第141話
古代日本語には母音調和があった。 古代日本語の母音は五つであったか、八つであっ たかというのは、実は大した問題ではない。世界の言語のなかには母音の数が五つのものあるし、八つのものもある。隣の朝鮮語などは主な母音だけで七つあ る。 古代日本語の 母音は甲乙に分かれるものも含めて八つあり、その母音の組み合わせに法則性があり、母音調和していることが後に発見された。母音調和とは、その言語のなか で使われる母音が男性母音、女性母音、あるいは陽母音、陰母音、中性母音などに分かれていることである。一般に男性母音は男性母音と共存するが、男性母音 と女性母音が同じ単語のなかに共存することはない。言語によっては男性母音の単語には男性母音専用の助詞がつき、女性母音の単語には女性母音専用の別の助 詞が用いられる言語もある。 アルタイ諸語(満州語などのツングース諸語、モ ンゴル語、トルコ語、フィンランド語、ハンガリー語など)に多く見られる現象である。上代日本語にも母音調和があったことを、有坂秀世などが、万葉集の母 音の甲乙を子細に調べることによって明らかにした。 このことによって、それまで系統不明の言語とさ れていた日本語がアルタイ系の言語であるという傍証がえられた。有坂秀世によれば古代日本語音は三つのグループに分けられるという。 1.オ(甲)音
とオ(乙)音
は同一語根内に存在しない。 許能美岐波 和賀美岐那良受 久志能加美 登許余迩伊麻須 伊波
多多須 須久那美迦微能 この御酒(みき)は 我が御酒ならず 酒(くし)の神 常世にい
ます 石(いは)立たす この歌を古代音で復元すると次のようになる。 こ(乙)の(乙)み(甲)き(甲)は
わがみ(甲)き(甲)な
らず くしの(乙)か
み(甲)
と(乙)こ(乙)よ(乙)に
これだけの例からも、甲類は甲類と結びつき、乙 類は乙類と結びつきやすく、中性の母音は甲類とも乙類とも結びつくことが分かる。 モンゴル語などでは母音調和は助詞にまで及び、 男性母音の単語には男性母音の助詞がつき、女性母音の単語には女性母音の単語がつく。しかし、古代日本語の場合は、母音調和は「の(乙)」、「ぞ(乙)」などには及んでいない。また、「み(甲)か(中)み(乙)」のように「み(甲)」は語幹とは切り離されているようにみえる。 フィンランド語などでは前舌母音の単語は活用語
尾も前舌母音であり、後舌母音の単語は後舌母音の語尾を使い分けるという。古代日本語の場合は、その意味では母音調和はすでに崩れかけているといえる。 朝鮮語の場合は、中期朝鮮語(高麗王朝の成立し
た10世紀から16世紀末ころ)までは母音調和がかなり残っていたことが知られている。朝鮮語の場合、母音は三つのグループに分かれている。 1.陽性母音(口の開きが大きい):a、o、ə、 有坂秀世はこれを万葉集についてまんべんなく調
べた。その結果到達したのが、上にあげた三つの法則である。古事記歌謡について三つの法則をあてはめてみると次のようになる。 1.オ(甲)音とオ(乙)音は同一語根内に存在しない。 2.ウ段音とオ(乙)音は同一語根内に共存することが少ない。 3.ア段音とオ(乙)音は同一語根内に共存することが少ない。 古事記歌謡で 検証しただけでも、かなりの例外を認めなければならない。「子ども」は「子・ども」、「一つ」は「ひと・つ」であると説明することができるかもしれな い。「思ふ」は「おも」が語幹である、動詞の活用語尾には母音調和は及ばない、つすることができるかもしれない。しかし、「大和」は「やま・と」である。 「まほろば」は「まほろ・ば」であろうか。「朝臣」は「あ・そ」であろうか。「眉」は「ま・よ」であろうか。 確かに「許々 呂=心=こ乙・こ乙・ろ乙」、「許呂母=衣=こ乙・ろ乙・も乙」、「登許余=常世=と乙・こ乙・よ乙」、「曾許=そ乙・こ乙」、「許曾=~こ乙・そ乙」、 「曾能=そ乙・の乙」、「許能=こ乙・の乙」などオ段乙類はオ段乙類と共存する場合が多い。しかし、古代日本語に母音調和があったといっても、モンゴル語 やフィンランド語に比べるとかなり崩れた形で残存したいたと認めざるをいない。 母音調和とは調音の流れのなかで、前の母音が後
の母音の調音にに影響を与え、あるいは後の母音が前の母音を引っ張るというような一般的が現象であり、アルタイ系言語はかりでなく、アフリカやアメリカ原
住民のことばにもみられるということが最近わかってきたという。 古代日本語に ついては甲乙の区別は認められるものの、甲乙の音価について定説がないのだから、これ以上議論を進めるのは困難であろう。しかし、日本語の語順が朝鮮語や モンゴル語、あるいはビルマ語やタミル語などドラヴィダ系の言語と同じであり、歴史的にどちらが先祖であるかどうかはともかくも、言語の類型として近いこ とは否定しようがない。 |
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