第167話
かた(肩)の語源
古代中国語の「肩」は肩[kyan]である。隋唐の時代以前の上古音では肩[kyat]に近い音であったと想定できる。日本語の「かた」
は上古音の肩[kyat]に依拠したものである。[-n]と[-t]は調音の位置が同じであり転移しやすい。同じ声符
をもった漢字でも本(ホン)・鉢(ハチ)、吻(フン)・物(モツ・ブツ)、因(イン)・嗚咽(オエツ)産(サン)・薩摩(サツマ)などのように[-n]と[-t]の両方の読み方があるものがみられる。この場合上
古音は[-t]に近く、隋唐の時代になって[-n]に変化したと考えられる。 【かたし(堅)】 古代中国語の「堅」は堅[kyen]である。隋唐の時代以前の上古音は堅[kyet]に近い発音だったものと考えられる。日本語の「か
たい」は上古音の堅[kyet]に依拠したものである。堅魚[kyen-ngia]・(かつを)も上古中国語が語源である。魚[ngia]の朝鮮漢字音は魚(eo)であり、日本語の魚(うを)は朝鮮語音の影響を受
けている。 水
の江の浦島の子が堅魚(かつを)釣り、、(万1740)
白川静の『字
訓』によると、「克(こく)は上代語の表記に用いることのない字であるが『詩経、大雅、蕩(とう)』「初めあらざる靡(な)し、克(よ)く終りあること鮮
(すくな)し」、また『左伝、隠元年』「鄭伯、段(弟の名)に鄢(えん)に克(か)つ」とあって、やはり「克(よ)くす~克(か)つ」という展開をもつ。
「かつ」と勝・克とは、殆ど同義の語である」としている。
古代中国語の「葛」は葛[kat/hat]である。日本語の「かづら」は「葛+ら」であろ
う。「ら」は野菜(な)の転移したものだと思われる。朝鮮語では「菜」は菜(na-meul)である。[-n]と[-l]は調音の位置が同じであり、転移しやすい。
古代中国語の「兼」は兼[hyam]である。語頭の喉音[h-]は日本語ではカ行であらわれる。韻尾の[-m]は日本語では後に母音が添加されてマ行またはナ行
であらわれる。韻尾の[-m]と[-n]はともに調音の方法が同じ鼻音であり、日本語では
転移しやすい。日本語の五十音図には最後に「ン」があり、中国語韻尾の[-n]と[-m]の両方に対応している。
古代中国語の「金」は金[kiəm]である。日本語の「きん」は中国語の「金」の韻尾[-m]に母音を添加したものである。日本語は開音節(母
音で終わる音節)であり、古代日本語には[-m]も[-n]もなかったので、母音を添加した。日本語では[-m]と[-n]は弁別されなかったので[-m]はナ行であらわれることも、マ行であらわれること
もある。 【かひ(峡)】 最初の歌の「やまがひ」は「山峡」である。古代中
国語の「峡」は峡[heap]である。「峡」の日本漢字音は峡(キョウ)であ
る。しかし古代日本語では[-p]は蝶[thyap]・(てふ)のようにハ行で発音された。「峡」もふ
るくは峡「かひ」と発音されたであろうことは十分推測できる。 万葉集224の
歌は「柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌」ということば書きがあるものである。「貝」とあるところには「一云ふ、
谷に」という割注がついている。「貝」という文字が使われているため、古来この歌の解釈についてはさまざまな意見がある。一つは「今日は来られるか今日は
来られるかと、私の待つ君は、石川の貝にまじっているというではないか」という解釈である。もう一つは「石川の峡谷にまじっているというではないか」とい
うものである。万葉集が編纂された時代には「かひ」ということば
の語源は分からなくなってしまっていたようである。
古代中国語の「貝」は貝[puai]であり、日本語の「かい」は中国語の「貝」とは関
係がなさそうである。日本語の「かい」は蛤[həp]が語源だと思われる。「蛤」の日本漢字音は蛤(コ
ウ・はまぐり)である。旧仮名使いでは蛤(カフ)である。中国語の韻尾[-p]は
旧仮名使いでは蝶(テフ)、夾(カフ)、答(タフ)、甲(カフ)、合(ガフ)などのようにハ行であらわれる。地名の「甲斐」は甲斐(かひ)であり、甲斐の
「斐」は「甲」の末音添記である。古代日本語の「甲」の末音は「ヒ」であり、甲(カヒ)であった可能性がある。「蛤」も蛤(かひ→カフ→コウ)と変化した
ものであろう。
『新撰字鏡』では「蚕」は蚕(かひこ)だという。
しかし、万葉集では「養蠶」あるいは「養子」読ませている。万葉集には二首同じような歌が載せられているが、それぞれの歌の表記は次のようになっている。 足
跡常母養子眉隱隱在妹見依鴨(万
2495) 「蚕」の日本漢字音は蚕(サン)であり、「かい
こ」とは関係がなさそうである。万葉集では「養(か)ふ」を使っているが、日本語の「かひこ」の語源は蛺蠱[heap-ka]であろう。蛺(かひ)は蝶であり、蠱(こ)は虫で
ある。
日本語の「かぶと」には「甲」「甲冑」「冑」など
の文字が用いられている。日本語の「かぶと」の語源は「甲兜」であろう。古代中国語の「甲兜」は甲兜[keap-to]である。
古代中国語の「還」は還[hoan]である。日本語の「かえる」は現代では「返る」
「帰る」などと書くが、語源は「還」であろう。語頭の喉音[h-]は日本語ではカ行であらわれる。韻尾の[-n]は調音の位置が[-l]と同じであり、転移することが多い。例:漢・韓
(カン・から)、雁(ガン・かり)、昏(コン・くれ)、嫌(ケン・きらう)、算盤(ソロバン)など、、
白川静の『字通』によると古代中国語の「鎌」は鎌[liam]であり、日本漢字音は鎌(レン)である。同じ声符
をもった漢字に二通りの読み方がある。兼(ケン)・嫌(ケン):廉(レン)・簾(レン)である。 例:各(カク)・落(ラク)、監(カン)・藍(ラ
ン)、京(キョウ)・涼(リョウ)、 随唐の時代以前の上代中国語の「鎌」は鎌[hliam]であり、頭子音は複合子音ではないにしても「入り
渡り音[k-]」があったと考えられる。鎌(レン)は鎌[hliam]の入り渡り音が脱落したものであり、鎌(かま)は
入り渡り音が発達したものである。 例:呂、旅、楼、蘭、裸、藍、廉、斂、涼、洛、
露、蓼、楽、林、立、隆、練、裏、兼、 |
||
|