第151話 話しことばと書きことば
文字言語は音声言語の上にはじめて成り立つもの
で、その逆ではない。話し言葉は人間に生得のものであるのに対し、書きことばは発明されなければならなかった。歴史上発明され文字体系はそう多くないか
ら、発明された文字はさまざまなことばを表記するために借用されていった。漢字は中国で発明されたが、朝鮮半島や日本、中国などで使われるようになった。
パキスタンで話されているウルドウ語とインドで話されているヒンディー語はほとんど同ことばであるのにイスラム教国であるパキスタンではアラビア系文字を
使い、ヒンドウ教国であるインドではインド系の文字が使われている。
世界の文字は大きく分けて、象形文字、音節文
字、音素文字がある。漢字、エジブトのヒエログリフなどは象形文字であるといわれる。しかし、象形だけですべての概念を表すことは不可能だから、漢字も
7、8割がいわゆる形声文字で音を表すための音符がある。 エジプトのヒエログリフでも「クレオパトラ」の
「レオ」の部分にはライオンの絵があてられている。また、「水」は波を三つ描いて表すが、「水」の絵は水と同じ発音である所有格の「の」を表すのにも用い
られている。完全に象形だけでは抽象概念なことを表すことはできない。象形文字というのは文字の起源のことであって、さまざまな形の転用があってはじめて
文字体系として機能する。
音素文字の典型はローマ字である。子音と母音が
分かれていて、子音と母音の組み合わせが自由なので、さまざまな言語の音節を表記することができるという利点がある。
音節文字は日本語の仮名、朝鮮語のハングル、サ
ンスクリット系の文字などである。サンスクリット系の文字では子音を中心にして、そこに母音を表す補助記号をつけて音節を表す。母音がaである場合は補助記号をつけない。例えば、k・ki・ku・ke・ko とあればすべてカ行の音であり、k は「カ」を表す。ハングルもこれに近く、カ行の文
字はすべてk と表記されている。例えば、「カア・カイ・カウ・カエ・カオ」という具合である。それに対して日本語のカタカ
ナやひらがなは「カ・キ・ク・ケ・コ」という文字が同じkという子音をもっていることは文字のうえからは分からない。
漢字も一種の音節文字である。中国語という言語
は単音節・孤立語という類型の言語であるから、一字・一語・一音節という漢字の原理は極めて好都合であった。しかし、日本語は複数の音節で単語を構成し、
名詞には助詞がつき、用言には活用語尾がつくという複音節を基本とする言語だから、万葉集のように漢字だけで日本語を表記することはむずかしかった。そこ
で漢字かなまじり文が使われるようになってきた。
漢字文化圏といわれる地域では、漢字を自国語の
表記に使うためにさまざま工夫が行われてきた。ベトナムでは漢字の意味とベトナム語の音を組み合わせた字喃(チュノム)という文字が作られた。日本独特の
漢字である国字も漢字の構成原理の延長で作られている。榊(さかき)、峠(とうげ)、杜(もり)などである、、、 11世紀には中国の西域、敦煌の近くの西夏国で
西夏文字が作られた。井上靖の『敦煌』にも登場する舞台である。西夏文字は漢字の原理をもとにして作られた西夏語を表記するための文字だが、しだいに表音
的に転用されていった。そして、13世紀に西夏が亡びると文字も使われなくなってしまった。 ベトナムでも字喃は普及せず、1945年阮朝が滅亡とベトナム民主共和国の成立とともに
クオック・グーというローマ字を国字として採用するようになり、漢字を捨てた。 モンゴル人民共和国もまた漢字を捨ててロシア文
字でモンゴル語を表記するようになっていった。 中華人民共和国においてすら、漢字は簡体字が採
用され、小学校の低学年からピンインというローマ字表記を取り入れて、全国で同じ漢字が使われるばかりでなく、子どもたちは全国どこでも漢字の北京音が理
解できるようにする教育が行われている。
朝鮮半島は歴史上早い時期から中国文化を受け入
れ、話しことばは朝鮮語、書きことばは中国語という時代が長く続いた。新羅の時代には日本の万葉集にあたる郷歌(ヒャンガ)を漢字で残している。郷歌では
漢字は音訓まじえて使われている。つまり、音読みと朝鮮語読みがいりまじっていて、さながら日本の万葉集における漢字の使い方のごとくである。 しかし、その後朝鮮半島では漢字は音読みだけに使
