第100話 モンゴル語訳の聖書

 日本語は朝鮮語、モンゴル語などとともにアルタイ語系であるという説が古くからある。モンゴル語の聖書によって、モンゴル語と日本語との比較を試みることにする。(原文はロシア式のキリル文字)

  ヨハネ福音書第1章
   kokhan

1.初めもことばがあった。
      ekhlel     ug                  baisan  ug     burkhan-tai    khamt  baisan 
    はじめ ことば(主格)  あった ことば 仏-(共同格)   ともに あった

 ことばは神とともにあった。
           ba         ug       n      burkan  baisan
   そしてまた ことば(主格) (強調)   仏    であった

  ○ モンゴル語訳では「ことばは神であった」ではなく て、「ことばは仏さまであった」というこ  とになる。burkhanとは「仏・仏陀」でる。キリスト教の神の概念をどのように翻訳するかは、 キリスト教の布教の過程ではしばしば問題になった。韓国語訳でもカトリックとプロ テスタント では違う訳を用いたことは、韓国語訳のところで述べたが、日本でも、宣教師ザヴィエルは「大 日を拝みましょう(大日を拝みあれ)」と説いた。大日とは大日如来のことである。
 モンゴル語は日本語や朝鮮語と同じように、助詞(後置詞)によって単語と単語を糊付けしてい く膠着語的性格もある。urkan-tai-taiは 「と」を表す。
 モンゴル語では主格をあらわす助詞は省略される。例:ug(こと ばは・主格)
 
モンゴル語の語順は主語+目的語(あるいは補語)+ 動詞で日本語と同じである。

2.このことばは、初めに神とともにあった。
      ene   ug      n   ekhleed  burkhan-tai      khamt        baisan.
     この ことば  は はじめに 仏+と(共同格)  共に(後置詞)  あった

   ○ekhleedは「はじめに」、ekhlelは「はじまり」、ekhelehは「始まる」。

3.万物はことばによって成った。
       bukh   zuil         ug-nees         bii bolson
    万  物は
(主格)  ことば+によって(奪格) 成る  

   成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。
    bii bolson  zuilees  ug-gui-g-eer
    成る      もので   ことば+(否定)+によって(具格)

  bii bolson  zuil        neg   ch      baikh-gui.
    成る     ものは(主格)  ひとつ も(助 詞)  存在しない(否定形)

ug-nesseesは 奪格「によって」でug-gui-g-eereerは 具格「によって」をあらわす。
   ○ 
モンゴル語には母音調和がある。格助詞も文法上の性別によって使いわける。例えば、
    男性母音の場合 aas,oos/aar,oor
    女性母音と中性母音の場合 ees,öös/eer, öör となる。
    古代日本語にも母音調和があったといわれている。

  マタイ福音書第6章
   Matai

9.だから、こう祈りなさい。
       tiim  uchraas  ingej      zalbir 
    だから      このように 祈る  

   『天におられるわたしたちの父よ、
    tengert baigaa    bidnii    etseg 
    天   おられる   われわれ-の   父 

   御名(みな)が崇められますように。
    mini     tanii   ner   ariunaar  duursgagdag.
    私たち-の  あなた-の 名前   神聖として 有名にする

  ○tegej=そのように、(ingej=こ のように)、zalbarikh=祈る、 tenger=天、baih=あらしめよ (命令)、bidnii=われわれの、 etseg=父、mini=1人称代名詞所有格・私の、tanii =あな
 たの、ner=名前、名声、ariun=清 い、神聖な(ariun=非常に清浄な)、duursgah=有 名にする こと、

 tengert「天」はチュルク語からの借用語である。モンゴル語はチュルク語との関係が深いとい われている。

10. 御国(みくに)が来ますように。
    tanii    khaanchlal irekh    boltugai 
    あなた-    治世     来 る(未来形)   ように

   御心(みこころ)が行なわれますように、天におけるように地の上にも。
    Ariun  setgel tengert orshih   gazar deer biyelegdekh  boltugai.
    神聖な 天     のように 地上-に   実現され(未来形・受身)   ますように

      khaanchlakh=治世(khaantai=皇帝=汗)irekh=来る、bolutugai=bolox「に なる」の命令 形「でありかし」、küsel=希 望、tani=あなたの(2人称代名詞所有格)、tangert=天、   shig-=のような、gazar=土 地、地上、deer=上に、biyeleh=実 現する、biyelegdekh=実現さ れる、
   khaanchlalは「王としての振る舞い」を意味することばである。khaanは ジンギスカンなどの汗(カン)でモンゴル語では王を意味する。

  11.わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
     udur tutmiin  mini   hunsiig  onoodor bidend  ogooch.
 
