第165話  おく(奥・沖)の語源

 

【おく(奥・沖)】
奥 山の岩に蘿(こけ)生(む)し恐(かしこ)けど思ふ情(こころをいかにかもせむ(万1334)
淡 海の海辺(へた)は人知る奥浪(おきつなみ)君を除(お)きては知る人もなし(万3027) 

  古代中国語の「奥」は奥[uk]である。現代の北京語音は奥(ao)で ある。日本語では奥(オウ・おく)である。日本語の訓とされている奥(おく)は中国語からの借用語である。日本語の「沖」もまた、語源は中国語の「澳」で ある。今はもう使われなくなったことばであるが燠(おき)もまた中国語語源である。「燠」は火種を火鉢の灰の中などに貯えておくもので、マッチの普及とと もに死語になってしまった。 

【おと(音)】
大 君の三笠の山の帯にせる細谷川の音(おと)の清(さやけ)さ(万1102)
ぬ ばたまの月に向かひて霍公鳥鳴く於登(おと)はるけし里遠みかも(万3988) 

 古代中国語野「音」は音[iəm]である。日本語では中国語の韻尾[-m][-n]も「ン」になり日本漢字音は音(オン)である。[-n][-m]は調音の位置が[-t]と同じであり、転移しやすい。「音」の上古音は音[iəp]あるいは音[iət]であり、それが音[iəm]に変化し、それが日本語の音(おと・オン)となっ たものと思われる。類例としてはあ琴[giəm]・(キン・こと)、店[tyəm]・(テン・たな)などをあげることができる。 

【おと(弟)】
父 母が成しのまにまに箸向(はしむ)かふ弟(おと)の命(みこと)は、、(万1804)
天 (あめ)なるや淤登多那波多(おとたなばた)の項(うな)がせる玉の御統(みすまる)、、
(記歌謡)
 

 古代中国語の「弟」は弟[dyei]である。古代日本語は濁音ではじまることばはな かったから語頭に母音が添加されたのが弟(おと)であり、男女の別なく、弟と妹について使われた。現代語の「おとうと」「いもうと」は弟人、妹人である。 

【おとす(堕)】
橋 立の熊來のやらに新羅斧堕(おとし)入れわし懸けて懸けて勿(な)泣かしそね、、
(万 3878) 

 古代中国語の堕[duai]である。古代日本語では濁音が語頭に立つことがな いから語頭に母音を添加した。 

【おふ(負)】
此 (これ)や是(こ)の倭(やまと)にしては我が戀ふる紀路(きぢ)にありと云(い)ふ名に負(お)ふ背の山(万35)
名 のみを名兒山と負(お)ひてわが戀の千重(ちへ)の一重(ひとへ)も慰めなくに(万963) 

 古代中国語の「負」は負[biua]である。古代日本語では濁音が語頭に立つことがな いから語頭に母音が添加された。日本語の表記では「負(お)ふ」となっているが、語源的には「お負(ふ)」である。 

【おみ(臣)】
物 部(もののふ)の臣(おみ)の壮士(をとこ)は大王(おほきみ)の任(まけ)の随意(まにま)に聞くと云ふものぞ(万369)
水 そそく淤美(おみ)のをとめ秀罇(ほだり)取らすも、、(記歌謡) 

 古代中国語の「臣」は臣[zjien/sjien]である。日本語の臣(しん)は介音[-ji-]の影響で中国語の頭音が脱落したものである。 

【おも(母)】
緑 兒(みどりご)のためこそ乳母(おも)は求むと云へ乳(ち)飲めや君が於毛(おも)求むらむ(万2925) 

 古代中国語の「母」は母[mə]である。日本語音は母(ボ・おも)である。語頭音 が半濁音[m-]であるため母音が添加された。日本漢字音では中国 語音の[m-]はバ行で発音されることが多い。弟[dyei](おと)、堕[duai]・(おつ)に準ずる。朝鮮語の母(eo-mi-ni)も同源である。 

【おも・おもて(面)】
陸 奥(みちのく)の眞野(まの)の草原遠けれど面影(おもかげ)にして見ゆと云ふものを
(万 396)
小 林(をばやし)に我を引き入(れ)てせし人の於謀提(おもて)も知らず家も知らずも(紀歌謡) 

 古代中国語の「面」は面[mian]である。日本語の面(おも)は語頭に母音(お)が 添加されたものである。面(おもて)は上古音で面[miat]を継承したものである。歴史的には[-t]が古く[-n]が新しい。韻尾の上古入声音[-t]は隋唐の時代に入って[-n]に変化した。 

