第124話 万葉集のはじまり

 万葉集巻1の最初の歌は雄略天皇の歌である。この歌が雄略天皇の書いた漢字の姿をそのまま留めているかどうかは定かではないが、万葉集の巻1と巻2は万葉集のなかでもかなり早い時期にその原形ができた ものであることは定説となっている。

 泊瀬朝倉宮に天の下知らしめしし天皇(すめらみこと)の代(みよ)大泊瀬稚武天皇天皇(すめらみこと)の御製歌(おほみうた)

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みふ串持ち 
 この岳(をか)に 菜(な)摘ます児(こ) 家聞かな 告(の)らさね
 そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて
 われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも名をも
(万1)

 この原文は全部漢字で次のようになっている。

泊瀬朝倉宮御宇天皇代 大泊瀬稚武天皇

天皇御製歌

籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 美夫君志持 此岳尓 菜採須児 家吉閑名 告紗根
 虚見津 山跡乃国者 押奈戸手 吾許曾居 師吉名倍手 吾己曾座 我許背歯 告目
 家呼毛名雄母

 ここに使われている漢字を解読することによってはじめて万葉人のことばを現代に甦らせることができる。参照:[ ]は 古代音、/ /は唐代音、( )は現代音をあらわす。

  籠(こ):
 普通「籠」は音が籠「ロウ」、訓が籠「かご」とされ、漢和辞典にもそのように書いてある。籠   (こ)もやまとことばなのだろうか。
『万葉集歌句漢字総索引』によると、「籠」は万葉集のなか で6回使われているが、射等籠荷四間乃(万23いらごのしまの)、鳥籠之山有(万478とこのやま なる)、田籠之浦乃(万3205たごのうらの)などいずれも読み方は籠「こ」・「ご」である。漢  字 には同じ音符号をカ行とラ行に読み分けるものが数多くある。

  裸・課、 洛・格、 藍・監、 李・季、 練・諌、 簾・兼、 涼・京、

 スウェーデンの言語学者Bernhard Karlgren(1889-1978)は、古代中国語には[l-] の前に子音があっ  て、古代中国語音は籠[klong] だったのではないかと考えた。頭音の[k-] が失われたものがラ行に なり、[k-] の痕跡を留めているものがカ行になったというわけである。日本語にも音がラ行で、訓 がカ行のことばがいくつかある。

  籠(ロウ・かご)、 栗(リツ・くり)、 辣(ラツ・からい)、 来(ライ・くる)、

 籠「こ」あるいは籠「かご」は古代中国語音の痕跡を留めているのであり、籠「ロウ」は隋唐の時 代以降の発音に依拠している。現代の中国語でも古代中国語音の痕跡を留めている方言がある。呉 音の故地、上海音では籠(ɦlong)であり、語頭に入りわたり音が聞かれるという。(宮田一郎編著  『上海語常用同音字典』光生舘)

  君志(くし):
 君志は串の音表記である。「君」は万葉集のなかで
528回使われている。「君」は君「きみ」と読 むのがほとんどであり、君「く」と読む例は、知跡言莫君二(万97しるといはなくに)、都久紫 能君仁波(万866つくしのくには)など13例 ある。万葉集には「君」を君「クン」と読む例はひと つもない。万葉集の時代の日本語にはまだ撥音便「ン」はなかったので「君」は君「く」と読む  か、 君「きみ」のように母音をつけて読むかのいずれかであった。この歌でも閑「か」、津「つ」 などはいずれも韻尾が脱落している。
 大野晋は岩波の『日本古典文学大系』のなかで「ふくし―土を掘る道具。クシは朝鮮語
kos(串) と同源」としている。手元にある韓国語の漢字辞典で「串」をひいてみると串①kwan、②kosとあ る。韓国語の漢字には訓読みはないから串kosも漢字の読み方のひとつとして取り扱われていると みなければならない。日本語の串「くし」は串の朝鮮語音に依拠しているといえる。

  岳(をか):
 岳の古代中国語音は岳
[ngək]、朝鮮漢字音は岳(ak)であり、日本語の岳「をか」は朝鮮半島を経由 して入ってきた中国語である。朝鮮漢字音では語頭の[ng-]が脱落する。魚(eo)、顎(ak)、御(eo)、我  (a)などは朝鮮半島を経由して入ってきたものである。辞書は文字の規範を示すものだから中国語 の正音以外は中国語音とは認めないが、魚「うお」、顎「あご」、御「お」、古代日本語の我あ」 などは漢字の朝鮮語音である。