われるようになっていった。そして、現在では北朝鮮では漢字は廃止されてハングルだけが使われ、韓国では1000字ほどの漢字は使われているもののハングルを基本
とする表記になっている。
文字はあくまで書かれたものを読む手段であっ
て、意味の理解が究極の目的である。人間のことばに使われている音声は言語によって多様だが、ひとつひとつの言語についてみるとその数は限られていて
100を超えることはない。それに対して意味をあらわす単位である単語は多様で、その数は数万から数十万にも達すると考えられている。意味の単位ごとに文
字をあてはめてゆくためにはおびただしい数の文字が必要になる。音を表記するのに必要な文字の数は100を超えることはない。
日本語の場合を考えても母音が5つ、子音が
「カ・サ・タ・ナ・ハ・マ・ヤ・ラ・ワ」9つで音素は15もあればすむ。音節の数も「いろは」48文字でだいたいはまかなえる。 そこで問題は、その音節をどのように組み合わせて
意味を表すことばにしていくかということになる。自然言語では「単語や文節をきりだす」「文の構造を解析する」「文の意味を理解する」ということが無意識
のうちに繰り返し行われている。
赤ちゃんはある年齢に達すればだれでも一つある
いは数種類のはなしことばを難なく覚えることができる。しかし、文字は人間に生得のものではなく、文明が生み出したものだから学習しなくては覚えられな
い。文字とは聴覚で獲得する情報を視覚で理解でいる情報に置き換えたものであるということもできる。それはたかも、視覚で得られる文字情報を触覚で得られ
る点字の情報に置き換えるような作業である。
文字はどの言語でも通常音声に対して極めて粗雑
にしか対応していない。文字が発明されるためには、人間の頭のなかにある言語に関する知識を発見する必要があった。日本語の仮名は空海や円仁など中国に留
学した僧侶が中国でサンスクリットを学び、ことばには意味をもった最小の単位である単語のほかに「音節」というものがあるということを学び、それを日本語
にあてはめて、はじめて生れた。日本語にもサンスクリットと同じように音節という単位があるということを発見したのである。ことばは有限の音節の結合から
成り立っていて、その結合によって意味の単位である単語を無限に生み出すことができる。
現代の言語学は語彙論、統語論、意味論、音韻論
などの専門分野にわたり発展してきた。計算機による自然言語処理は言語学者のチョムスキーが1957年に提案した変形生成文法などの言語理論によって
発展してきたといわれている。しかし、自然言語をコンピュータに理解させるということになるとまだ分からないことだらけである。比較言語学の発達にもかか
わらす、コンピュータによる自動翻訳などという分野では解決されていない問題のほうが多いとさえいえる。
漢字の研究は中国では古くから行われていたが、
話しことばの研究はほとんど行われていなかった。中国語では原則として一字が一語であるため、漢字の研究は字義の研究でもあった。しかし、音韻の研究とな
ると、詩韻の研究のほかはほとんど行われてこなかった。中国においては文字の研究が主であり、語をなす音韻はむしろ字の符号であるという考え方が支配的で
ある。
日本においても、文字が重んじられた。日本では
公文書や儒教・仏教の書物は長い間漢文で書かれていた。江戸時代には荻生徂徠も頼山陽も書きことばは漢文であり、話しことばは日本語であった。その話しこ
とばも書きことばの影響を大きく受けた。その傾向は明治時代まで続き、夏目漱石も森鴎外も数多くの漢詩を残している。自身で漢詩を作れるということは、漢
詩を自由に読みこなしていたということでもある。日本語の書きことばの原型は漢文によって作られたといっても過言ではない。
杜甫の絶句を日本語にして読み下してみると次の
ようになる。
江碧鳥逾白
江
(こう)は碧(みどり)にして鳥は逾(いよいよ)白く
山青花欲然
山
は青くして花は然(も)えんと欲す
今春看又過
今
(こ)の春も看(ま)のあたりに又過ぐ
何日是歸年
何
の日か是(こ)れ帰る年ぞ
日本語の読み下しをみてみると、漢詩で使われて
いる漢字はすべからく使われている。漢字の自立語(名詞や動詞)はすべて日本語に取り入れられて、それに助詞や動詞の活用語尾などがつく、というのが日本
語の書きことばの原型である。この原則は『論語』の読み下しなどにも取り入れられている。
子曰、學而時習之不亦説乎
子
