第140話
古代日本語音の復元 古代日本語には母音が八つあった。記紀万葉の時
代の日本語は文字としては残っているものの、その音を聞いた人は誰もいない。その日本語の音を文字をたよりに復元してみることにする。次の歌は古事記歌謡
の歌である。 許母理久能 波
都勢能賀波能
賀
美都勢爾 伊久比袁宇知
斯毛都勢爾
麻久比袁宇知 伊久比爾波 加賀美袁加氣 麻久比爾波 麻多麻袁加氣 麻多麻那須 阿賀母布都麻 阿理登 伊波婆許曾余 伊幣爾母由加米 久爾袁母斯怒波米 現代の日本語では同じになっている音がイ段、エ
段、オ段ではふつつにわかれていた。「上(かみ)つ瀬」の「上」は甲類で「かみ(甲)」だが「神」の場合は乙類で「迦微」などと書く。こ
の歌は次のように読まれる。 隠国の 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杙(いくひ)を打ち 古事記歌謡ではエ段に次のような漢字が使われて
いる。 【エ段】 [ ]は古代中国語音、( )は使用頻度、*は濁音をあらわす け(甲) : 祁[giei](37)、
牙*[ngea](1)
け(乙) : 氣[kiǝi](26)、
宜*[ngiai](6)、 祁(ぎ)、氣(き)、宜(ぎ)は現代日本漢字
音ではイ段であり、牙(が)はア段である。弊(へい)、幣(へい)、閉(へい)は二重母音であり、倍(ばい)、賣(ばい)、米(べい・まい)もまた二重母
音である。古代日本語には二重母音がなかったから、中国語音の[ai]、[ei]が古代日本語のエ段に使われたものと思われる。エ
段甲乙の区別がどのゆなものであったかは古事記歌謡の用例だけからは明らかでないが、け(乙)、へ(乙)、め(乙)には合音(u)の要素を含んだものが多い。 古事記歌謡では甲と乙が次のように使い分けられ
ている。 け(甲):祁布(今日)、迦祁(鶏)、多祁流(武)、祁理(け
り)、祁牟(けむ)、 へ(甲):伊弊(家)、麻弊(前)、淤岐弊
(沖辺)、弊具理(平群)、夜弊(八重)、 め (甲)
:遠登賣(乙女)、須賀志賣(清し女)、賣杼理(女鳥)、佐陁賣(定め)、 古事記歌謡でオ段に次のような漢字が使われてい
る。 【オ段】 [ ]は古代中国語音、( )は使用頻度、*は濁音をあらわす こ(甲) :古[ka](41)、故[ka](1)、胡*[ha](3)
こ(乙) :許[xa/xia](119)、碁*[giǝ](15)、其*[giǝ](1)、 甲類はほとんどが直音である。乙類は拗音(i介音を含む)か、あいまい母音である。現代の日本
漢字音では乙類の漢字は許(きょ)、叙(じょ)、杼(じょ)、呂(ろ・りょ)あるいは曾(そ・そ
う)、登(と・とう)、等(とう)、能(のう)、乃(の・ない)などと発音される。 古事記歌謡では甲と乙が次のように使い分けられて
いる。 こ(甲):古斐(恋)、古杼母(子ども)、美古(御子)、古須受(小
鈴)、
加志古志(畏
し)、 そ(甲):蘇良(空)、伊蘇(磯)、蘇弖
(袖)、須蘇(すそ)、阿蘇毘(遊び)、 と(甲):波斗(鳩)、佐斗(里)、斗
(戸)、斗比(問ひ)、斗理(取り)、 の(甲):袁怒(小野)、延斯怒(吉野)、多
怒斯(楽し)、斯怒(偲)ばめ、 も(甲):伊毛(妹)、久毛(雲)、伊豆毛
(出雲)、毛々(百)、毛由流(燃ゆる)、 よ(甲):麻用(眉)、用(夜)、伊佐用布
(いさよふ)、用理(~より)、 ろ(甲):斯路岐(白き)、久路岐(黒き)、
迦藝漏肥(陽炎)、牟盧(室)、 古代日本語の母音は八つあったというよりも、む
しろ古代日本語のイ段、エ段、オ段には直音と拗音あるいは合音の区別があったと考えるほうが自然ではなかろうか。古事記では、「も(甲)」は毛、「も
(乙)」は母と区別されていた。それが日本書紀や万葉集ではも(甲)とも(乙)は混用されて、甲乙の区別は失われている。古代日
本語の甲乙の区別はマ行(唇音)から失われはじめたらしい。マ行音は鼻音であり、口唇性が強い。そのため直音と合音の区別が失われたのであろう。 現代の日本語でもヤ行はア行の拗音であり、ワ行
は合音である。旧仮名使いでは「い・ゐ」、「え・ゑ」、「お・を」は区別されていた。古代日本語ではア行以外でも直音と拗音あるいは合音は区別されていた
と考えるべきであろう。 古事記歌謡でア行、ヤ行、ワ行の区別に用いられ
ている漢字は次のとおりである。古代日本語にはヤ行にもエ段の音があった。 ア行
ヤ
行
ワ
行 古事記歌謡ではヤ行、ワ行の音は次のように使わ
れている。 イエ 延(枝)、延(江)、延(兄)、延斯怒(吉野)、岐許延(聞
こえ)、
美延受(見
えず)、 古代日本語の 甲・乙の区別がまず最初に失われた。次にヤ行の拗音が失われた。だから、平安時代にできた五十音図には甲乙の区別もヤ行のイエもない。ワ行の合音は平安時 代を生き延び、旧仮名使いのなかにその痕跡を留めていたが、戦後の新仮名使いでは表記法上からもその区別は失われた。 |
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