  吾・我(われ):
 吾
[ngai]は呉音が吾「グ」、漢音は吾「ゴ」であり、訓は吾「われ」であるとされている。我[ngai] は呉音・漢音ともに我「ガ」であり、訓は我「われ」であるという。吾、我は中国でも日本でも1 人称をあらわす名詞である。意味がおなじであり、発音に対応関係があれば、それらの語は同源で ある可能性がある。
 万葉集では吾は吾「あ」「わ」「われ」「あれ」に使われ、我は我「あ」「わ」「われ」「が」に 使われている。「吾」、「我」は頭音がいずれも鼻濁音の疑母
[ng-]である。朝鮮漢字音では語では 吾(o)、我(a)である。朝鮮語では疑母[ng-]が語頭にくることはない。古代日本語も濁音が語頭にく ることはなかった。だから、中国語の疑母[ng-]は規則的に脱落して吾「あ」、我「あ」となった。 人称名詞に外来語が使われえることはありえないのではないかと思うかもしれないが、現代日本語 の「僕」も元をただせば中国語である。教育勅語などに使 われていた天皇をあらわす「朕」も中国 語からの借用語である。

  児(こ):
 「児」は呉音が小児科の児「ニ」であり、漢音は児童の児「ジ」である。古代中国語音は児
[njie]で あるとされている。万葉集では「児」は206回使われているが、児「ニ」あるいは児「ジ」と読む 例は1例もない。児は児「こ」専用の漢字である。
 児
[nj-][ng-]に音が近く、睥睨「ヘイゲイ」などのようにガ行であらわれる場合もある。王力は  『同源字典』のなかで、児[njie]は倪[ngye]などと同源であるとしている。中国語の日母[nj-]と疑母   [ng-]はいずれも鼻音であり、調音の方法が同じである。調音の方法が同じ音は転移しやすい。

  名(な):
 「名」は呉音が名「メイ」、漢音が名「ミョウ」、訓が名「な」とされている。古代中国語音は名
  [mieng]である。万葉集では「名」はすべて名「な」と読まれている。名「ミョウ」あるいは名  「メイ」と読まれる例はひとつもない。
 日本の古地名などでも、中国語の韻尾
[-ng]が脱落したものが多い。

   奈良、 信濃、 美濃、 安房、 諏訪、 安芸、 能登、 甲斐、 香具山、

 「名」が中国語の名[mieng]は韻尾が脱落したものだとしても、日本語でなぜマ行ではなくナ行で あらわれないのだろうかという疑問が残る。[m][n]はいずれも鼻音であり、調音の位置も近い。 調音の方法や調音の位置が同じ音は転移しやすい。中国語音の[m]が日本語で[n]に転移したと思わ れる例はかなりある。

  苗[miô]「なえ」、猫[miô]「ねこ」、無[miua]「ない」、眠[myen]「ねむる」、鳴[mieng]「なく」、

 これらはみな中国語のわたり音(介音)[-i-]あるいは[-y-]を伴うものばかりである。中国語の語頭の  []はわたり音の影響で[]に転移することがあったものと思われる。

  津(つ):
 「津」の古代中国語音は津
[tzien]である。日本語の津「つ」は韻尾の[-n]が脱落したものであろう。 万葉集の漢字音は呉音であるといわれている。呉音の故地である現代の上海語では韻尾の(-n)が脱 落することが多い。万葉集で使われている難「な」、天「て」辺「へ」、田「た」、帆「ほ」など は上海語音の難(na)、天(ti)、辺(bi)、田(di)、帆(vai)を継承しているといえる。津「つ」も津「シ  ン」の韻尾が脱落したものであろう。日本の古地名でも中国語の韻尾[-n]が脱落した例が多い。

  摂津、 飛騨、 安曇、 安宿、 因幡、 仁多、 隠岐、 額田、 山辺、

  目(め):
 白川静の『字通』によると、目
[miuk]は眸[miu]と声近く、目の瞳の部分を眸というとある。「目」 は呉音が目「モク」、漢音が目「ボク」、訓は目「ま」・「め」とされている。目、眸はお互いに 音義ともに近い。「眼」もまた「目」に近い。上海語の字 典でしらべてみると「眼」の上海語音が眼  (ngai)である。江南地方の発音では韻尾の-nは弱い。「眼」の語頭音[ng-]は鼻音であり、調音の方 法が[m-]と同じである。日本語で芽「め」も中国語原音は芽[ngea]である。日本語の目「め」は古 代江南地方の眼[ngai]を借用したものと考えてまちがいないだろう。
  日本語の目「め」は日本古来のやまとことばではなくて、中国語の「眸」や「眼」と同族をなすこ とばである。日本と中国との交流は弥生時代稲作の渡来とと もにはじまり、万葉集が成立した8世 紀にはすでに千年の歴史の歴史を積み重ねていたと考えることができる。古代日本語もその影響を うけなかったはずは ない。万葉集には唐の都の標準音ばかりでなく、江南地方の中国語音や、隋唐 時代以前の中国古代音の影響、朝鮮語音の痕跡がみられるのは当然といわなけれ ばならない。