(し)曰(いわ)く、学びて時に之(これ)を習う
亦
(また)説(よろこ)ばしからずや
有朋自遠方來不亦樂乎
朋
(とも)遠方より来たる有り
亦
(また)楽しからずや
人不知而不愠不亦君子乎
人
知らずして、愠(いきどおら)らず
亦
(また)君子(くんし)ならずや
こうして、意味をもった単語は漢字で表記し、文
法の機能をになう漢字はかなで表記するという原則ができあがった。中国語では漢字で表記する自立語を日本語でも漢字で表記しようとすると、漢字制限はじゃ
まものでしかありえない。しかし、日本では今でも「語をなすのは文字であって、音はその読みに過ぎない」という考え方が強く残っている。たしかに言語が
「歴史」をもちうるのは、言語が「書かれる」からである。しかし、世界の言語の表記法にはさまざまな利点や欠点がある。書かれた文字が解読不能になること
もあり、表記法そのものが捨てられることもある。そして、表記法はことばの変化とともに改良されて生きのびていくこともある。
漢字には同音異義の文字が多い。中国語では声調
によって区別されている読みも、日本漢字音では失われてしまうので、日本漢字音では同音異字がますます多くなる。
①
②
③
④ コ
糊(hū)
壺(hú)
虎(hŭ)
戸(hù) ヒ
非(fēi)
肥(féi)
斐(fĕi)
費(fèi) フ
夫(fū)
浮(fú)
府(fŭ)
父(fù) カ
イ
灰(hūi)
回(húi)
悔(hŭi)
会(hùi) カ
ン
酣(hān)
寒(hán)
喊(hăn)
汗(hàn) カ
ン
歓(huān)
還(huán)
緩(huăn)
患(huàn) ハ
ン
帆(fān)
煩(fán) 反(făn)
飯(fàn) フ
ン
分(fēn)
焚(fén)
粉(fĕn)
糞(fèn)
これらはほんの一例であるが、日本語の表記は長
い歴史のなかで漢字の影響を強く受けている。しかも、漢字の発音をそのまま受け入れるのではなく、日本語の音韻構造に合わせて変形させているので、合理
的、体系的であるとはいい難い。
和語にあてられる漢字の訓も中国語の用法にした
がって書きわけられることがある。
暑い(気温)・熱い(フライパン)、
堅い(↔も
ろい)・硬い(↔や
わらかい)・固い(↔ゆ
るい)、
登る(木や山に)・上る(坂を)・昇る(日が)、
書く(文字を)・描く(図・絵を)、
泣く(赤ん坊が)・鳴く(鳥が)、
また、ほとんど意味は同じなのに二通りの表法が
ある場合もある。
柔らかい・軟らかい(柔軟)、断つ・絶つ(断絶)、現われる・表れる(表現)、
作る・造る(造作)、納める・収める(収納)、聞く・聴く(聴聞)、開く・拓く(開拓)、
映す・写す(映写)、脅かす・威す(脅威)、見る・視る・観る・診る・看る、
当て字といわれても仕方がないものとして百合
(ゆり)、土筆(つくし)、海月(くらげ)、海老(えび)などがある。現在では動植物の名前はカタカナで書くのが原則になっているが、熟字訓といわれるも
のは今でも数多く使われている。
今日(きょう)、明日(あす)、大人(おとな)、下手(へた)、眼鏡(めがね)、
梅雨(つゆ)、時雨(しぐれ)、雪崩(なだれ)、陽炎(かげろう)、紅葉(もみじ)、
田舎(いなか)、土産(みやげ)、老舗(しにせ)、為替(かわせ)、大和(やまと)
これらの漢字は人間にとっても決して使い勝手が
いいとはいず、まして、合理的、機械的にしか動かないパソコンに覚えさせるのは至難の業である。
中国語は漢字一字がひとつの単語だから、分かち
書きはしていないけれども、漢字をつらねても、単語ごとに分かち書きをしているのと同じ効果がある。日本語はいくつかの音節がつらなってひとつの単語を構
成している。名詞や動詞などの自立語は全部漢字で書き助詞や活用語尾を仮名でかくことにすれば、単語や文節の単位が明確になって読みやすい。 しかし、それでは『康熙字典』や諸橋徹次の『大漢
和辞典』にあるように4万字もの漢字を使わなければならなくなる。 漢字制限をしても「憂欝」は「憂うつ」では困
る、ということになる。「うつ」は助詞でも活用語尾でもないからである。
日本語の表記法はそれを覚えてしまった人にはさ
して負担に思えないかもしれない。しかし、これから覚えようとする子ども、外国人、コンピュータなどには大変な負担になっている。漢字仮名交じり文の体系
は、もういちど解析され、再評価される必要があるのではなかろうか。
|