第169話  き(黄)の語源

 
【き(黄)】
「黄 染表紙五枚」(古 文書、天平勝宝2年)
「黄 疸 一に云ふ黄病 岐波无夜萬比(きばむやまひ)、黄瓜 岐宇利(きうり)」(和名抄) 

 中国では赤・ 青・白・黒・黄をもって五色としている。古代の日本語では「赤い」「青い」「白い」「黒い」は色をあらわす形容詞であるが、黄(き)は形容詞ではない。 「黄い」とは云わず「黄色い」という。日本語で色彩をあらわすことばは藍(あい)、茜(あかね)、橙(だいだい)、紫(むらさき)、桃色(ももいろ)など のように物の色(名詞)が多い。
 古代中国語の「黄」は黄
[huang]である。日本漢字音は黄(コウ・オウ・き)であ る。日本語の黄(き)は中国語の「黄」の韻尾[-ng]が脱落したものであろう。

 【き(城)】
天 皇(おほきみ)の遠の朝廷(みかど)としらぬひ筑紫の國は賊(あた)守る鎮(おさ)への城(き)ぞと聞(きこ)し食(め)す(万4331)
韓 國(からくに)の基(き)の上(へ)に立ちて大葉子(おほばこ)は領布(ひれ)振らすも日本(やまと)へ向きて(紀歌謡) 

 古代日本語に「城(き)」ということばがしばしば 出てくる。李基文の『韓国語の歴史』によれば、「城(き)」は百済語だという。 

  百済語で「城」を意味する語が、kï(己、 只)であったことは確実である。例。悦城
  ハ本百済ノ悦己県、儒城県ハ本百済ノ奴斯只県、潔城県ハ本百済ノ結己郡。、、古代日本
  語の
(城、 柵)はこの百済語の借用だと考えられる。(p.48) 

 日本の古地名にも「城」を「城(き)」と読ませる ものが多い。例。結城(ゆふき)、磐城(いはき)、頸城(くびき)、城﨑(きのさき)、茨城(いばらき)などである。

 【きく(菊)】
峰 に對(むか)ひて菊(きく)酒を傾(かたぶ)け水に臨みて桐琴(とうきん)を拍(う)つ
(懐風藻)

こ の頃の時雨(しぐれ)の雨に菊(きく)の花散りぞしぬべきあたらその香を(類聚国史) 

 古代中国語の「菊」は菊[kiuk]である。日本語の「きく」は中国語の「菊」の借用 語である。菊の花をめでる習慣は中国から渡来した。また、菊酒は不老長寿の薬とされ、重陽の節句に用いられた。

 【きつね(狐)】
刺 鍋(さしなべ)に湯沸かせ子等(こども)櫟津(いちひつ)の檜橋(ひはし)より來む狐(きつね)に浴(あ)むさむ(万3824) 

 古代中国語の「狐」は狐[hua]で ある。日本語の「きつね」は「狐」に関係のあることばであろう。そのさらなる語源をたどればキツネの鳴き声の擬声語に行きつくであろう。「き+つ+ね」と すると「き」は「狐」、「ね」は親しみをもって呼ぶときにつける接尾辞である。「つ」は「沖つ波」「庭つ鳥」の「つ」であろう。

 【きぬ(絹)】
西 の市にただ獨(ひと)り出(い)でて眼(め)竝(な)べず買ひてし絹(きぬ)の商(あき)じこりかも(万1264)
水 縹(みはなだ)の絹(きぬ)の帯を引帯(ひきおび)なす韓帯(からおび)に取らし、、
(万3791) 

 古代中国語の「絹」は絹[kyuan]である。日本語の「きぬ」は中国語の「絹」の韻尾[-n]に母音を添加したものである。日本語は開音節であ り、古代日本語には「ン」で終わる音節はなかった。

 【きぬ(巾)】
尾 津の埼(さき)なる一つ松吾兄(あせ)を一つ松人にありせば太刀(たち)佩(は)けましを岐奴(きぬ)著(き)せましを(記歌謡)
夏 影の房(つまや)の下に衣(きぬ)裁(た)つ吾妹(わぎも)裏施(ま)けて吾(わ)がため裁たば差大(ややおほ)に裁て(万1278) 

 絹(きぬ)と似たことばに衣(きぬ)がある。衣 (ころも)一般をさす。古代日本語の「きぬ(衣の意味)は中国語の巾[kiən]であろう。布巾(くきん)、雑巾(ぞうきん)の 「巾」である。「巾」も「絹」の場合と同様に日本語では[-n]の後に母音が添加されている。

 【きば・き(牙)】
天 (あめ)仰(あふ)ぎ叫びおらび牙(き)喫(か)み建怒(たけ)びて、、(万1809)
「牙  キバ・キ・キザス」(名 義抄) 

 古代中国語の「牙」は牙[ngea]である。似たことばに歯[thjia]があり、音義ともに近い。日本語の「きば」の語源 は中国語の「牙歯」ではなかろうか。現代中国語では歯医者のことを「牙医」といい、歯科のことを「牙科」という。日本語の「は(歯)」もまた中国語の「牙」と関係のあることばである可能性がある。

 【きはむ・きはまる(窮・極)】
寶 祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、當(まさ)に天壌(あまえつち)と窮(きはま)り無(な)けむとのたまふ(神代紀下)
言 はむ便(すべ)為(せ)むすべ知らず極(きはま)りて貴(たふと)きものは酒にあるらし
(万342)
 