  手(て):
 手の古代中国語の推定音は手
[sjiu]である。現代上海語音は手(sou)、朝鮮語音は手(su)である。しか し、万葉集では「手」は手「て」であって手「シュ」という読み方は一度も行われていない。
 手と同じ音符を持つ漢字には拿「だ」がある。また、同じ漢字文化圏のベトナムでは手
(thu)であ  る。ベトナム語では首・取・守・受(thu)である。ベトナム漢字音が越の国の古い中国語音の痕跡を 残しているとすれば、日本語の手「て」は現在ベトナムに伝わる漢字音の末裔である可能性があ  る。日本語は中国語の正音ばかりでなく、漢字文化圏のなかのさまざまな漢字音の痕跡を継承して いる可能性がある。

 津「つ」がサ行の津「シン」でなく、タ行音の痕跡を留めているように、手「て」もサ行音の手  「シュ」ではなく、タ行音の痕跡を留めているのではなかろうか。古代のタ行音がわたり音[-i-]の 影響でサ行に転移したと考えられる例はほかにもある。

   散「ちる・サン」(tan) 辰「たつ・シン」(than)、 盾「たて・ジュン」(thuan)
  束「つか・ソク」
(thuc)、 垂「たる・スイ」(thuy)、 常「つね・ジョウ」(thuong)
  積「つむ・セキ」
(tich) 罪「つみ・ザイ」(toi)など

 これらのことばはいずれも音がサ行であり、訓はタ行である。訓は古い時代の中国語音を留めたも   のであり、音は唐代の中国語音に依拠したものであろう。

 ○  山跡(やまと):
 万葉集では「やまと」は山跡、山常、八間跡、倭、日本、夜麻登、夜麻等、夜末等、夜萬登、也麻 等、などと表記されている。また、日本書紀では「やまとは国のまほろば」という歌謡が夜摩      苔
[jya-muai-də]と表記されている。夜摩苔を「やまと」と読むとすれば、魏志倭人伝にでてくる邪 馬台国[jia-mea-də]も万葉人は「やまと」と読むのではなかろうか。古代日本語では台はいわゆる と()」に使われている。等[təng] 、登[təng] 、騰[dəng]、止[tjiə]などの漢字は記紀万葉の時代にはみ な「と(乙)」に使われている。やまとことばでいう「やまと」とは魏志倭人伝にいう邪馬台国  のことである。
 魏志倭人伝では「南、投馬国に至る水行二十日。、、、南、邪馬台国に至る」としているが、投馬 国とは古事記の履中記にみえる「当麻道」あるいは「当摩 径」で、大和へ至る道のことであろう。

  告(のる):
 大野晋は岩波の日本古典文学大系の注で「ノルは朝鮮語
nil(話す)と同源」としている。手元の簡 単な朝鮮語の辞書では朝鮮語の「話す」はmalとなっているが、日本語の「祝詞(のりと)」ある いは沖縄の巫女「のろ」と関係のあることばであろう。

  者(は):
 日本語の助詞を表記したものである。中国語では助詞はほとんど使われない。朝鮮半島では漢字で 新羅語の助詞を表記する方法が工夫されており、これを吏 読(リトウ)という。李基文の『韓国語 の歴史』(大修館書店)によると吏読は金石文にも使われていて、慶州南山新城碑
(591)に次のよ うな碑文がみえる。

  辛亥年二月廿六日 南山新城作節 如法以作 後三年崩破者 罪教事為聞教令誓事之

  この碑文では、以(にして)、者(は)、為(する)、之(終止語尾)などは吏読である。万葉集 でも「者」は日本語の助詞「は」を表記するのに用いられて いる。本来中国語を表記するために考 案された漢字を朝鮮語や日本語を表記するためにはさまざまな工夫が必要であった。古代日本で文 字を司っていたのは 朝鮮半島出身の史(ふひと)であり、万葉集の表記にも朝鮮半島から渡来した 史(ふひと)がかかわっていたことは疑いの余地がない。

  呼(を):
 漢和辞典には「呼」の呉音は呼「ク」、漢音は「コ」とある。しかし、万葉集では「呼」、「乎」 ともに「を」に用いられている。「呼」、「乎」の古代中 国語音は呼
[xa]、乎[ha]であり、いずれも 日本語にはない喉音である。万葉集の時代の日本語では中国語の喉音[x-][h-]は脱落して呼「を」、 乎「を」にあて、日本語の助詞を表記するのにもちいられた。喉音はカ行音に近いので平安時代以 降の日本漢字音ではカ行に転移して呼「コ」と発音されるようになった。

  雄(を):
 「雄」の古代中国語音は雄
[hiuəng]であり、「呼」、「乎」と同じく喉音である。雄「を」は中国 語の喉音[h-]が失われたものである。「家毛名母」では「呼」も「雄」もともに呼「を」、雄 「を」に使われている。  
 日本の漢和辞典では絵
[huai]、会[huai]、恵[hyuei]は絵(呉音・エ、漢音・カイ)、会(呉音・エ、 漢音・カイ)、恵(呉音・エ、漢音・ケイ)とされている。これらはすべて古代中国語音の喉音   [h-]が脱落したものであろう。

もくじ

☆第125話 万葉人の声を聞く