第186話  とら(虎)の語源

 
【とら(虎)】
韓 国(からくに)の虎(とら)とふ神を生取りに八頭(やつ)取り持ち來(き)その皮を畳に刺し、、、(万3885)
吹 き響(な)せる小角(くだ)の音も敵(あた)見たる虎(とら)か吼ゆると諸人(もろびと)のおびゆるまでに、、、(万199)  

 古代中国語の「虎」は虎[xa]で、その吼える声によって虎[xa]と呼ばれたものと思われる。日本漢字音は虎(コ・ とら)であり、吼える声にも似ていないし、中国語とも似ていない。虎は日本にはいない動物だから、日本に「とら」と いう「やまとことば」があったとは考えにくい。朝鮮漢字音では「虎」は虎(ho)である。朝鮮語では「とら」は(ho-rang-i)である。 

『和名抄』では「虎 説文云 虎(乎古反、和名止 良)山獸之君也。」とある。「乎古反」とあるのは反切のことで、頭音が「乎」で母音が「古」であることをいっている。新井白石は『東雅』では次のように記 している。 

虎  トラ 義不詳。虎はもとこれ此国の獣にあらず。貂㹦をテンといひ、黒貂をフルといひ、水豹をアザラシといひ、羊をヒツジといふがごとき、並に海外の方言 によりしもしるべからず。 

 大槻文彦は『言海』のなかで「虎」の語源について 考察している。 

と ら (名)[]  朝鮮語ナラムカ、人ヲ捕ル意ノ名トイフハイカガ。或云、支那ニテ楚人、虎ヲ於菟(オト)トイフ、於ハ發聲ニテ(越の於越ノ如シ)其菟ヲ傳ヘテ、らノ助語ヲ 添ヘテイヘルナリト云。此説モ附會ナラムカ。猛獣ノ名、亞細亞大陸ニ多シ。高サ三尺許、長六尺許、大ナルハ丈許、頭猫ニ似テ體ニ比ブレバ小ク尾長シ。獅ニ 次ギテ猛クシテ、他獸ヲ捕リ食フ、背ノ毛黄赤色ニシテ、遍ク太キ黑線アリテ美シ。コレヲ虎斑(トラフ)トイフ。敷物ナドトシテ珍トス。面、喉、腹下、色白 シ 

 新井白石は朝鮮 通信使の接待役などをしていたはずであるが、対話は漢文による筆談で漢詩の応酬などをしていたようであり、朝鮮語の「虎」についての記述はない。大槻文彦 は朝鮮語について言及しているが、その朝鮮語を調べた形跡はない。「楚の国では虎のことをオトというそうだが、オは接頭辞で、虎はトであろう。ラは助語で ある。」という、いかがであろうか。 

 日本語の「とら」は現代北京語の虎(hu)にも朝鮮語の虎(ho-rang-i)にも似ていない。むしろ英語のtigerに似ていないだろうか。英語のtigerはラテン語のtigris、ギリシャ語のtigrisなどと同源で、フランス語ではtigreであり、そのまた源は古ペルシャ語のtigraだという。

 Tigraは「矢」の意味で矢の如く早く走るからだと言われ ている。チグリス・ユーフラテス河の「チグリス」も矢のような流れからそう呼ばれているようである。語源研究はむずかしい。大槻文彦のことばを借りれば 「いかが」としか言いようがない。

 【とり(鳥)】
か き霧(き)らし雨の零(ふ)る夜(よ)を霍公鳥(ほととぎす)鳴きて去(い)くなりあはれその鳥(とり)(万1756)
古 (いにしへ)に戀ふる鳥(とり)かも弓絃葉(ゆづるは)の御井(みゐ)の上より鳴き渡りゆく
(万111)
 

 古代中国語の「鳥」は王力によれば鳥[nyu]である。現代の北京語では鳥(niao)でウミネコの鳴き声に似ている。ちなみに「猫」の 古代中国語音は猫[miô]であり、これも鳴き声からきているのであろう。日 本漢字音は鳥(チョウ・とり)である。董同龢は『上古音韻表稿』で「鳥」の上古音を鳥[tiog]と再構している。日本語の「とり」は中国語の上古 音の痕跡を留めている。

【とる(取・執)】
開 (さ)かざりし花も咲けれど山を茂(しげ)み入りても取(と)らず草深み執(と)りても見ず、、、(万16)
伊 勢の海の白水郎(あま)の嶋津が鰒玉(あはびたま)取(と)りて後(のち)もか戀の繁(しげ)けむ(万1322)  