【おる(織)】
我 がためと織女(たなばたつめ)のその屋戸(やど)に織(お)る白布(しろたへ)は織(お)りてけむかも(万2027)
天 照大神(あまてらすおほみかみ)忌服屋(いみはたや)にて神御衣(かむみそ)織(お)らしめます時、、、(記・上) 

 古代中国語の「織」は織[tjiək]である。日本語の「おる」は中国語の「織」の頭子 音が介音[-ji-]の影響で脱落して、韻尾の[-k][-l]に転移したものである。 

【おる(降)】
遠 き人の爲には天より降(お)りませるが如し。(諷誦文稿)
大 夫(ますらを)の高圓山(たかまどやま)に迫(せ)めたれば里に下(お)りける鼯鼠(むささび)ぞこれ(万1028) 

 日本語の「おる」には「降」「下」が使われてい る。「降」の古代中国語音は降[hoəm]である。降(おる)は語頭の[h-]が脱落し、韻尾の[-m][-l]に転移したものであろう。喉音[h-]は日本語にはない音で、脱落しやすい。日本語の 「ふる」は喉音[h-]を日本語のハ行で対応したものである。また[-m][-n][-l]は調音の位置が近く転移しやすい。

  日本語は母音ではじまることばが多い。『広辞苑』 では2588ページ中ア行は375ページで14.5%をしめている。これにたいして中国語は、小学館 の『中日辞典』では1%にもみたない。そのため、中国語の語彙が日本語に借用されるときは、中国語の頭母音が脱落するか、頭に母音を添加することが多くな る。
 朝鮮語ではア、ヤ、ワ行が辞書では同じ項目に含ま れているため、直接比較はできないが
15%で日本語に近い。
 岩波の古語辞典ではア行が
18%あり、時代別国語大辞典(上代編)では20%あり、古代日本語の方が現代の日本語よりさらに この傾向は強いようである。

 古代日本語のア行音のことばを整理してみると次のようになるのではあるまいか。
*(韻尾の対応については各項で述べたので、ここでは述べない。)

 1.古代中国語原音に頭子音がないもの。
  奥
[uk]おく、音[iam]おと、腕[uan]うで、怨[iuan]うらむ、憂[iu]うれふ、厭[iap]うし・ 
  いとふ、癒[jio]いゆ、鶯[eng]うぐ・ひす、

2.中国語の声母が口蓋化や、後続の介音[-i-]などによって失われたもの。
  熱
[njiat]あつし、入[njiəp]いる、赤[thjyak]あか、織[tjiek]おる、射[djyak]いる、臣[sjien] 
  おみ、今
[kiəm]いま、禁[kiəm] いむ、息[siək]いき、秈[shean]いね、色[shiək]いろ、
  天
[thyen]あめ、犬[khyuan]いぬ、尼[niei]あま

3.日本語では語頭に立たない頭子音[ng-][h-][x-]などが失われたもの。
  我
[ngai]あ、吾[nga]あ、魚[ngia]うお、顎[ngak]あご、仰[ngiang]あふぐ、牛[ngiuə] 
  う・し、
[həp]あふ、会[huat]あふ、降[hoəm]おる、恨[hən]うらむ、現[hyan]あらは
  す、顕
[xian]あらはす、荒[xuang]あらい、

4.語頭に母音が添加されたもの。
  (古代日本語では語頭に濁音はたたない)
  弟
[dyei]おと、堕[duai]おとす、痛[thong]いたし、負[biua]おふ、

   (中国語の頭音が[m-][l-]の場合母音が添加されることがる)
  海女
[muə]あま、網[miuang]あみ、未[miuət]いまだ、夢[miuəng]いめ、妹[muəi]いも、
  馬
[mea]うま、味[miuəi]うまし、梅[muə]うめ、蕪[miuə]うも*、没[muə

  日 本語のア行音は上古中国語の頭子音が脱落したものや、頭音に母音が添加されたものがあるので見逃されやすい。しかし、言語のたどった長い歴史のなかで、中 国語音も変化し、日本語の音韻構造も変化した。そして、音韻構造が違う音は日本語の音韻構造に合わせて転移して受け入れられた。


☆ もくじ

★ 第161話 古代日本語語源字典索引

 つぎ 第166話 かがみ(鏡・鑑)の語源