第123話 万葉集の来た道

 第123話「万葉集の来た道」から第130話「やまとことばの成立」までは中部大学発行の雑誌『アリーナ』第8号(2010年3月)に『やまとことばの成立~万葉集に古代日本語の痕跡を探る~』に掲載し たものである。

 万葉集の来た道

 万葉集はやまとことばで書かれている。やまとことばは原始以来日本列島に伝わる日本語であり、まだ中国文化などの影響を受けていない純粋な日本語である、というのが鴨 真淵、本居宣長以来受けつがれてきた万葉集の見方だった。ところが、戦後になって皇国史観がくずれると、安田徳太郎という医師の書いた『万葉集の謎』と いう本がベストセラーになって万世一系のやまとことば史観に疑問の目が向けられるようになった。今では『万葉集の謎』は忘却のかなたに去ってしまって、 もっぱら大野晋のタミル語説がもてはやされている。安田徳太郎はいう。

わたくしはヒマラヤの谷底で、万葉時代の日本語を、現にしゃべっている民族につきあたった。それだけではない。かれらはわたしたちと同じに、アカンとか、ソ ワソワとか、シドロモドロという言葉までしゃべっていた。

レプチャ語とはネパールとブータンの中間にあるシッキムで使われている言葉である。タミル語にしてもレプチャ語にしても日本には概説書すらなく、検証することはむずかしい。

 万葉集の日本語とは世界の言語のなかにどのように位置づけられるのだろうか。万葉集は漢字で書かれている。漢字は紀元前13世紀に中国で生まれて、中国を中心に漢字文化圏を形成した。紀元前108年ころ朝鮮半島には楽浪郡など漢の植民地が置かれたから、朝鮮半島では紀元前から支配者が統治の道具として漢字を使っていたにちがいない。漢字は支配の道具であると同時に漢の文明を伝える道具でもあっ た。

5世紀後半の雄略朝を境に、日本でも文字の普及が顕著になる。日本書紀には雄略天皇が南朝に何回か使節を送り、上表を送ったという記録がみられる。その内容 は『宋書』倭国伝でも確かめることができる。また、考古学的にも埼玉県の稲荷山古墳から発見された刀剣の遺文があり、文字の使用が確認されている。稲荷山 古墳の刀剣の銘、獲加多支鹵「ワカタケル」は5世紀の日本語を再現するための定点となっている。倭王武つまりワカタケル大王のもとには、渡来系の史(ふひ と)がいて、記録に従事していた。

カナができたのは平安時代であり、朝鮮でハングルが制定されたのは李朝時代だから8世紀で東アジアにおいて文字といえば漢字のことである。雄略天皇が宋に 送った外交文書は勿論漢文である。漢字を使って朝鮮語や日本語を書く工夫も行われていた。朝鮮半島では吏読(りとう)や新羅の郷歌(ひやんが)がそれにあ たり、日本では『古事記』や『万葉集』がある。漢字を解読することでしか当時の日本語の姿を解明することはできない。

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☆第124話 万葉集のはじまり