第109話 古代日本語の音韻構造

5.古代日本語の音韻構造

 古代の日本語にはいくつかの特色があることが知られている。

 (1) 古代日本語には「ン」で終る音節はなかった。
 
(2) 古代日本語には語頭に濁音がくることはなかった。
 
(3) 古代日本語にはラ行ではじまることばはなかった。

 そのほか、古代日本語では母音が五つではなく八つあった、などが知られている。このうち、ラ行ではじまることばがない、語頭に濁音がくることがない、前舌母音と後舌母 音が母音調和をなす、などの特徴はアルタイ語である朝鮮語と共通である。日本語の音節構造は中国語とは著しく違うため、古代日本語における中国語からの借 用語はさまざまな変容をうける。

5-1.古代中国語の韻尾[-n][-m]は弥生音ではナ行またはマ行で現れる。

 古代日本語「ン」で終る音節はなかったので、古代中国語の韻尾[-n][-m]は弥生音では寄生母音をつけてナ行、またはマ行の音で置き換えられた。

[ナ行]
金(キン・かね)、  絹(ケン・きぬ)、兼(ケン・かる)、秈(セン・しね)、

段・壇(ダン・たな)、店(テン・たな)、殿(デン・との)、 免(メン・まがれる)、
[マ行]
 
闇(アン・やみ)、 坩(カン・かめ)、 肝(カン・きも)、 簡(カン・かみ)、
坩(カン・かめ)、 君(クン・きみ)、 鎌(ケン・レン・かま)、混(コン・こむ)、
困(コン・こる)、滲(シン・しる)、沁(シン・しる)、 浸(シン・しる)、
侵(シン・せる)、占(セン・しる)、染(セン・そる)、 純(ジュン・すむ)、
蝉(ゼン・せみ)、 苫(セン・とま)、  弾(ダン・たま)、  填(テン・つる)、
屯(トン・たろ)、鯰(ネン・なず)、繙(ハン・ひも)、 蟠(バン・へび・へみ)、
浜(ヒン・はま)、 嬪(ヒン・ひめ)、  文(ブン・ふみ)、 眠(ミン・ねる)、

 上に掲げた漢字の読み方のうち、「カタカナ」で表記したものは音であり、中国語音の借用であると考えられている。「ひらがな」で表記したものは「やまとことば」だと一般には考えられているが、音は文字 時代以降の借用語であり、訓は弥生時代の借用語である。古代中国語では[-m][-n]が区別されていたが、日本語では[-n][-m]も「ン」となり、区別されない。日本語の「ン」がマ行音に近いことは「行かむ」、「止まむ」の「む」が現代の日本語では「ン」となっていることからもわかる。

中国語でも広東語、福建語などでは区別されているが、北京語では区別されていない。また、朝鮮語でも[-n][-m]は区別されている。

日本漢字音

朝鮮漢字音

広東語

福建語

上海語

北京語

-n「ン」

-n

-n

-n

-n/ñ

-n

-n「ン」

-m

-m

-m

-n

-n

5-2.古代中国語の韻尾[-ng]は弥生音ではカ行で現れる。

中国の言語学者、王力によれば、古代中国語音でも[-ng][-k]は転移しやすく、つぎの対語は同源語である。

[ngak] ・ 迎[ngyang] 、 読[dok] ・ 誦[ziong] 、 董[tong] ・ 督[tuk] [kə]・ 更[keang]

中国語韻尾の[-ng][-k]はいずれも後口蓋音であり、調音の位置が同じである。調音の位置の同じ音は転移しやすい。日本漢字音でも同じ声符をもった漢字が交通「コウツウ」、比較「ヒカク」のように二通りの読み方がある場合がみられる。

交「コウ」:較「カク」、雙「ソウ」:隻「セキ」、広「コウ」:拡「カク」、
 暴「ボウ」:爆「バク」、容「ヨウ」:欲「ヨク」、兢「キョウ」:克「コク」、

 これらの漢字音はいずれも較「カク」などのようにカ行で終るものが古く、交「コウ」のように音便形で終るものの方が新しい。次の日本語は音・訓ともに中国語からの借用語である。

