第107話 日本語の古層 第107話から第114話までは平成19年に「大正大学研究紀要」第92号に載せた『「やまとことば」のなかの中国語からの借用語』の内容をできるだけ忠実 に載録したものである。大学の研究紀要はその性質上極めて限られた読者に向けられたものであるので、目にふれた人は少ないはずである。そのため、原文にほ とんど手を加えず載録することにした。以下はその本文である。 1.日本語の古層 日本語の<古層>はどのように形成されたか?日本語の源流は「やまとことば」であり、「やまとことば」は古来から不変のものとみなすのは、戦前の日本主義の ステレオタイプであり、それは今日に至るまで形を変えながら繰り返されている。筆者は、歴史を貫く一貫した<古層>を認めず、それを歴史的に形成されたも のと考える。 日本語が文字として記録されるようになるのは五世紀後半以降のことである。稲荷山鉄剣の銘などから、日本列島で漢字が使いはじめられていることがわかる。中 国側の資料でも、『宋書』倭国条に倭の五王のことが書かれており、これも五世紀のことである。日本では七世紀末から八世紀はじめ頃、大陸文化の影響下に、 一気に政治体制が整えられ、それに併せて、さまざまな文化が花開くことになる。『古事記』『日本書紀』のような歴史書が著わされ、『万葉集』の大歌人柿本 人麻呂などが現われる。 記紀万葉の日本語は一般に「やまとことば」と呼ばれているが、そのなかには、弥生時代以降中国文化の圧倒的な影響ものもとに、中国語から借用された日本語の<古層>を みることができる。この論文では日本が本格的に文字時代に入る前に中国語から借用されたことばの発音を「弥生音」と呼ぶことにする。日本語はその出発点か らして、中国語との交渉の中で形成されてきたのである。 本居宣長(1730~1801) は「第一に、漢意(からごころ)・儒意を清く濯ぎ去りて、やまと魂をかたくする事を、要とすべし」(『うひ山ぶみ』)とした。それは、中国の影響以前の純 粋な日本のあり方に理想を見出そうというものである。しかし、記紀万葉の日本語から「漢意」をとりさることができるかどうか疑問である。文字時代以前から 歴史を一貫して貫く「やまとことば」の<古層>なるものはなく、<古層>自体が弥生時代以降中国との接触により歴史的に形成されてきたものであると考えら れる。 2.言語学者カールグレンの卓見 スウェーデンの言語学者Bernhard Karlgrenは”Philology and Ancient China”(1920)のなかで馬「うま」、梅「うめ」、絹「きぬ」、竹「たけ」、麦「むぎ」など20あまりのことばをあげて、これらの日本語は古い時代における中国語からの借用語ではないかと指摘している。戦後になって、国 語学者の亀井孝がこれに対して反論して次のように述べている。 (1) 間違いなく誤りと認めうる例 (2) 多分に疑わしい例 (3) あるいは認めてもよいかと思われる例 ここで重要なのは、亀井孝がカールグレンの説をほとんど全面的に否定しているにもかかわらす、あるいは認めてもよいかと思われる例として郡「くに」、絹「きぬ」、馬「うま」、梅「うめ」の四つが、訓よ みではあるが中国語からの借用語であることを認めていることである。 参考文献: 3.古代中国語音の痕跡 日本漢字音は隋唐の時代の中国語音に依拠して、日本が本格的文字時代に入った奈良時代から平安時代に定着したものである。それに対して、「やまとことば」のなかの中国 語からの借用語は古代中国語音に依拠して、弥生時代以降に米や鉄の文化とともに日本に入ってきたものである。これらの弥生音と中国語音の対応を確かめるに は隋唐の時代よりも古い『詩経』などの中国語音との対応を検証してみなくてはならない。 例えば、奥(オウ・おく)では一般に奥「オウ」が音、奥「おく」が訓とされている。「奥」は『韻鏡』では号韻であり、去声である。反切では「烏到」と表わされる。 「号」も「到」も日本漢字音の奥「オウ」と対応している。古代中国語音の音価については学者により若干の相違はあるが、王力によると「奥」は奥[uk]であり、台湾の音韻学者董同龢の『上古音韵表稿』によると奥[ôg ]去声である。