第129話 朝鮮半島からの道

 万葉集の漢字音は唐代の中国語標準音に忠実なだけでは甦らせることはできない。すでに万葉集冒頭の雄略天皇の歌でも検証した通り、江南地方の音に依拠したと 思われるものもある。また、朝鮮漢字音の影響も顕著である。漢字が日本へもたらされたのは朝鮮半島を経由してのことであり、当時の史(ふひと)は朝鮮半島 出身者であった。しかし、従来の万葉集の研究では朝鮮語の影響はほとんど無視され続けてきた。万葉集の声を甦らせるためには、朝鮮漢字音の特徴を考慮する ことが不可欠である。( )は現代朝鮮漢字音を示す。

    朝鮮語にはラ行音ではじまることばはない。

朝鮮語では古代中国語の来母[l-]ではじまることばが規則的に脱落する。古代日本語にもラ行音ではじまることばはなかった。万葉集ではラ行音は、わたり音(i介音)をともなった場合は脱落し、それ以外の場合はナ行に転移する。

[liang]やな、 柳[liu]やなぎ、 陸[liuk]おか、 良[liang]よい、 浪[lang]なみ、

浪の朝鮮漢字音は浪(nang)である。

    朝鮮語には鼻母音[ng-]ではじまることばはない。

古代日本語にもカ゜行ではじまることばはなかったので、中国語の疑母[ng-]は語頭では脱落する。

[ngai]あ、吾([nga]あ、岳[ngak]おか、魚[ngia]うお、御[ngia]お、

これらの語の朝鮮漢字音は我(a)、吾(o)、岳(ak)、魚(eo)、御(eo)である。日本語の顎も朝鮮漢字音は顎(ak)であり、朝鮮漢字音を継承しているといえる。

    朝鮮語には中国語の日母[nj-]にあたる音ではじまることばはない。

中国語の日母[nj-]は朝鮮語では語頭では規則的に脱落する。

[njiat]あつい、若[njiak]わかい、弱[njiôk]よわい、柔[njiu]やわら、入[njiəp]いる、

これらの語の朝鮮漢字音は熱(yeol)、若(yak/ya)、弱(yak)、柔(yu)、入(ip)である。また、「弥」の正音は弥(み)とされているが、弥栄「いやさか」などとして使われ、人名で弥太郎「ヤタロウ」と読むのも、[m-]の頭音が口蓋化して/nj-/になり、さらに脱落して/j-/となったものであろう。

    朝鮮語では、中国語の韻尾[-t]は規則的に[-l]に転移する。

現代の朝鮮語でも地下鉄(ji-ha-chol)、万年筆(man-nyeon-pil)である。また、祓(pul)、払(pul)、擦    (chal)、刷(sal)、越(wol)なども日本語の発音に影響を与えている。

祓(はらう)、 払(はらう)、 擦(する)、 刷(する)、 越(こえる)、 

日本語のなかには韻尾の[-n]がラ行音であらわれるものもみられる。

韓(から・カン)、 漢(から・カン)、 雁(かり・ガン)、 昏(くれ・コン)、
 玄(くろ・ゲン)、 塵(ちり・ジン)、 鍼(はり・シン)、 榛(はり・シン)、
 辛(からい・シン)、散(ちる・サン)、 嫌(きらう・ケン)、怨(うらむ・エン)、

万葉集では真珠は「しらたま」である。日本の古地名などにも同様の例がみられる。 

駿河(するが)、 敦賀(つるが)、 平群(へぐり)、 播磨(はりま)、
 敏馬(みぬめ)、 訓覇(くるべ)、 群馬(くるま)、 新羅(しらぎ)、

    末音添記

  新羅の万葉集ともいわれる郷歌(ヒヤンガ)には末音添記という表記法がしばしば用いられてい  る。例えば夜は朝鮮語で夜「パム」だが、これを音読ではな く訓読させるために「夜音」と「音」 を添記しる。また、月「タル」を訓読させるために「月羅」と書く、川「ナリ」は「川理」と書く などである。(参 照:梁柱東『古歌研究』一潮閣、ソウル)

