第256話 万葉集のなかの外来語
国語学者の大野晋は日本古典文学大系(岩波書
店)
のなかの『万葉集』を担当したが、その感想をつぎのように書き記している。
漢字の字音については頼惟勤氏、朝鮮語について
は
張暁氏に示教を仰いだところがある。これらの方々にあつく感謝の意を表したい。 朝鮮語といえば、第一冊に、朝鮮語と日本語との
間
で、同源と思われる単語四十たらずを揚げたところ、大いに歓迎された向きもあり、また、無用の長物として非難排斥される向きもあった。日本語の語源は、と
かく不明のまま放置されやすいので、多少なりと、確実と思われるものを提示することは無意味なこととは思わない。それにわずか四十語ほどの記載がそれほど
の関心を呼ぶものとも私は思わなかった。その後『日本語の起源』(岩波新書)を書く機会が与えられ、旧作を書き改めたことがある。私はその中に、手持ちの
朝鮮語と日本語との対照の語彙を表示したので、それからは朝鮮語を万葉集の中に書き込むことを、あまりしないように心がけた。(日本古典文学大系第7巻附
録(月報59)より)
この文章は昭和37年にに書かれたものである。日
本人のなかには、万葉集のような日本を代表する古典のなかに、朝鮮語と語源を同じくすることばが点在するということはあってはならないことだ、「やまとこ
とばは純粋である」と考える人がかなりいる。しかし、日本の歴史は、時代を遡ればさかのぼるほど、中国文化や朝鮮半島の文化との接触によって、国際化のな
かで形成されていることがわかる。
|