第152話 ことばにとって意味とは何か
ことばは意味を伝えることにその存在意義があ
る。ことばの意味とは何であろうか。近代言語語学の父といわれる、言語学者のフェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)は「記号なしで明確な思考はありえない」と述べて
いる。実世界は存在するが、記号を媒介することなく対照を人間が認識できない、ということである。ソシュールは、「記号は、対象に貼り付けられたラベルで
はなく、名前こそが意味を分節する」と述べたのである。ソシュールは、ことばや文字を「シニフィアン」と命名し、ことばや文字によって指し示されるものを
「シニフィエ」と名づけた。そして、ことばや文字が物に後付けされたのではなく、ことばや文字によって物が規定されるのだと主張した。
つまり、犬、猫、馬、牛という物があって、それ
に名前が付けられたのではなく、「犬」や「猫」ということばが自然界を識別しているのだという。しかも、その名づけ方は恣意的である。「犬」というものは
「イヌ」であっても、dogであってもよい。ドイツ語ではder Hundであり、フランス語ではchienである。中国では犬(quan)であり、朝鮮語ではkaeである。しかし、それらはいずれも「犬」という同
じ動物の名称である。
しかし、名前は物につけられた名称ではなく、名
前こそが物を分類する。例えば日本語や中国語では「牛」は牛だが、英語では「牛」はoxかcowかのいずれかである。ことばが物を分類しているの
である。日本語や中国語では「兄」と「弟」を区別し、「姉」と「妹」を区別するが、英語では兄弟はbrotherであり、姉妹はsisterである。兄と弟、姉と妹を区別しようとする場合はelder brotherとかyounger sisterといわなければならない。しかも、英語では普通my brotherとかmy sisterとだけいうことが多いから、長幼の序が分かりにく
い。
ことばや文字は「シニフィエ」と結びつくことに
よって情報を伝えることが可能になる。つまり、ことばは意味も獲得する。ソシュールは「言語は脳の中にだけある」と明言している。
日本語には出世魚というものがある。ブリは15cmくらいまではワカシと呼ばれ、40cmくらいになるとイナダ、60cmくらいになるとワラサ、90cm以上になるとブリと呼ばれるようになる。生物学的
にはいづれも「ブリ」である。しかし、同じ魚でも成長の早い魚は当年の魚、2年目の魚、3年目の魚では大きさも味もちがい商品
価値も違うので別の名前をつけておいたほうが便利である。
魚の名前は地方によっても違う。
関東:ワカシ→イナダ→ワラサ→ブリ
関西:ツバス→ハマチ→メジロ→ブリ
四国や広島県では「ヤズ→ハマチ→ブリ」の3段階
に分けられているし、北陸などでは「ツバエリ→コズクラ→フクラギ→アオブリ→ハナジロ→ブリ」の6段階の呼び名があるという。魚の別の名前をつけられる
ことによって別の物のみなされる。ソシュールのいうように「ことばが意味を分節する」のである。
この情報化の時代においても、地域によって別の
名前で呼ばれている。それぞれの市場では何の不便も感じていない。国語というものは近代国家の統一によってもたらされたものであり、現在でもひとつの国の
なかに公用語が複数ある多言語国家はたくさんある。ひとつの国のなかにさまざまな方言があっても、その方言を使う人にとっては何の不便もないこともある。
多言語国家では個人はしばしばバイリンガルであり、方言を使う人は標準語も使う人が多い。
ことばや文字は意味と結びつくことによって、はじ
めてことばとして機能する。大人はしばしば辞書を引くことによってことばの意味を確かめる。外国語を習うときなどは辞書は不可欠である。しかし、赤ん坊は
辞書を使わずに母語を覚える。赤ん坊はことばと意味の結合をどのようにして知るのだろうか。
人間は誰でもことばを話す。ことばは人間ととも
にあるともいえる。しかし、生れたばかりの赤ん坊はことばを話すわけではない。ことばは人間に生まれながらにして備わった特質であるが、赤ん坊に歯が生え
てくるように、成長とともにことばを話し、ことばを理解するようになる。生後6~9カ月は喃語期とよばれる準備期間である。生後9カ月から14カ月になると一語文を話すようになる。そして生後
17カ月から26カ月になると二語文が話せるようになる。
ことばの能力は成長とともに伸びていく。目の能
力は日本人でもアメリカ人でも大体同じであると考えられる。しかし、ことばの認知能力は環境によって異なった発達の仕方をする。赤ん坊は世界中の言語がつ
かる様々音声を区別する潜在能力をもって生れる、と考えられる。しかし、その感応力は年齢とともに劇的に失われる、と考えられる。日本語環境のなかで育つ
