待つが如床敷きて吾が待つ君を犬な吠えそね(万3278)
吹
き響(な)せる小角(くだ)の音も敵(あだ)見たる虎か吼(ほゆる)と諸人(もろびと)のおびゆるまでに、、、(万199)
古代中国語の「吠」
は吠[biuat] である。日本語の「ほゆ・ほえる」は中国語の吠[biuat] と同源であろう。日本語では語頭に濁音がくること
がないので中国語の頭音[b-]は清音になり、韻尾の[-t] は[-l] に転移した。朝鮮漢字音では中国語の韻尾[-t] は規則的に[-l] に転移する。韻尾の[-t] と[-l] は調音の位置が同じであり、転移しやすい。古代日本語の「ほゆ」には吼[xo]・咆[beô]・哮[xeu]などの漢字もあてられる。いずれも動物が吠える声
の擬声である。
【ほる(掘)】
「爾
(しか)して香坂王(かごさかのおほきみ)歷木(くぬぎ)に騰(のぼ)り坐(ゐ)て見るに大きな怒猪(いかりゐ)出(い)で其の歷木を掘(ほ)りて卽ち其
の香坂王を咋(く)ひ食(は)みき。」(記仲哀)
「ま
た難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅(をはし)の江を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。」(記仁徳)
古代中国語の「掘」
は掘[giuət]である。日本漢字音は掘(クツ・ほる)である。中
国語の[g-][k-]は日本語ではカ行であらわれることが多いが、訓では
ハ行であらわれることもある。ハ行音の訓の方が古く、音のカ行の方があたらしい。日本語のハ行は唇音の「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」であったと云われる
が、文字時代以前の弥生音では喉音に近かったことを示唆している。掘(ほる)の名詞形である堀[giuət]は日本語では堀(ほり)である。 参照:【ほほ
(頬)】、
【ほろぶ(滅・亡)】
「天
皇祈(うけ)ひて曰く朕(ちん)土蜘蛛を滅(ほろ)ぼすこと得むとならば、将(まさ)にこの石を蹶(く)ゑむ、、」(景行紀12年)
「命
亡(ほろ)びむことを畏(おそ)りずして報(むく)いむとするが故(ため)に來(き)つといふ。」(欽明紀6年)
日本語の「ほろぶ」
には「滅」「亡」の文字が用い
られている。古代中国語の「滅」「亡」はそれそれ滅[miat]、亡[miuang]であり、音義ともに近い。王力は『同源字典』のな
かで「亡」と「滅」は同源であるとしている。語頭の[m-]は鼻濁音であり、日本語ではハ行に転移した。ハ行
とマ行はともに唇音であり、調音の位置が同じである。調音の位置が同じおとは転移しやすい。 韻尾の[-t] と[-l] は調音の位置が同じであり、転移しやすい。朝鮮漢
字音では中国語の韻尾[-t]は規則的に[-l]に転移する。古代日本語でも[-t]は第二音節以下では[-l]に転移することが多い。 亡[miuang]の韻尾は[-ng] であるが[-ng] もまたラ行
であらわれることがある。特に動詞の活用語尾ではラ行であらわれることが多い。 例:經[kyeng]へる、零[hlyeng]ふる、乗[djəng]のる、狂[giuang]くるふ、凝[ngiəng]こる、 通[thong]とほる、平[bieng]ひら、香[xiang]かをり、
古代日本語のハ行音は中国語の唇音系の音と対応す
るものがが多いが、喉音系の音
もハ行音として受け入れられている。日本語のハ行音は中国語の唇音系[p-][ph-][m-] の漢字と喉音系[x-][h-] に大きく分かれる。そのほかにも、後口蓋音[k-][g-][ng-]の転移したものがみられる。 日本語には咽音がな
かたため喉
音[x-][h-]と後口蓋音[k-][g-][ng-] はねる、濱[pien] はま、腹[piuək] はら、 拂[piuət] はらふ、祓[piuət] はらふ、氷[pieng] ひ、簸[puai] ひ、稗[pie] ひ、鄙[piə] ひな、 絆[puan] ひも、閉塞[pyei-sək] ふさぐ、斑[pean] ふち、包含[peu-həm] ふくむ、筆[piet] ふで、 邊[pyen] へ、瓶[pieng] へ、方[piuang] へ、
百[peak] ほ、邊[pyen] ほとり、葉[jiap] は、 幡[phiuan] はた、蟠[phiuan] へみ、佩[buə] はく、泊[beak] はつ、匍匐[bua-biuk] はふ、 平[being] ひら、伏[biuək] ふす、帆[biuəm] ほ、佛[biuət] ほとけ、褒美[biu-miei] ほむ、 吠[biuat] ほえる、墓[mak] はか、文[miuən] ふみ、矛[miu] ほこ、滅[miat]・亡[miuang] ほろぶ、
2.喉音系[x-][h-]の例。
花[xoa] はな、火[xuəi] ひ・ほ、響[xuang] ひびく、羽[hiua] は、匣[heap] はこ、挟[hyap] はさむ、 華[hoa] はな、荷子[hai-] はす、灰[huəi] はひ、檜[huai] ひ、降[hoəm] ふる、戸[ha] へ、
3.後口蓋音[k-][g-][ng-]の転移した例。
乾・干[kan] ほす、骨[kuət] ほね、干[kan] ひる、蓋[kat] ふた、經[kyeng] ふる、古[ka] ふるい、 家[kea] へ、減[kəm] へす、頬[kyap] ほほ、墾[khən] はり、謙[khyam] へる、誇[khoa] ほこる、 掘[giuət] ほる、牙[ngea] は、芽子[ngea-] はぎ、原[ngiuan] はら、
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