第175話  さけ(酒)の語源

 
【さけ(酒)】
な かなかに人とあらずは酒壺(さかつぼ)に成りにてしかも酒(さけ)に染(し)みなむ
(万342)

酒 (さけ)の名を聖(ひじり)と負(お)ほせし古昔(いにしへ)の大き聖の言(こと)の宣(よろ)しさ(万339)

  「酒」の古代中国語は酒[tziu]である。酒[tziu]は酢[dzak]に近い。王力の『同源字典』によると柔[njiu]と弱[njiôk]、臭[thjiu]と嗅[thjiuk]、捜[shiu]と索[sheak]、報[pu]と復[biuk]は 音義ともに近く同源だという。中国語の韻尾[-k]は脱落することがある。だとすれば、上古中国語の「酒」は酒[tziuk]に近いことばであり、それが 随唐の時代に至って酒[tziu](シュ)になった可能性がある。台湾の音韻学者、董同龢は『上古音韻表稿』のなかで、「酒」の上古音を酒[tsiog] とし「酢」の上古音を酢[dzhag]と推定している。
 日本語の「さけ」は中国語の「酒」あるいは「酢」 と同源であろう。酒と酢はいずれも醸造して作るもので、発酵を途中でとめたものが酒になり、発酵をとめないと酢になってしまう。

 【さし(城)】
「乃 (すなは)ち新羅に詣(いた)りて、蹈鞴津(たたらのつ)に次(やど)りて、草羅城(さわらのさし)を抜きて還(かへ)る」(神功紀5年)
「仍 (よ)りて且(また)東韓の地を賜ひて遣(つかは)す。東韓は、甘羅城(かむらのさし)、高難城(かうなんのさし」、尓林城(にりむのさし)是なり」(応神紀16年)
「乃 (すなは)ち新羅に到りて五つの城(さし)を攻めて、抜きえつ」(推古紀8年)

  古代中国語の「城」 は城[zjieng]である。日本語の城(しろ)も中国語の城[zjieng]と関係のあることばであろう。ところが『日本書 紀』には城は城(さし)とされることが多い。特に推古以前、朝鮮半島との関連であらわれる。李基文の『韓国語の歴史』によると、「古代日本語のtsasi(城)は、新羅語のcas(城)であるに違いない。」(p.77)という。「城」の朝鮮漢字音は城(seong)である。金日成(キム・イルソン)の成(ソン)と 同じ発音である。新羅語の城(cas)は中国語との関係は全くないのだろうか。
 朝鮮語は アルタイ系の言語であり、中国語とは系統も異なる。しかし、中国語の植民地が漢の時代には朝鮮半島北部に置かれており、政治的、文化的な影響を長い間受け ている。中国語の語彙が古代朝鮮語のなかに数多く入ってきていたとしても何の不思議もない。言語の系統が違っていても文化的接触によって語彙が借用される ことは、世界のどの言語でも普通に起こっている。

  一方、古代日本語では「城」を城(き)とも読む。 城(き)は百済語の城(ki)に由来するという。東アジアの言語史はわからない ことばかりである。

 【さだか(貞)】
朕 (われ)を畏(おそ)りずして貞(さだ)かならぬ心を用(も)て妄(みだりかは)しく輒輕(ただち)に答へつるとのたまふ。(雄略紀13年)
各 (おのもおのも)貞(さだ)かに能(よ)く浄(きよ)き心を以て仕へ奉(まつ)る(33詔)

  古代中国語の「貞」 は貞[tieng]である。「貞」の日本漢字音は貞(テイ・さだか) である。日本語の貞(テイ)と貞(さだか)は全く関係がないのだろうか。貞(テイ)は音であり、中国語からの借用であることは明らかである。貞(さだか) はやまとことばであり、中国との接触が始まる前から日本列島で話されていたことばである、というのが本居宣長以来の考えかたである。
 しかし、貞(さ+だか)の(だか)は貞
[tieng]に似ている。韻尾の[-ng]は上古中国語では[-k]に近い。(だか)が中国語と関係があるとすれば、 (さ)はどこから来たのであろうか。

 中国語の知[tie]・照[tjiô]系は端[tuan]系が口蓋化して随唐の時代に入ってから派生したも のであることが知られている。これも[-i-]介音(わたり音)の発達が起爆剤になっている。 

 端[tuan]、 透[thu]     [dyeng]
 照
[tjiô]  穿[thjyuən]、 神[djien]  

 日本漢字音にあてはめいえば端(タン)・透(ト ウ)・定(テイ)などのタ行音が口蓋化して照(ショウ)、穿(セン)、神(シン)などのサ行音になった、ということになる。 