 古代中国語の「窮」「極」は窮[giuəm]・極[giək]である。中国語の熟語は音義が近いものが多い。日 本語の「きわめる」も語源は「窮・極」であろう。

 【きみ(君)】
奥 つ國領(うしは)く君(きみ)が柒屋形(ぬりやかた)黄柒(にぬり)が門(と)渡る
(万3888)

昨 日こそ公(きみ)は在りしか思はぬに濱松が上(うへ)に雲と棚引(たなび)く(万444) 

 古代中国語の「君」は君[giuən]である。日本漢字音は君(クン・きみ)である。古 代日本語には「ン」で終わる音節がなかったので[-n]に母音を添加して君(きみ)とした。五十音図の 「ン」は中国語の[-n][-m]に対応している。中国語の韻尾[-n][-m]も日本漢字音では「ン」になる。日本語では韻尾の[-n][-m]を弁別しない。

 日本語の「きみ」は「公」と表記されることもあ る。「公」の古代中国語音は公[kong]である。韻尾の[-ng]は鼻音であり、[-n]あるいは[-m]と調音の方法が同じである。調音の方法が同じ音は 転移しやすい。「君(きみ)」も「公(きみ)」も日本語では意味 は同じで、自分の使える主君を意味することもあり、「あなた」の意味にも使われる。

 【きも(肝)】
大 猪子(おほいこ)が腹(はら)にある岐毛(きも)向かふ心をだにか相思はずあらむ(記歌謡)
村 肝(むらきも)の情(こころ)摧(くだ)けて如此(かく)ばかり余(わ)が戀ふらくを知らずかあるらむ(万720) 

 古代中国語の「肝」は肝[kan]である。日本漢字音は肝(カン・きも)である。古 代日本語には「ン」で終わる音節がなかったので、韻尾に母音ば添加されて肝(きも)となった。韻尾の[-n][-m]は調音の方法が同じ鼻音であり、転移しやすい。

 【きよし(清・浄)】
千 鳥鳴く佐保の河門(かはと)に清(きよ)き瀬を馬うち渡し何時(いつ)か通はむ(万715)
大 瀧(おほたき)を過ぎて夏身(なつみ)に近づきて浄(きよ)き川瀬をみるが明(さや)けさ
(万1737)
 

 古代中国語の「清・浄」は清[tsieng]・浄[dziəng]である。日本漢字音は清(セイ・ショウ・シン・き よい・すむ・すがしい)、浄(セイ・ジョウ・きよい)である。古代中国語の「清・浄」には摩擦音になる前に閉鎖音であった前史があったものと思われる。隋 唐の時代以前の上古中国語音では「清・浄」に清[kieng]・浄[giəng]であったに違いない。日本語の清・浄(きよい)は 上代中国語音の痕跡を留めていることになる。

 漢字は基本的に象形文字であるため、古代の漢字音 を復元することは容易ではない。しかし、中国語では[k-]が介音[-i-]の影響で摩擦音化することはしばしばある。例え ば、感(カン)・鍼(シン)、喧伝(ケンデン)・宣伝(センデン)などは同じ声符号がカ行とサ行に読みわけられている。
 日本語では訓が カ行で音がサ行の漢字もいくつかみられる。神(かみ・シン)、辛(からい・シン)、臭(くさい・シュウ)などである。カ行の音のほうが古く、サ行の音はカ 行音が介音の影響で摩擦音化したものであろう。清(きよい・セイ)、浄(きよい・ジョウ)もこの系列のなかに含まれるのではなかろうか。

 【きらふ(嫌)】
穢 (きたな)き奴等を伎良比(きらひ)賜ひ棄て賜ふ(続紀宣命)
「嫌  支良不(きらふ)」(新 撰字鏡) 

 古代中国語の「嫌」は嫌[hyam]である。日本語の「きらふ」は中国語の嫌[hyam]と関係のあることばである。頭音の[h-]は日本語にはない喉音であり、日本語ではカ行であ らわれる。韻尾の[-m]は調音の位置が[-l]に近く、転移しやすい。

 【きる(切)】
速 須佐之男(すさのをの)命(みこと)に千位(ちくら)の置戸(おきど)を負(おは)せ、亦髯(ひげ)と手足の爪とを切(き)り祓(はら)へしめて神やらひ やらひき(記 上)
楊 (やなぎ)こそ伎禮波(きれば)生(は)えすれ世の人の戀に死なむを如何にせよとそ
(万3491)
 

 日本語の「きる」には切(セツ)、截(セツ)、斬 (ザン)などの漢字が使われている。「切」「截」「斬」の古代中国語音は切[tsyet] [dziat]、斬[tzheam]であり、音義ともに近い。これらの漢字はいずれも[-i-][-y-]などの介音が含まれているのが特徴である。隋唐の 時代にの上古音では介音[-i-]が発達しておらず、介音[-i-]の影響で摩擦音化する前の上代中国語音は切[ket] [gat]、斬[keam]に近い音であったと想定することができる。
 日本語の「きる」は上代中国語の「切」であった可 能性がある。現代北京語音では「切」は切
(qie)であり、カ行イ段は摩擦音化して、サ行に変化す る、という仮説をたてることができるのではなかろうか。
 


☆ もくじ

★ 第161話 古代日本語語源字典 索引

 第170話 くがね(黄金)の語源