(注1) 中国語の音韻史をさかのぼってみると、「奥」の古代中国語音は奥[uk]あるいは奥[ôg]であり、「奥」は隋唐の時代になると奥/ung/あるいは奥/ông /へと変化した。日本語の奥「おく」は古代中国語音に依拠したものであり、日本漢字音の奥「オウ」は隋唐の時代の中国語音に依拠した借用語である。(注2) 万葉集のなかでは「おく」は意枳、於吉、於伎、己、意吉、於支、奥などと表記されている。 「蜻蛉羽(あきづは)の袖ふる妹を玉くしげ奥(おく)に思ふを見たまへ吾が君」(万376) 『時代別国語大辞典(上代篇)』によると、沖「おき」は奥「おく」と同根であるという。 (1)沖・海・湖・川の岸より遠く離れた所。 「海原の意吉(おき)行く船を」(万874) (2)心の中。心の奥底。 「那呉の海の於伎(おき)を深めてさどはせる君が心の術も術なさ」(万4106) 万葉集の時代には「沖」の意味にも「奥」の字をあてていていた。その後、海の澚には「沖」の字をあてるようになり、「奥」と「沖」が文字のうえで区別される ようになった。「奥」には灰のおくに火種をかこっておく燠「おき」ということばもあったが、マッチの普及により、ほとんど死語になってしまった。 また、日本語の墓「はか」は、古代中国語の墓[mak]に依拠したことばである。「墓」は「莫」、「幕」などと声符が同じであり、古代中国語音では韻尾に[-k]があったとかんがえられる。古代日本語では語頭音は清音になるため墓[mak]は墓「はか」と発音された。やがて、中国語の影響で日本語でも語頭に濁音がくるようになり、また韻尾[-k]が失われて、日本漢字音では墓「ボ」と発音されるようになった。日本語の墓「はか」は古代中国語からの借用語であり、弥生音の痕跡を留めている。 日本語の塚「つか」は呉音が「チュウ」、漢音が「チョウ」、訓が塚「つか」であるとされている。「塚」の古代中国語音は塚[tiong]であり、高く土を盛りあげた墳墓の意味である。塚[tiong]の韻尾[-ng]は[-k]と調音の位置が同じである。「塚」の韻尾[-ng]は日本語にはない発音なので、古代日本語ではカ行で発音された。塚「つか」も弥生時代の借用語である。 漢字の「時」は音が時「ジ」、訓が時「とき」と一般に考えられている。しかし、「時」の声符は「寺」であり、同じ声符の漢字に特[dək]があることから、時は時[dək]という音ももっていたと考えられる。したがって、時(ジ・とき)はいずれも中国語からの借用語である可能性がある。時「とき」は弥生時代の借用音である。 注1)日本語音は便宜上旧かな使いで表記した場合がある。 4.朝鮮語音の影響 朝鮮半島では日本列島よりも早くから中国文化の影響を受けていたので、朝鮮語は中国語の語彙も数多く借用している。しかし、中国語と朝鮮語は音韻構造がまったく違うので、中国語からの借用語は朝鮮語音の影響をうけた。また、古代の日本語は 朝鮮半島を経て中国語の語彙を借用したものが多いので、弥生音も朝鮮語音の影響を受けている。朝鮮漢字音にはいくつかの特徴があることが知られている。 (1) 朝鮮語ではラ行音が語頭に立つことはない(注4) (2) 朝鮮語ではガ行鼻濁音が語頭にくることはない 我 (a)、 愕 (ak)、 岳(ak)、 魚 (eo)、 御(eo)、 愚(u)、 月 (wol)、 玉 (ok) 日本語の魚「うお」、顎「あご」、岳「おか」は古代中国語の魚[ngia]、顎[ngak]、岳[ngiok]の朝鮮語読みである。古代日本語の我「あ」も我[ngai]の朝鮮語読みであろう。 (3) 朝鮮語では中国語の韻尾の[-t]は規則的に[-l]に転移する 現代の朝鮮語では地下鉄(jiha-cheol)、万年筆(man-nyeon-ppil)
のように韻尾の[-t]は規則的に(-l) であらわれる。 日本語の擦(サツ・する)、刷(サツ・する)、払(フツ・はらう)、祓(バツ・はらう)なども朝鮮漢字音と同じ転移を示している。これらの漢字の朝鮮漢字音は擦(chal) 、刷(swal) 、払(pul) 、祓(pul) である。 注4)現代朝鮮漢字音、現代中国語音は( )であらわした。 |
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