子どもはvとb、tとthを区別する必要がないから、それを区別する能力は
顕在化することなく失われる。中国語環境に育つ子どもは四声を区別する能力を顕在化させることができる。
日本語環境のなかで育つ赤ん坊は「犬」という動
物が「ワンワン」「いぬ」あるいは「シロ」などを呼ばれるのを何回か経験するはずである。犬を飼っていない家庭でも「ママ」とか「パパ」ということばを聞
くはずである。子どもは辞書をもって生れてきているわけではないから、「パパ」「ママ」「ワンワン」もその意味を理解することはむずかしいはずである。
「パパ」「ママ」「ワンワン」は赤ん坊のなかでは、確定しない何かでしかない。仮にそれをx、y、zとする。何回か繰り返しそれを聞いているうちに「パ
パ」はx、「ママ」はy、「ワンワン」はzへと結びついていく。ことばの使用が意味へと凝固していくのである。内容は使用によって決定される。
記号は同じものに繰り返し使われなければならな
い。交通信号の赤はどこでも「止まれ」であり、青は世界中どこでも「行け」であることによって記号の意味を伝えている。自然言語でも記号は使用されるたび
にその意味が規定されていく。「パパ」は「パパ」に繰り返し使われることによって「パパ」を意味することになる。そして、「パパ」は「ママ」と差別化され
ていく。しかし、「パパ」「ママ」「ワンワン」とx、y、zとの結びつきはあくまでも恣意的であり、「パパ」はxであってもyまたはzであっても何の不思
議もない。「パパ」ということば自体は「パパ」という人の実像とは何の類似性も認められない。
「パパ」といことばは、やがて、うちのパパだけ
ではなく、碧ちゃんちの「パパ」にも、翔太くんちの「パパ」にも使われる名称であることを知る。それに反して「シロ」は家の犬には使われるが碧ちゃんちの
犬には使われないことを知るにいたるにちがいない。 二語文期になると「白い犬」とか、「パパ好き」
とかいえるようになる。人間は言語は話す潜在能力をもって生れてくるからといって、はじめから関係代名詞が使えたり、日本国憲法が読めるわけではない。文
章が理解できるようになるまでには数千時間あるいは数万時間の学習が必要であることも確かである。
文章が理解できるようになると、長い記号列を分
割して句構造に解析できるようになり、疑問文、否定文、受け身などができるようになる。日本語環境で育つ子は日本語の文法を取得し、英語環境で育つ子ども
は英語の文法を無意識のうちに身につける。
1.これは 犬 です。
This
is a dog.
2.これは犬ですか。
Is
this a dog.
3.これは犬ではありません。
This
is not a dog.
1では、日本語は助詞(は)を使い、英語ではbe動詞を使っている。また、英語ではdog に不定冠詞(a)がついている。
2では、日本語では疑問の副助詞(か)を文末に
つけることによって疑問文を表してい る。英語では語順を換えることによって疑問文を
表している。
3では、日本語では文末に否定の助動詞をおくこ
とによって否定を表している。英語で はbe動詞のあとに否定のnotをつけている。
英語と日本語の違いをみただけでも語順がかなり
違う。世界の言語には、日本語のようにS(主語)+O(目的語)+V(動詞)の言語や、英語のようにS(主語)+V(動詞)+O(目的語)の語順のことば
ばかりでなく、ハワイ語などのように動詞が語頭にくることばもある。また、イヌイット語(エスキモー語)や北米インディアンのことばであるモホーク語やナ
ヴァホ語などは単語が極端に長く、単語が5~9もの接辞から成り立っていることも珍しくない。そのような言語は多総合語と呼ばれ、ほとんどの文法関係を動
詞に格標識をつけることによって表す。これらの言語では単語の辞書を作ることも困難である。
しかし、はじめてことばに接する赤ん坊にとって
はどんな言語も想定内のことであり、言語習得の障害になることはない。人はことばの順序を組み換えるだけで異なる意味を作り出すこともできる。また、こと
ばの意味は名詞や動詞の意味に注目するだけでなく、助詞や活用語尾などにもしっかり注意しなければ正しく理解できない。しかし、言語間の違いは一定のパ
ターンの範囲に納まるので、子どもはいくつかのパラメータ(可変部)の組み合わせとして学ぶことができるというのだ。
人間はこのように、いくつかのパラメータを組み
合わせることによって複雑な文章を理解することができる。また、今まで使われたことのないような組み合わせによって創造的な文章を創出することもできる。
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