 万葉集に用いられている香具山や楊奈疑、日本の古地名の表記にみられる甲斐、揖保、伊良虞、英 虞、なども香[xiang] 、楊[jiang] 、甲[keap] 、揖[iəp] 、良[liang] 、英[yang] の韻尾が音便化して、 香「コウ」、楊「ヨウ」 、甲「コウ」 、揖「ユウ」 、良「リョウ」 、英「エイ」となり、一字  では香「かぐ」、楊「やぎ」、甲「かひ」、揖「いぼ」、良「らご」、英「あご」、と読めなく  なってしまったために末音を添 加したものである。

    万葉集には朝鮮語の語彙も使われている。

(ki)き、日(hae)ひ・か、海(pada)わた、水(mul)みず、足(tal)たる、朝(achim)あさ、

○ 「城」という字は万葉集では46回使われているが、熟語で平城と書いて平城「なら」とよませてい るほかは全部城「き」である。城「しろ」も城「ジョウ」も一回もない。李基文は『韓国語の歴  史』のなかで「百済語で『城』を意味す る語が、kї(己、只)であったことは確実である。」   (p.48)としている。城「き」は朝鮮語であろう。

○「日」も万葉集では日「ひ」「か」であり、日「ニチ」と読まれることは一回もない。朝鮮語で日 は日(hae)である。朝鮮語には日本語にない喉音があり、日本語ではハ行またはカ行であらわれ  る。

○「海」朝鮮語では海(pada)である。万葉集の枕詞「わたつみの」は海にかかるまくらことばであ  る。「わたつみの」は「わた(朝鮮語の海)つ(助詞「の」)み(海)の」である。朝鮮 語では両 点という読み方がかなり広く行われていて、朝鮮語とそれに相当する中国語を併置する。「わたつ みの」も朝鮮語の「海」と中国語の「海」を併置した 両点を援用したものである。 

○「水」朝鮮語では水(mul)である。 

○「足」は万葉集では足(たる、あし、あ)に使われている。足は朝鮮語ではtariである。大野晋  『日本語の起源(旧版)』のなかで朝鮮語の足はpalであり日本語の脛(はぎ)にあたるとしてい る。

○「朝」は万葉集では朝(あした、あさ)である。朝鮮語の朝は朝(achim)である。大野晋は日本語 の朝も朝鮮語の朝(achim)と関係のあることばだとしている。

 大野晋は岩波の「日本古典文学大系」万葉集の言語学的解説を担当したが、その時の感想を「日本古典文学大系」配本の月報59(昭和37年5月)につぎのよう記している。

  「朝鮮語といえば、弟一回に、朝鮮語と日本語の間で、同源と思われる単語四十たらずを掲げたと ろ、大いに歓迎された向きもあり、また、無用の長物として 非難排斥される向きもあった。日本  語の語源は、とかく不明のまま放置されやすいので、多少なりと、確実と思われるものを提示する ことは無意味なこと とは思われない。それにわずか四十語ほどの記載がそれほど関心を呼ぶものと も私は思わなかった。その後「日本語の起源」(岩波新書)を書く機会が与えら れ、旧作を書き改 めたことがある。私はその中に、手持ちの朝鮮語と日本語との対照の語彙を表示したので、それか らは朝鮮語を万葉集の中に書き込むこと を、あまりしないように心がけた。」 

  万葉集には朝鮮語から借用した語彙がいくつか紛れ込んでいるだけではない。万葉集を記した史(ふひと)は朝鮮半島の出身であり、朝鮮語の音韻体系に準じて漢字を使ったり、末音添記、両点などの書記法、修辞法も用いている。

もくじ

☆第130話 やまとことばの成立