 漢字には同じ声符をもった文字をタ行とサ行に読み わけるものが多い。この場合タ行音が古くサ行音はタ行音から派生したものである。

 例:探(タン)・深(シン)、単(タン)・戦(セ ン)、堆(タイ)・推(スイ)、
   脱(ダツ)・説(セツ)、鎮(チン)・真(シ ン)、珍(チン)・診(シン)、
   超(チョウ)・招(ショウ)、調(チョウ)・ 周(シュウ)、点(テン)・占(セン)、
   傳(デン)・専(セン)、電(デン)・申(シ ン)、屯(トン)・純(ジュン)、
   透(トウ)・秀(シュウ)、登(トウ)・澄 (チョウ)・證(ショウ)、

 恐らく登(トウ)→澄(チョウ)→證(ショウ)の ような経過を経て音韻変化は行われたものと思われる。

  また、日本漢字音でも訓はタ行音で音がサ行音であ るものがみられる。この場合訓は中国語の上古音に依拠した弥生音であり、音は隋唐の時代の漢字音に準拠したものである。

 例:楯(たて・ジュン)、辰(たつ・シン)、丈 (たけ・ジョウ)、垂(たれる・スイ)、
   塵(ちり・ジュン)、津(つ・シン)、常(つ ね・ジョウ)、照(てる・ショウ)、
   出(でる・シュツ)、時(とき・ジ)、寺(て ら・ジ)、苫(とま・セン)、

 
 すでに【さかし (賢)】(第174話)の項でみた ように日本語のサ行音はカ行音から転移したものもある。しかし、数でいうとタ行音から転移したものの方が多い。同じ声符をもつ文字でカ行、サ行、タ行にわ たって変化する文字もある。 


 例:勘(カン)・甚(ジン)・湛(タン)、 勲 (クン)・重(ジュウ)・動(ドウ)、
   活(カツ)・舌(ゼツ)・恬(テン)、 暁 (キョウ)・焼(ショウ)・撓(トウ)、

 この場合、カ行が先にサ行に変化したのか、タ行が 先にサ行に変化したのかはかは不明である。しかし、カ行とサ行はともに閉鎖音であることからカ行の転移としてタ行があって、それが摩擦音化してサ行になっ たものと考えられる。
 その傍証として蹴(ける)・就(シュウ)・就(つ く)をあげることができるかもしれない。訓のほうが早く、音のほうは後から日本語として定着した。カ行(ける)、タ行(つく)のほうが早く、サ行(シュ ウ)のほうが後である。

  古代日本語の「さだか(貞)」は古代中国語の貞[tieng]が摩擦音化していく過程、つまり貞(テイ)が貞 (ジョウ)に変化してゆく過程の痕跡を留めたものであろう。古代日本語には「貞(テイ)」という音節も「貞(ジョウ)」という音節もなかったので「貞(さ だ)」となったのではないかと思われる。
参照:第174話:【さかし(賢)】

 【さだむ(定)】
王 (おほきみ)の親魄(にぎたま)逢へや豊國(とよくに)の鏡の山を宮と定むる(万417)
王 (きみ)に服従(まつろ)ふものと定有(さだまれる)官(つかさ)にしあれば天皇(おほきみ)の命(みこと)恐(かしこ)み夷放(ひなさか)る國を治む と、、(万 4214)

 古代中国語の「定」は定[dyeng]である。日本漢字音は定(テイ・ジョウ・さだむ・ さだめ)である。日本語の「さだむ」は中国語の「定」と関係のあることばであろう。韻尾の[-ng]は鼻音であり、調音の方法が[-m]と同じであり、転移しやすい。王力の『同源字典』 によれば鏡[kyang]と鑑[keam]、痛[thong]と疼[tuəm]と陵[liəng]と隆[liuəm]、鳳[biuəm] [bəng]、鎔[jiong]と融[jiuəm]は同源であるという。「さ+だむ」の「さ」につい ては前項【さだか(貞)】でのべた。参照:【さだか(貞)】

 【さなだ(狭田)】
「即 ち其(そ)の稲種(いなたね)を以て、始めて天狭田(あまのさなだ)及び長田(ながた)に殖(う)う。」(神代紀上)
「時 に神吾田鹿葦津(かむあたかしつ)姫、卜定田(うらへた)を以て号けて狭名田(さなだ)と曰ふ。其の田の稲を以て、天甜酒(あめのたむさけ)を醸(か)み て嘗(にひなへ)す。」(神 代紀下)

  古代中国語の「狭」 は狭[heap]であり、日本漢字音は狭(キョウ・せまい)であ る。現代北京語では「狭」は摩擦音化して狭(xia)になっている。「夾」には陝西省(せんせいしょ う)のようにサ行の音もある。喉音[h-]が摩擦音化したものである。西安方面の方言音であ るものと思われる。
 日本語の狭(せまい)は中国語の狭
[heap]が摩擦音に転化したものであろう。狭田(さ+な+ だ)の(な)は現代語の助詞(の)にあたる。

