第120話 古事記歌謡の復元 古事記と日本書紀には、それぞれ120首あまりの歌謡が載録されている。歌謡の表記は本文と違って漢字の音のみが使われている。歌謡の音価を復元することができれば、「やまとことば」を声で復元するこ とができる。 興味深いのは120首あまりのうち50首あまりは、同じ伝承の歌が、記紀に重複して記録されていることである。記紀の歌謡は同じ歌を、ふたつの異なった音 韻体系によって伝えているのである。これはかけがえのない史料である。記紀の歌謡は東洋のロゼッタ・ストーンともいえる。 「八雲立つ出雲」の段にでてくる有名な「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」という歌は古事記、日本書紀でそれぞれ次のように表記されている。 夜久毛多都 伊豆毛夜弊賀岐 都麻碁微爾 夜弊賀岐都久流 曾能夜弊賀岐袁(記) 高木市之助は「記紀歌謡の比較に就て」(『吉野の鮎』所収)のなかで、記紀歌謡は漢字の使い方が著しく食い違っていることを指摘している。 書紀の句の假名は、その歌謡中に十七囘も使用されてゐる慣用假名であるが、記の歌謡には一囘の用例もなく、反對に記の久はその歌謡に於て百二十九囘も使用されるクの専用假名であるのに、書紀に於ては僅か二囘の用例を持つ特殊な假名である。同様に「やへがき」の餓は書紀に於て 六十二囘の用例を持つに係らず記には一囘も使用されず、反對に賀は記に於て百四十二囘も慣用されてゐるのに、書紀では同じく一囘の用例を求める事も出来な い。(p.307) 例えば「妻ごめに」と「八重垣」を唐代の中国語音で復元してみると次のようになる。 [古事記] 都 麻 碁 微 爾、 夜 弊 賀 岐 [日本書紀] 菟 磨 語 昧 爾、 夜 覇 餓 枳 「つまごめに」の「ご」、「やえがき」 の「が」は、日本書紀では鼻濁音の語[ngia]、餓[ngai] が使われているが、古事記では鼻濁音が使われず、碁[giə]、賀[hai]が使われている。古事記は712年に編纂され、日本書紀は720年に成立したとされている。その成立年代は、わずか8年の違いである。わずか8年の間に日本 人が鼻濁音を発音できるようになったとは考えられない。古事記の史と日本書紀の史は違った音韻体系をもっていたと考えざるをえない。 アルタイ系の言語である日本語や朝鮮語では鼻濁音は語頭にこないという特徴をもっている。朝鮮語では現在も鼻濁音は語頭にくることはない。朝鮮漢字音では鼻濁音は脱落して「餓」は餓(a) 、「語」は語(eo) となる。古代の日本語でも鼻濁音は語頭にはこなかった。鼻濁音をもたない音韻体系の人が「夜覇餓枳」を読めば「ヤヘアキ」 となり、「菟磨語昧爾」は「ツマオメニ」になってしまうはずである。古事記歌謡を書いた史は語頭に鼻濁音のこない朝鮮漢字音系の音韻体系をもっていたと考えられる。 これに対して、日本書紀の史の音韻体系は唐代に長安で発音されていた正音に依拠していた。日本書紀が編纂された8世紀には、唐の都の正音を伝える音博士が招 かれている。「やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる やまとしうるわし」の歌謡について記紀の表記を比較してみるとつぎのようになる。 夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯(記) 「八雲立つ、、、」の歌と「やまとは国の、、、」の二つの歌について、古事記と日本書紀の歌謡の音価を対比してみると、つぎのようなことが判明する。 (1) 古事記歌謡には鼻濁音の漢字は使われていない。 (記)賀[hai]、 碁[giə]、 許[xa]、 日本書紀歌謡では鼻濁音の語[ngia]、餓[ngai] が使われているが、古事記歌謡では鼻濁音が使われず、そのかわりに碁[giə]、賀[hai] が使われている。古事記の史が朝鮮半島出身であり、「語」、「餓」を語(eo)、餓(a)と発音していたとすれば、古事記のなかで「語」、「餓」がガ行音に使われなかったとしても不思議はない。 (2) 古事記歌謡では、日本書紀歌謡で濁音が使われているところに、清音の漢字が使われているこ とが多い。 (記)曾[tzəng]、
登[təng]、
本[puən]、
都[ta]、 波[puai]、 日本書紀歌謡を古事記の史が読めば、「ぞの八重垣」「やまど」「まぼろば」となってしまうはずである。古事記の史にとっては贈(ぞ)、苔(ど)、倍(ぼ)と 読むべき同じ文字が、日本書紀の史には贈(そ)、苔(と)、倍(ほ)と読めた。これは中国語における音韻変化の結果を映している。中国では贈[dzəng]、苔[də] などの濁音は長い時間をかけて清音に変化して、唐代には贈[tzəng]、苔[tə] になった。古事記の史は古い時代に中国から朝鮮半島を経て伝わった古代中国語音の痕跡を留めているのに対して、日本書紀の史はより新しい中国語音を身につけていた。だから、古事記の史が濁音で読んだ漢字 を清音で読んだ。 (3) 古事記歌謡では中国語のわたり音(i 介音)が発音されていない。 久[kiuə] く、碁[giə] ご、流[liu] る、袁[jiuan] を、呂[lia] ろ、禮[lyei] れ、 古事記歌謡には久[kiuə]が久(キュウ)でなく久(く)に使われていている。これも、古事記の史が朝鮮語の音韻体系をもっていたとすれば説明がつく。朝鮮漢字音では久(ku)、九(ku)、口(ku)、丘(ku)、句(ku)、流(lu)であり、中国語音の介音[-i-]は失われる。古事記で中国語音の介音[i]が失われているのは、朝鮮漢字音の影響である。古事記の史が朝鮮漢字音系の音韻体系をもっていたことはほとんど疑いの余地がない。 (4) 邪馬台国は「やまと」である。 「やまと」は古事記では「夜麻登」と表記されているが、日本書紀では「夜摩苔」と表記されている。夜摩苔は唐代の中国語音は夜摩苔[jya-muai-də]である。日本漢字音で一般に苔(タイ)、廼(タイ・ナイ)、耐(タイ)と読まれる漢字は記紀では古代日本語のオ段乙の音にあてることが多い。苔(ト(乙))、廼(ノ(乙)・ト(乙))、耐(ド(乙)) のごとくである。 『魏志倭人伝』は記紀より約500年前の書物であるが、邪馬台国に関する記述がある。邪馬台の ちなみに、『魏志倭人伝』によると邪馬台国の手前には投馬国があるという。投馬国がどこかについても、学者の意見は分かれている。董同龢によれば「投」の古代中国語音は投[d’ug]であり、當[tâng]に近い。投馬は當麻(たぎま)であろう。投馬が當麻だとすると、「やまと」への道筋としてきわめて自然であり理解しやすい。 |
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