第113話 借用語音の転移 11.弥生音は中国語原音から転移している。 借用語は一般に借用される側の言語の音韻構造に順応して転移する。たとえば、英語のviolinはヴァイオリンと表記することもできるが、一般にはバイオリンと日本語風に発音されている。ベートーベンの原音がBeethovenであったとしても始めのbと後のvを区別できる人はまれである。中国語からの借用語の場合も中国語音は日本語音に順応して転移する。注目に値するのは、これらの転移が一定の法則にのっとって行われるとい うことである。 11-1.日本語は母音ではじまることばが多い. 日本語は中国語などに比べて、ア行ではじまることばが多い。『広辞苑』ではア行で始まることばが全体の14パーセントである。これに対して、小学館の『中日辞典』で調べてみると、1パーセントにも満たない。朝鮮語ではア、ヤ、ワ行が、ハングルでは同じ行に収められているので、直接比較はできないが、およそ15パーセントで日本語に近い。日本語の特徴のひとつは、すべての音節が母音で終る開音節だといわれるが、母音で始まる語彙が多いのも日本語の顕著な特徴のひとつである。このため、古代中国語からの借用語で も語頭の子音が脱落することが多かった。 王力によると古代中国語でも、牙音、歯音、舌音などでi介音(わたり音)を伴なう音節では頭子音が失われることが多く、次の対語は同源語であるという。 (1) 牙音[k-]、[x-]、[h-]、[kh-]の脱落 景[kyang]:
影[yang]、
關(貫)[koan]:
彎[oan]、
嘻[xiə]:
噫(意)[iə]、 (2) 歯音[z-]、[s-]、[dz-]の脱落 痒[ziang]:
瘍[jiang] 、
象[ziang] :
豫[jia] 、
昔[syak] :
夜[jyak] 、 (3) 舌音[tj-]、[dj-]、[sj-]、[d-]、[th-]の脱落 止[tjiə]:
已[jiə]、
灼[tjiôk]:
炙[jyak] 、
術・述[djiuət] :
聿[jiuət] 、
陶[du] :
窯[jiô] 、 これらの単語は日本ではカ行、サ行、タ行音にあたる。「やまとことば」でも、カ行、サ行、タ行の日本漢字音で訓では語頭音が脱落したと思われるものがいくつかあ
る。 [牙音] 間[kean]ま、 飢[kiei]うえる、寄[kiai]よる、 弓[kiuəm]ゆみ、 居[kia]いる、 [歯音] 秋[tsiu]あき、 洗[syən]あらう、 息[siək]いき、生[sheng]いきる、産[san]うむ、 [舌面音] 赤[thjyak]あか、上[zjiang]あがる、射[djyak]いる、枝[tjie]え、 臣[zjien]おみ、 [舌音] 蜑[dan]あま、天[thyen]あめ、荻[thyek]おぎ、桶[dong]おけ、丹[tan]に、宅[deak]やけ、 古代日本語では日母[nj-]、中国語の疑母[ng-]、来母[l-]は語頭にくることがないので、声母(語頭子音)は脱落する。 [日母] 熱[njiat]あつい、 潤[njiuən]うるおう、餌[njiə]えさ、茹[njia]ゆでる、撚[njian]よる、 こ れらの「やまとことば」は古代中国語からの借用語であり、弥生音である。語頭の子音が失われたものが古く、語頭の子音を発音する日本漢字音の方が新しい。 日 本語のア行ではじまることばには馬「うま」、梅「うめ」、のように語頭に母音が添加されているものもある。
輯[dziəp]あつめる、憩[khiat]いこい 疼[duəm]いたむ 、泉[dziuan]いづみ、 古 代日本語では濁音ではじまることばがなかったため、母音添加は中国語原音が濁音ではじまることばに多くみられる。また、日本語ではラ行の音が語頭にくるこ とがないため、嵐(ラン・あらし)、爐(ロ・いろり)、麗(レイ・うるわし)、郎女(いらつめ)、郎子(いらつこ)のように母音を添加することがある。 11-2.日本語のカ行音の形成 日本語のカ行は中国語の牙音、見[k-]、渓[kh-]、群[g-]、疑[ng-]、暁[x-]、匣[h-]、と対応している。 金[kiəm]かね、 兼[kiam]かねる、 峡[keap]かひ、 簡[kean]かみ、 古代日本語ではガ行鼻濁音が語頭にくることがなかったので、古代中国語の鼻濁音は失われるか、転移するかいずれかを選ばざるをいなかった。 11-3.日本語のサ行音の形成 日本漢字音でサ行であらあれることばのなかには「やまとことは」ではタ行あるいはカ行であらわれることばがかなりある。 (1) 同じ声符の漢字がサ行とタ行に読み分けられることもある。 終(シュウ)・冬(トウ)、秋(シュウ)・狄(テキ)、 楯(ジュン)・遁(トン)、 古代中国語では[tj-]の音であったものが隋唐の時代になると[ts-]の音に変わった、ということが中国語音韻史では知られている。タ行音のほうが古く、サ行音のほうが新しい。日本語では訓ではタ行で現れる音が日本漢字音では サ行で現れる場合が多い。訓は古代中国語音に依拠しており、音は隋唐の時代の中古音に依拠している、ということがいえる。 作(サク・つくる)、散(サン・ちる)、 漬(シ・セキ・つける)、手(シュ・て)、 日本語ではサ行のジとタ行のヂの区別は失われ、サ行のズとタ行のヅの区別も失われた。漢字文化圏のひとつであるベトナム漢字音では作(tac)、散(tan)、取(thu)、手(thu)、盾(thuan)、束(thuc)などで、日本語のタ行に近い。 (2) 同じ声符の漢字でもカ行とサ行に読み分けるものもある。 堪「カン」・甚「ジン」、技「ギ」・枝「シ」、基「キ」・斯「シ」、祇「ギ」・紙「シ」、 日本漢字音ではカ行であらわれ、訓ではサ行であらわれることばがある。 これらはいずれもカ行音が古く、サ行音が新しい。埼玉県の稲荷山古墳からでた鉄剣の銘に「獲加多支鹵大王」という文字があり、五世紀の日本ではこれを「ワカタケル大王」と読んだ。この場合も支「ケ」は古 代中国語音に依拠している。 ベトナム漢字音では支(che,gie,xai,xe)、子(ga,ti,to)、其(ca,khe)、紙(giay)などと発音されている。日本語の訓読みは中国南部の発音の影響を受けて入る可能性がある。 日本語の場合も中国語音の歴史的変化の影響を受けて、カ行音・タ行音が破擦音化してサ行音に変化していったと考えられる。訓のカ行音またはタ行音は弥生時代の借用音であり、音のサ行音は文字時代に入って 日本漢字音として定着したものである。 11-4.日本語のタ行音の形成 日本語のタ行は中国語の舌頭音、端[t-]、透[th-]、定[d-]、泥[n-]、と対応している。
竹[tiuək]たけ、 築[tiok]つく、 塚[tiong]つか、 釣[tyô]つる、
照[tjiô]てる、 11-5.日本語のナ行音の形成 日本語のナ行音は中国語原音の[n-]に対応しているものと推定される。しかし、古代日本語のナ行のことばは中国語原音の[n-]に対応するものはほとんど見あたらず、粘[nyam](ネン・ねばる)がほとんど唯一の例である。しかも、「ねばる」の用例は記紀万葉の時代まではさかのぼることはできない。日本語のナ行は濁音[d-]、あるいは次清音[th-]に対応している。古代中国語の濁音は日本語の弥生音ではナ行になり、日本漢字音ではダ行に変化した。
鉈[dai]なた、 濁[diok]にごる、長[diang]ながい、塗[da]ぬる、 乗[djiəng]のる、 古代日本語に濁音ではじまる音節がなかったから、中国語原音の[d-]あるいは[th-]は日本語ではナ行で発音された。やがて、中国語の影響で日本語でも濁音ではじまる音節が定着してきて、日本漢字音ではダ行で発音されるようになった。[d-]、[th-]、[n-]は調音の位置が同じである。 また、日本語のナ行音は中国語原音の鼻音[m-]・[b-]・[nj-]・[ng-]に対応するものが多い。 [m-] 名[mieng]な、無[miua]ない、莫[mak]なき、亡[miuang]なくなる、鳴[mieng]なく、 日本漢字音では中国語の韻尾[-m]、[-n]も区別されず、いずれも「ン」であらわされる。古代日本語では語頭には濁音がこないという法則がある。[-m]、[-n]はいずれも鼻音(半濁音)である。古代中国語の[m-]は閉塞脣音であり、日本語ではナ行に転移した。やがて、馬「むま」、梅「むめ」などのように子音を重複して発音されるようになったのであろう。 11-6.日本語のハ行音の形成 記紀万葉の時代の日本語のハ行音は「ファ、フィ、フ、フェ、フォ」であったことが知られている。 (1) 日本語のハ行音には中国語原音の脣音[p-]、[b-]、[m-]が対応している。 [p-] 浜[pein]はま、 鉢[puat]はち、 稗[pie]ひえ、 嬪[pien]ひめ、 &