泳(エイ・およぐ)、往(オウ・ゆく)、  奥(オウ・おく)、横(オウ・よこ)、
 影(エイ・かげ)、 嗅(キュウ・かぐ)、 筐(キョウ・かご)、茎(ケイ・くき)、
 効(コウ・きく)、 勝(ショウ・する)、咲(ショウ・さく)、盛(セイ・さり)、
 性(セイ・さが)、 爽(ソウ・さやか)、 塚(チョウ・つか)、桶(トウ・ヨウ・おけ)、
 湧(ユウ・わく)、 涌(ヨウ・わく)、  羊(ヨウ・やぎ)、 楊(ヨウ・やぎ・やなぎ)、
 揚(ヨウ・ある)、夭(ヨウ・ゆく)、

 一般に、隋・唐の時代の中国語韻尾/-ng/のうち声調が去声のものは、古代中国語では[-k]あるいは[-g]であったと考えられている。日本漢字音は隋・唐の時代の中国語音に依拠しているが、「やまとことば」のなかの中国語からの借用語は古代中国語音に依拠している。

日本語の「かげ」には光と影のふたつの意味がある。

①(日・月・燈火などの)光。

「渡る日の加氣(かげ)にきほひて」(万4469
    「燈火を月よにたぐへその可氣も見む」(万4054
    「池水に可氣(かげ)さへ見えて」(万4512
   「可宜(かげ)に見えつつ忘らえぬかも」(万149

② 光が物に当って、光の反対側に生じる暗い像。

「橘の(かげ)踏む道の」(万125

 日本語の「かげ」は古代中国語の光[kuang]と影[yang]に依拠している。影[yang]は景[kyang]と声符が同じであり、影にも景の音があったものと思われる。白川静の『字通』によると「影[yang]は景[kyang]の子音が脱落したもので、影の声義において通用する」とある。日本語には[-ng]の発音がなかったので、古代中国語の光[kuang]は「かげ」となり、影[kyang]も「かげ」として文字時代以前に日本語に受け入れられた。

日本語の「かがやく」は中国語の光耀[kuang-jiôk]と関係のあることばであろう。また、「かぐや姫」は「光や姫」である。「天の香具(かぐ)山」は古代飛鳥の藤原宮の東、太陽の登る方向に位置する「光山」の意であろう。

5-3.古代中国語の韻尾[-p][-t][-k]は母音を添加してハ行、タ行、カ行で現れる。

日本語は開音節だが中国語には韻尾が[-p][-t][-k]で終る入声音がある。古代日本語では中国語の入声音は寄生母音をつけて二音節に発音された。

(1) 古代中国語の[-k]は日本語ではカ行・ガ行で現れる。

腋(エキ・わき)、  酢(サク・さけ)、  鵲(サク・さぎ)、削(サク・そぐ)、
  索(サク・さす)、塞(ソク・せき)、  竹(チク・たけ)、築(チク・つく)、
  啄(タク・つつく)、着(チャク・つく)、突(トツ・つく)、剥(ハク・はぐ)、
  麦(バク・むぎ)、  訳(ヤク・わけ)、

(2) 古代中国語の[-t]は日本語ではタ行・ダ行で現れる。

葛(カツ・く・から)、 舌(ゼツ・した)、卒(ソツ・そち)、鉢(ハツ・はち)、
  筆(ヒツ・ふで)、    佛(フツ・ほけ)、

(3)   古代中国語の[-p]は弥生音ではハ行・バ行で現れる。(注5)

渋(ジュウ・しい)、蝶(チョウ・て)、 塔(トウ・た)、峡(キョウ・か)、

注5)中国語韻尾の[-p]は旧かな使いではハ行であらわれる。

もくじ

☆第110話 中国語韻尾音の転移