 古代中国語の「取」「執」は取[tsio]、執[tiəp]である。「取」と同じ声符をもった漢字に撮[tsuat]がある。また「執」と同じ声符をもった漢字に贄[tjiet]がある。台湾の音韻学者董同龢は「取」の上古音を 取[tshug]*と再構している。取[tuat][tiuat][tsiuat][tsio]のような変化をしたのではあるまいか。摩擦音化す る前には取[tuat]のような入声韻尾があったと想定することができ る。
また「執」の韻尾
[-p]も贄[tjiet]の韻尾に近い音だったのではなかろうか。日本漢字音では「執」は執(しつ)である。朝鮮漢字音では中国語の韻尾[-t]は規則的に[-l]に転移する。古代日本語も同じような傾向をもって いたと考えられる。  

 日本語のタ行音は古代中国語と対応関係がみられ る。古代日本語のタ行音は古代中国語音が摩擦音化する以前(サ行音になる以前)の上古音の痕跡を留めたものがある。また、古代中国語音が口蓋化する以前の 上古音の痕跡を留めたものがある。 

 1.古代中国語の頭音が[t-][d-][th-]であったもの。

   田[dyen]た、竹[tiuk]たけ、丈[diang]たけ、段[duan]・壇[dan]たな、店[tyəm]たな、
   種
[doing]たね、塔[təp]たふ、渟[dyeng]たまる、塵[dien]ちり、冢[tiong]つか、著
   
[tia/diak]つく、築[tiuk]つく、土[tha]・地[diet]つち、槌[diuəi/duat]つち、
   椎
[diuəi][duat]つち、釣[tyô]つり、遂[thiok]とぐ、殿[dyən]との、通[thong]・徹[diat]
   とほる、黨
[tang]とも、燈[təng]・燭[tiok]ともす、取[tsio/tuat]とる、執[tiəp]とる、

 2.古代中国語音の頭音が獨音である場合、語頭に清音を添加することがある。

   直[diək]ただ、但[dean]ただ、畳[dyəp]たたみ、筒[dong]つつ、傳[diuen]つたふ、停
   
[dyeng]・留[liu]とどまる、續[ziok]つづく、

 3.古代中国語音が[tz-][dz-]の場合、摩擦音化以前の上古音の痕跡を留めていることがある。
   中国では7世紀のはじめに
[-i-]介音の発達により[t-][d-][tzi-][dzi-]に変化した。日本 
   漢字音では訓がタ行で上古音の痕跡を留めているものがある。

   絶[dziuat/duat] (たつ・ゼツ)、足[tziok/tok] (たる・ソク)、津[tzien] (つ・シ
   ン)、漬
[dziek] (つく・ジ)、作[tzak](つくる・ゾウ)、造[tzuk] (つくる・サク)、
   集
[dziəp/[dəp](つどふ・シュウ)、床[dziang/dang] (とこ・ショウ)、取[tsio/tuat]
   (
とる・シュ)、寺[ziə/dək] (てら・ジ)、

 4.古代中国語音が口蓋化音である場合、日本語の訓は口蓋化以前の上古音の痕跡を留めていること がある。

  楯・盾[djiuən/duət] (たて・ジュン)、垂[zjiuai/duat] (たれる・スイ)、出[thjiuət/thuət]      ((い)づ・シュツ)、束[sjiok/tok] (つか・ソク)、舂[sjiong/dong] (つく・
  ショウ)、常
[zjiang/dang] つね・ジョウ)、手[sjiu/tu] (て・シュ)、照[tjiô/tô]
  (てる・ショウ)、時[zjiə/dək] (とき・ジ)、説[sjiuat/thuat] とく・セツ)、
  常
[zjiang/dang] (とこ・ジョウ)、苫[sjiam/tam] (とま・セン)、

5.古代にほんごには[l-]ではじまる音節がなかったため中国語の[l-]は日本語では[t-]に転
  移した。

    瀧[liong]たき、嶺[lieng]たけ、龍[liong]たつ、立[liəp]たつ、粒[liəp]つぶ、列[liat]・連[lian]
    つらぬ、剣
[liam]つるぎ、利[liə]とし、停[dyeng]・留[liu]とどまる、
 
 

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