nbsp;繙[piuan]ひも、 (2)古代日本語のハ行音は牙音であった可能性がある 古代日本語のハ行には中国語原音の牙音(舌根音)[h-]、[x-]、[k-]、[g-]、[kh-]、[ng-]が対応しているものもみられる。 [h-]
脛[hyeng]はぎ、閑[hean]ひま、 媛[hiuan]ひめ、 戸[ha]へ、 降[hoəm]ふる、 日本漢字音のハ行には脣音[p-]、[b-]、[m-]が対応している。中国語の牙音が日本語ではハ行であらわれるのは訓だけである。弥生時代の日本語音では中国語の牙音は日本語のハ行に転移した。牙音は脣音よ り古い体系の借用語の痕跡である。古代中国語の牙音は日本語ではカ行(金=かね、玄=くろ、など)サ行(子=こ、臭=くさい、など)であらわれることはす でに述べた。また、頭子音が脱落してア行(穴=あな、行=ゆく、など)であらわれることもある。牙音のうち喉音([x-]および[h-])は日本語にはない音であり、古代日本語では頭音が脱落してア行であらわれるものが多い。 古代中国語の喉音はドイツ語のich、nochのような音だったものが摩擦音に変化した。その影響を受けてi介音を伴なうものは、日本語でサ行にあらわれるようになる。朝鮮漢字音では古代中国語の[k-]、[g-]はカ行であらわれ、[x-]、[h-]はハ行であらわれる。 11-7.日本語のマ行音の形成 古代日本語ではマ行音が語頭にくる場合に母音添加することがある。カールグレンは馬「うま」、梅「うめ」を例にあげているが、まだほかにも例はある。 (1) 母音添加の例 夢[miuəng] いめ、妹[muət]
いも、 未[miuət]いまだ、馬[mea]
うま、 万葉集では「馬」は宇摩、宇麻、宇麼、宇馬、宇万、馬、牟麻などと表記されている。 「梅」は烏米、烏梅、宇米、宇梅、汙米、于梅、梅などと表記されていて、中国原音の[m-] を「むま」、「むめ」などと発音していた痕跡がみられる。 「海」の古代中国語音は海[xuə]であるとされている。現代中国語音は海(hai)である。 「海」の声符は「毎」であり、日本語の海「うみ」は毎[muə]に依拠しているものと考えられる。「海」には[h-]のような入り渡り音があり、海[hmə]だった。現代の上海語では「海」は海(hmuə)と発音され、mの前にhという入り渡り音が聞こえるという。(宮田一郎編著
『上海語常用同音字典』光生館、参照)中国語では入りわたり音の[h-]が発達して海(hai)となり、日本語では[h-]が脱落して海「うみ」になったのであろう。 [m-] 眉[miei] まゆ、 眸[miu]め、 麦[muək]
むぎ、 厖[meong]むく、 [m-]、[b-]はいずれも脣音であり調音の位置が同じである。[ng-]、[nj-]は鼻音であり調音の方法が 11-8.中国語ラ行音の転移 日本語の<基層>にはラ行ではじまることばはなかった。しかし、中国語からの借用語のなかには中国語の[l-]がナ行、タ行に転移して日本語に受け入れられたことば、ラ行の頭音が脱落したことばなどが弥生音の段階からみられる。ラ行とナ行、タ行は調音の位置が同じである。 ナ行の例:梨(リ・なし)、浪(ロウ・なみ)、練(レン・ねる)、流(リュウ・ながれ)、 これらのことばは、日本人がラ行の頭音を発音できるようになる以前に、借用語として日本語のなかに取り入れられたものである。 スウェーデンの言語学者カールグレンは、中国語の[l-]は古代中国語では[gl-]であったのではないかと推論している。その理由は、中国語には楽「ラク・ガク」のように、ラ行でもガ行でも読める漢字がいくつかあるからである。 各「カク」・落「ラク」、 監「カン」・藍「ラン」、兼「ケン」・簾「レン」、 「やまとことば」のなかにも古代中国語の[gl-]の音を継承しているのではないかと思われることばがいくつかある。 栗(リツ・くり)、輪(リン・くるま)、辣(ラツ・からい)、籠(ロウ・かご)、 11-9.ア行音、ヤ行音、ワ行音の転移 中国語の発音では頭子音と母音の間に介音(わたり音)がみられる。介音には拗音(i介音)、合音(u介音)、撮口音(iu介音)があり、その発達は地方により、また時代によって異なるので同じ声符号の漢字でも異音が生じることがある。 例:維(イ)・唯(ユイ)・淮(ワイ)、委(イ)・倭(ワ)、苑(エン)・腕(ワン)、 例;悪(アク・わる)、闇(アン・やみ)、依(イ・よる)、詠(エイ・よむ)、 |
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