      毎日        私-の   パン-を   この日   我々-に   与えて-ください

  ○udur=日、 tutum=毎、(udur tutum=毎日)、mini=1人称所有格「私の」、talkan=パン、  ene=この、bid-en=我々、ogokh=与える、
   
モンゴル語では代名詞に格表示があるばかりでなく、名詞も格を表示することができる。    talkanは「パン」であるが、それに-gをつけて目的格「パンを」を表す。所有格の場合は-nを  つける。

12. わたしたちの負い目を赦してください、
    bidnii  gem zemiig uuchlaach      adil
    我々-の 罪-を     許してください   同様に

   わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
     Bid ch   gem zemtei  huniig  uuchlasan shig
    我々-も  罪のある   人を 許した   ように

  ○bid=我々、gem zem=罪、öri-n=借金、üüchlakh=赦す、adal=同 様に、bidnii=我々の(1人 称複数代名詞所有格包括形)、mön=[間投詞]然り、その通り、 uuchlaach=赦す、
 
ここでも、gem zem「罪」に-gをつけることによって目的格を表している。

13. わたしたちを誘惑に遭わせず、
    bidniig hudal huurmagaas hol bailgaj 
    われわれ-を    誘惑     遠くにさせて

   悪い者から救ってください。
    muu  hunees   avraach.
    悪い   人-から    救って-ください 

 bidnii=我々の(包括形)、 sorilt/sorilgo=試練、hudal huurmag=試練、嘘、buu=禁     止の 助辞、oruulah-=入 れる(oroh=入る)、kharin=し かし、 buzar=穢れた、muu=悪    (muugaas=  悪から[奪格])、 avrah=救う(getül-gex=[他 動詞]


    国の力と栄えは、とこしえに、あなたのものですから。アーメン
 Uchir  n   khaanchlal khuch chadal aldar  sur   taniikh  amyen.
   こと (受身) 治世     力  才能   名声    威 光  あなたの  アーメン

  ○uchir=事実、状態、 n=3人称代名詞の受身形・古い形、khaanchlakh=治世、khuch=力、    chadal=能力、才能、 aldar=名 声、sur=威光、taniikh= あなたの
○モンゴル語では名詞の格表示によって目的格(-g)や所有格(-n)、 奪格(-s)を示すこともできる が、日本語と同じように助詞(後置詞)によって関係を示すことも多い。ここで取り上げた例文 のなかでも、khamt(と 共に)、deer(上に)、などが使われている。
○複数の表示は英語などのように義務的ではないが、文法上複数を示す形式がある。この点は日本 語とは異なる。しかし、モンゴル語は日本語、朝鮮語などと ともに膠着語に属するといえる。

参考文献:小沢重男『現代モンゴル語辞典』大学書林
              Bawden”Mongolian-English Dictionary”Kegan Paul International

 なお、モンゴル語の解釈についてはダシニャム・ オランマンダハさんの協力を得た。モンゴル語の特徴を日本語、朝鮮語と較べてみるとつぎのようになる。

○日本語と同じ特徴: ●日本語と異なる特徴

[日本語]                       [モンゴル語]   [朝鮮語]
 語順は主語+目的語+動詞が基本である。         ○      ○
 助詞(後置詞)で語と語の関係を示す。         ○       ○
 母音調和がある。                   ○       ○
 rで始まる音節はない。                ○       ○
 rとlの区別がない。                 ●      
 疑問の標示は文末にくる。               ○       ○
 名詞には文法上の性はない。              ○       ○
 名詞に単数・複数の区別はない。            △       ○
 名詞には冠詞はつかない。               ○       ○
 1人称代名詞に包括形と除外形の区別なない。      ●       ○

 モンゴル語の文法は日本語の文法とかなり多くの特徴を共有している。朝鮮語と共通の特徴も多い。日本語や朝鮮語がアルタイ系言語ではないかといわれる所以である。

モンゴル語の名詞は複数を示すこともあるが、義務的ではない。代名詞に単数・複数の別があり、1人称複数(所有格)には包括形と除外形の区別もみられる。1 人称複数に除外形と包括形の区別のある言語はモンゴル語ばかりでなく、アイヌ語、チャモロ語、タミル語などにもみられる。除外形は話し相手を含まない「我 々」であり、包括形は話し相手を含む「あなたと私」を表す。モンゴル語の人称代名詞はつぎのように変化する。

 

1人称

(単数)

1人称複数

(除外形)

1人称複数

(包括形)

2人称

(単数)

2人称

(複数)

3人称

(単数)

3人称

(複数)

主格

bi

bid

bid

ta

ta nar

ter

ted nar

所有格

minii

manal

bidnii

tany

tanai

tuunii

ted naryn

 モンゴル語はrとlの区別がある、1人称代名詞に包括形と除外形の区別があるなど、日本語とは違った特徴はあるものの、安定した語幹に、接尾辞や助詞がついて単語を連 ねて行く膠着的構造など文法構造は朝鮮語、日本語にきわめて近い。モンゴル語はアルタイ系言語とされており、その意味では日本語も朝鮮語もその構造はアル タイ系言語に近いということになる。もし、日本語がアルタイ系言語ではないということになると、そもそも言語の系統とは何か、どこまで共通の特徴をもって いれば同系統といえるのか、という根本的な問題につきあたることになる。

同じインド・ヨーロッパ語族の言語といっても英語とフランス語では語彙も文法構造もかなり違う。ラテン語、ギリシャ語になるとさらに違う。それにもかかわら すインド・ヨーロッパ語族をひとつの語族として成り立たせているのは、インド・ヨーロッパ諸語の歴史がかなり古い時代まで遡ることができ、それらの言語の 分岐してくるようすが歴史的にたどることができるということではなかろうか。それに対してアルタイ系というわれる言語が文字記録に現われるのは、いずれも 遅く、千年以上の歴史をたどれる言語はきわめて少ない。したがって、歴史上それらの諸語がお互いに、いつの時代に、どのように分岐してきたのかが明らかに できないという点にあるように思われる。モンゴル語、朝鮮語、日本語の分岐は、それぞれの言語が文字時代に入る前に行われてしまっていたのであろう。

もくじ

☆第86話 日本語の系統論

★第99話 朝鮮語訳の聖書

★第106話 日本語と近いことば・遠いことば