第108話 弥生音の特色

4-1.古代日本語ではラ行ではじまることばはなかった

 古代日本語には、朝鮮語と同じように、ラ行ではじまることばはなかった。だから、ラ行ではじまることばはすべて借用語である。万葉集ではラ行ではじまることばは、ほとんど使われていない。

池神の 力士儛(まひ)かも 白鷺の 桙(ほこ)啄(く)ひ持ちて 飛びわたるらむ
(万3831)

「力士舞」というのは伎楽の一種であり、金剛力士に扮した男が面をつけ、桙をもって舞った。「力士」は万葉集のなかで用いられている数少ないラ行で始まること ばであり、中国語からの借用語である。源氏物語のころになるとラ行のことばは、仏教用語を中心にかなり使われるようになる。ラ行ではじまることばがないの は日本語、朝鮮語などアルタイ系言語の共通の特色である。ラ行ではじまることばは明治以前は中国語から日本語に入ってきた。

  駱駝「らくだ」、螺鈿「らでん」、蘭「らん」、栗鼠「りす」、龍「りゅう」、
 瑠璃「るり」、輪廻「りんね」、坩堝「るつぼ」、流転「るてん」、轆轤「ろくろ」、

明治以降の借用語は英語などヨーロッパの言語からの借用が多い。

 ライオン、ラジオ、ラムネ(レモネードの略)、ランプ、リズム、リボン、ルビー、
 レコード、レストラン、レモン、レンズ、レントゲン、ロケット、ロボット、ロマンス、

『広辞苑』ではラ行で始まる言葉を調べてみると79ページ、全体の約3パーセントもある。『時代別国語大辞典(上代編)』ではわずかに0.4パーセントである。日本語がいかに多くの借用語を受け入れているかをみるひとつの指標といえる。

4-2 古代日本語ではガ行鼻濁音が語頭にくることはなかった

古代日本語では、朝鮮語と同じようにガ行鼻濁音ではじまることばはなかった。古代日本語では「あ」が一人称を表わすことばとして使われている。

(あ)はもよ女(め)にしあれば汝(な)を除(き)て男(を)は無し汝(な)を除(き)て
  夫(つま)は無し
(古事記歌謡6)
  (あ)を待つと君が濡れけむあしひきの山の雫にならましものを(万108
  あぢの住む渚沙(すさ)の入江の荒磯松(あ)を待つ児らはただひとりのみ(万2751

「あ」は「あれ」、「わ」、「われ」とともに古代日本語では一人称をあらわす。「あ」は「わ」より古い形であり、すでに奈良時代から「あ」の用例は「わ」よりも少ない。そして、平安期には「わ」「わが」 の形だけが残った。「あ」は古代中国語の我[ngai]あるいは吾[nga]の語頭音[ng-]が脱落した形である可能性がたかい。

 「やまとことば」のなかには古代中国語の語頭の 鼻濁音[ng-]が失われたものがほかにもある。

例:我(ガ・あ)、吾(ゴ・あ)、顎(ガク・あご)、魚(ギョ・うお)、御(ギョ・お)、
 仰(ギョウ・あおぐ)、

  これらの借用語は朝鮮漢字音の影響を受けている。

4-3 古事記・日本書紀歌謡の漢字音

高木市之助は「記紀歌謡の比較に就て」(『吉野の鮎』所収)のなかで、記紀歌謡は漢字の使い方が著しく食い違っていることを指摘している。

書紀のの假名はその歌謡中に十七囘も使用されてゐる慣用假名であるが、記の歌謡には一囘の用例もなく、反對に記のはその歌謡に於て百に十九回も使用されるク専用假名であるのに、書紀に於ては僅か二囘の用例を持つ特殊な假名である。同様に「やへがき」の餓は書紀に於て六 十二囘の用例を持つに係らず記には一囘も使用されず、反對に賀は記に於て百十二回も慣用されてゐるのに、書紀では同じく一囘の用例を求める事も出来ない。(p.307)

日本書紀歌謡では鼻濁音の語[ngia]、餓[ngai] が使われているが、古事記歌謡では鼻濁音が使われず、そのかわりに碁[giə]、賀[hai] が使われている。「語」、「餓」の朝鮮漢字音は語(eo)、餓(a)である。古事記の史が朝鮮半島出身であり、「語」、「餓」を語(eo)、餓(a)と発音していたとすれば、古事記のなかで「語」、「餓」がガ行音に使われなかったとしても不思議はない。

古事記歌謡には「久」が使われていて、日本書紀歌謡には使われていないというのも、古事記の史が朝鮮語の音韻体系をもっていたとすれば説明がつく。朝鮮漢字音では久(ku)、九(ku)、口(ku)、丘(ku)、句(ku)であり、中国語音の介音[-i-]は失われる。日本書紀の編纂時には音博士などが招聘されており、日本書紀歌謡の漢字は隋唐の時代の中国語音に依拠している。

もくじ

☆第109話 古代日本語の音韻構造