第115話 改訂版『古事記傳』の試み

 第115話「改定版『古事記傳』の試み」から第 122話「やまとことば再考」までは中部大学発行の雑誌『アリーナ』(2009年3月発行)第6号に「「やまとことば」再考~改訂版『古事記傳』の試み ~」として掲載したものである。

はじめに

 本居宣長は『古事記傳』を書くことにより、日本の国の歴史にとって核心的な問い――日本人とは何か、日本語とはどのような言語なのか――を明らかにしようとした。古 事記は漢字で書かれてはいるが、漢意(からごころ)を清く濯ぎ去るとそこに古来のから伝わる「やまとことば」の姿が現れてくるというのが本居宣長の基本的 な考えかたである。

 『古事記』の天孫降臨という建国の神話は戦後、打ち砕かれたが、「やまとことば」は記紀万葉の時代から今日に至るまで受け継がれているという考え方は、本居宣長の時代 から変らすに継承されている。本居宣長は、当然のことながら、一九世紀にヨーロッパで発展した言語学の成果を取り入れることはできなかった。また、近年急 速に進展した古代中国語の音韻の研究などの成果も取り入れることはできなかった。本稿は本居宣長以降に明らかになった音韻学、一般言語学などの成果を取り 入れて『古事記傳』の改訂をしようとする試みである。

 天地初發の段の解読

 『古事記』本文の冒頭の部分は次のように書かれている。

(原文)
  天地初発之時。於高天原成神名。天之御中主神。(訓高下天云阿麻。下效此)次高御産巣日神。次 神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隠身也。

本居宣長は『古事記傳』で、神代一之巻の冒頭の部分を次のように解読している。

天地(あめつち)のはじめの時、高天原(たかまのはら)に成りませる神のみ名は、天(あめ)の御中主(みなかぬし)の神。次に高御産巣日(たかみむすび)の 神。次に神産巣日(かみむすび)の神。この三柱(みはしら)はみな獨神(ひとりがみ)なりまして、み身(み)を隠したまひき。

『古事記』の解読は本居宣長にとって漢文の読み下しなどではなく、古代日本語を復元する作業であった。そこに、中国語を借用する以前から日本列島にあったはず の純粋な「やまとことば」があらわれてくる、と本居宣長は考えた。この考え方は基本的には現代の学者や研究者にも受け継がれていている。

古事記の冒頭の部分についてみると、名詞、動詞はすべて訓で読まれている。

天地(あめつち)、初発(はじめ)、時(とき)、成(なる)、神(かみ)、名(な)、
三柱(みはしら)、獨(ひとり)、隠(かくす)、身(み)、

中国語は孤立語と呼ばれ日本語の助詞や敬語などはほとんど使われないが、『古事記』では日本語の助辞をあらわすための工夫がこらされている。

之 (の)、者(は)、而(て)、坐(ます)、也(不読字)。

「高天原」については割註がついていて「天は阿麻と云う」とあるから、古くから「天」は訓で「あま」と読まれていたことがわかる。中国語を表記するために作ら れた漢字で日本語を書き表すためには音と訓という二つの方法が併用された。音は中国語音を依拠した日本漢字音のことである。これに対して訓は「やまとこと ば」に意味のうえで対応する漢字を選んだものである。これが太安萬侶以来の音訓についての基本的な考え方であり、この区分は本居宣長はもとより、現代の国 語学者にも継承されている。

もくじ

☆第116話 「やまとことば」はどこから来たか