 【さとし(聰)】
大 夫(ますらを)の聰(さと)き神(こころ)も今は無し戀の奴(たっこ)に吾(われ)は死ぬべし(万2907)
即 ち秉燭人(ひともし)の聰(さときこと)を美(ほ)めたまひて敦(あつ)く賞(たまひもの)す(景行紀40年)

  古代中国語の「聰」 は聰[tshong]である。日本漢字音は聰(ソウ・さとし)である。 日本語の「さとし」も中国語の「聰」と関係のあることばであろう。日本語の聰(さと+し)は聰(さと+き)の(き)が摩擦音化したものである。参照:【さ だか(貞)】、【さだむ(定)】

 【さひ(鋤)】
「素 戔嗚尊(すさのをのみこと)、乃(すなは)ち蛇の韓鋤(からさひ)の剣(つるぎ)以(も)て、頭を斬り腹を斬る。」(神代紀上)
「馬 ならば日向の駒、太刀ならば呉(くれ)の真差比(まさひ)」(推古紀20年)
「鎛  佐比都恵(さひづゑ)、鋤属也」(和名抄)

 
 古代中国語の「鋤」 は鋤[dzhia]である。古代日本語の「さひ」は剣でもあり、農具 でもある。大野晋は『日本語の起源(旧版)』(岩波新書)の なかで日本語の鍬(kupa)は朝鮮語の鋤(xomai)が語源であり、日本語の鉏(sape)は朝鮮語の耜(stapo)が語源であるとしている。そして、「こういう農作 業関係の多くの単語が朝鮮語と類似しているのは、いかに日本の農業が朝鮮経由の技術によって開発されたものであるかをよく示している。」としている。(p.124)

 現代朝鮮語では「鋤」は鋤(seoho-mi)、鍬(chusap)、鉏(seoho-mi/jeoeo-keut-nal)、耜(sapo-seup)である。アンダーラインは 朝鮮語の訓をあらわす。劉昌惇著『李朝語辭典』(延世大學校出版部)によると李朝時代には「鋤」は鋤(homəi)のような発音であったらしい。その他については確 かめることができなかった。
 李基文の『韓国語の歴史』をみると鎌
(nat)、畑(pat)など、日本語の鉈(なた)、畑(はた)に相応する ような語彙はあげられているが、朝鮮語に(stapo)のような複合子音が、いつの時代にか、語頭にあっ たかはどうかは明らかでない。朝鮮語の表音文字であるハングルが制定されたのが1446年のことであり、少なくとも15世紀以降にそのような複合子音が朝 鮮語に存在した形跡はない。

 【さぶ・しぶし(渋)】
「此 の栗の子(み)、本(もと)、刊(はづ)れるに由(よ)りて、後(のち)も澁(しぶ)無し。」(播磨風土記、揖保郡)
「土 と相(あひ)去ること、廻(めぐ)りて一尺(ひとさか)許(ばか)りなり。その柄(え)朽ち失(う)せてその刃(は)渋(さ)びず。光(ひかり)、明(あ き)らけき鏡の如し。」(播 磨風土記、讃容郡)

  古代中国語の「渋」 は渋[shiəp]である。日本漢字音は渋(ジュウ・しぶい・さび る)である。白川静の『字通』によると「澁はおそらく濕[sjiəp]、汁[tjiəp]と関係のある語で、水気によって渋滞することを含 む」という。日本語の「さぶ」も「しぶし」もいずれも中国語の「渋」が語源であろう。

 【さへ(鉏)】    

「阿 部臣、飽田(あきた)、渟代(ぬしろ)二郡の蝦夷(えみし)二百四十一人、其の虜(とりこ)三十一人、津軽郡の蝦夷一百十二人、其の虜四人、胆振鉏(いぶ りさへ)の蝦夷二十人を一所に簡(えら)び集めて、大きに饗(あへ)たまひ禄(もの)賜(たま)ふ。」(斉明紀5年)

  『時代別国語大辞典  上代編』によると鉏(さへ) は「農具のすきのこと。サヒとも。」とある。「鉏」の古代中国語音は鉏[dzhia]である。鋤[dzhia]に近い。日本漢字音は鉏(ショ・ソ・すき)、鋤 (ジョ・すき)である。
参照:さひ(鋤)

 【さむ(醒)】
猶 (なほ)失意せること醉(ゑ)へるが如し。因(よ)りて山の下の泉の側(かたはら)に居(ま)して乃(すなはち)其の水を飲(を)して醒(さ)めぬ。故 (かれ)其の泉を號(なづ)けて居醒泉(ゐさめがゐ)の曰ふ。(景行紀40年)

 古代中国語の「醒」は醒[tsyeng]である。「醒」の日本漢字音は醒(セイ・さめる) である。中国語韻尾の[-ng]は調音の方法が[-m]と同じ鼻音であり、転移しやすい。日本語の「さめ る」は中国語の「醒[tsyeng]」と関係のあることばである。



☆もくじ

★第161話 古代日本語語源字典索引

☆つぎ 第176話 さやけし・すがし(清)の語源